古いですが、中国新聞の憲法記念日社説

もう1カ月前になりますが、中国新聞が、憲法記念日の社説で、「九条の会」の動きにも触れ、「九条の形骸(けいがい)化や平和主義の後退につながる改憲は避けたい」「九条を守る動きも潮流になっている」と述べています。

さらに、京都新聞、琉球新報もしっかりした社説を掲げています。

社説 憲法論議「九条」 そんなに不都合なのか(中国新聞 5/3付)

社説 憲法論議「九条」 そんなに不都合なのか

 衆院憲法調査会の最終報告書が九条の見直しに踏み込んだり、参院も環境権など新しい人権を加えるなど改憲に向け一歩を踏み出そうとしている。国民の意識に比べて政界が先行していると思える改憲論議。戦後六十年という節目の年の憲法記念日を機に考えたい。
 焦点はやはり九条である。衆院は一項の戦争放棄の理念は堅持。平和主義を維持すべきだとしながらも、自衛権としての武力行使を認める意見は多数とした。自衛権や自衛隊については「何らかの措置をとることを否定しない」との文言を盛り込み改憲の方向を明確にした。自民党新憲法起草委員会も九条を改め「自衛軍」を保持すると記す方針という。
 個別的自衛権は国際法上も認められている。しかし、「自衛」という名の下に、私たちは過去に侵略戦争を拡大していった苦い経験を持つ。自衛権や自衛軍を明記する狙いは何で、具体的にどう位置付けたいのか。きちんと見極める必要がある。
 衆院は国連の集団安全保障へ参加の是非について、「非軍事に限らず参加すべき」との考え方が多い。自民党は自衛軍が「国際貢献と安定に寄与する」とする。国際貢献・協力の名目で、海外での武力行使に道を開く選択は大いに疑問だ。武力によらない国連平和維持活動(PKO)を、ぎりぎりの国際貢献とするのが日本の姿勢ではないか。
 さらに自民党は政府が「憲法上行使を許されない」としてきた集団的自衛権の行使も、「自衛の概念に含まれる」と容認する意向。ただ改憲でなく、安全保障基本法(仮称)で規定する考えという。衆院も容認、制限付き容認、否定を併記しながら、行使を認める方向である。
 湾岸戦争以降、9・11米中枢同時テロなど憲法が想定した世界と現実との乖離(かいり)が改憲派の大きな理由になっている。小泉純一郎首相が「私に聞いたって分かるわけがない」と国会答弁したイラクの中の「非戦闘地域」に、自衛隊を派遣したのは憲法の一線を超えたといえる。
 「憲法の拡大解釈」を重ねて、なし崩し的に「改憲」してきた従来の手法に歯止めをかける必要はあるだろう。拡大解釈が結局は戦地への自衛隊派遣を可能にしたからだ。その一方で、自衛隊を堂々と海外に派遣すると現憲法に触れかねない。そこで書き換える必要に迫られるわけだ。九条の形骸(けいがい)化や平和主義の後退につながる改憲は避けたい。
 戦後、日本人が戦争で血を流さなかったのは憲法九条の成果といってよい。ヒロシマ・ナガサキなど戦禍に苦しめられた国民は、平和実現のための原典として現憲法を受け止めているのは間違いない。
 改憲の動きに抗して、昨年六月に発足した「九条の会」は全国で千二百八十のグループが結成された。各地の講演会は満員という。九条を守る動きも潮流になっている。
 国際情勢が変わっても、「武力によらない平和」という憲法の理念を踏まえることが大切だ。戦後の平和主義の伝統を喪失してはならない。核廃絶や完全軍縮の実現、南北格差の解消や女性の地位向上などに努力する。長い目でみると、一番ふさわしい選択に思える。[中国新聞 05/5/3]

まあ、「そんなに不都合か」というタイトルが、なんか腰が引けてるみたいで、ちょっと不満なんですが。(^_^;) まあでも、そういう言い方で「不都合じゃないだろう」と主張しているんだと思って、前向きに読んでおきます。

さらに、こっちは京都新聞の社説。

社説 憲法記念日 「平和主義」を発信する国に(京都新聞 5/3付)

憲法記念日 「平和主義」を発信する国に

 今年は戦後60年。日本の政治、経済の戦後史を考える上で重要な節目になる年だ。
 日本国憲法が施行されてから半世紀以上がたち、近年は憲法をめぐる議論が活発になってきた。
 きょうは憲法記念日。憲法が誕生した時を振り返りながら、その意義と役割をあらためて考えたい。
 憲法の施行日は1947(昭和22)年5月3日。まだ戦後の混乱が色濃く残る時だった。
 当日は朝から皇居の二重橋前で記念式典が行われた。翌4日付の京都新聞朝刊1面は「平和と自由の新時代へ」「雨の二重橋前、歓呼に沸く」の見出しで喜びを伝える。
 式典であいさつに立った当時の吉田茂首相は「国民がほんとうにその(新憲法の)精神を理解しその理想の実現に努力してゆかなければ国家の再建は期待する事が出来ない」と力説した。
 国会議員を代表した尾崎行雄氏も祝辞で「よい憲法を作ることは容易なことであるがこれを行うことは非常にむずかしい」と述べた。
 いずれも現代に通用する警告だろう。言葉の真意をあらためて玩味すべきではないか。
 新憲法の施行は、新しい日本の出発を意味した。国民の多くは平和国家づくりの努力を誓ったはずだろう。それなら現状はどうか、平和の取り組みを見直したい。
 国民的議論が必要だ
 近年、政党レベルの憲法をめぐる論議が活発になってきた。先ごろは衆参両院の憲法調査会が最終報告書をまとめた。
 最大の焦点は「九条」の取り扱いだった。衆院の報告書は「九条一項」(戦争放棄)の堅持を多数意見として明記。併せて「地域安全保障の枠組みが必要」として、全体では憲法改正の方向を打ち出した。
 一方、参院は改憲については賛否両論の併記にとどまった。懸案となっている集団的自衛権の行使容認については、衆参ともに明確な結論が出せなかった。
 衆参両院は5年間の議論を集約した報告書というが、各党の意見が一致したところは少なく、憲法に対する見方がばらばらであることをあらためて浮き彫りにした。
 憲法を論議する際の基本的スタンスは自民党が「改憲」、民主党は「論憲」か「創憲」、公明党「加憲」、共産、社民両党が「護憲」という。各政党の内部でも意見が分かれているのが実情だ。
 衆参の最終報告書議決を受けて共同通信社が行った全国電話世論調査では、改憲しようとする方向に約6割が賛成していた。だが、「九条改正」では反対派(4割)が賛成派(3割)を上回った。
 いずれにせよ、国民レベルの憲法論議はまだ不十分であり、今後は議論をさらに深化させるべきだ。
 拡大する九条の会
 自民党などの改憲へ向けての動きに危機感を抱き、昨年6月に文化人らが「九条の会」を発足させた。
 作家の大江健三郎氏や評論家の加藤周一氏ら9人が、「平和な未来のため、憲法九条を守ろう」と訴えて結成した会だ。
 全国9都市で開催した「九条の会」主催の講演会には、約3万人が参加する盛況ぶりを見せた。
 趣旨に賛同する人々が地域や職業別などの形で個々に「九条の会」を誕生させ、これまでに1200団体以上の「九条の会」ができている。
 京都では今年4月、仏教やキリスト教などの宗教者らが宗派を超えて「宗教者九条の和」を結成した。このような「九条の会」の活動からは、平和を求める市民の強い熱意がうかがえる。
 先月、東京都内で記者会見した大江氏は「国会や自民党の憲法改正案は考えていたものよりも弱かった。会の活動の効果が出ている」と評価して組織拡大を目指している。
 「九条の会」の支持者が増える背景には、イラクへの自衛隊派遣がある。現地は依然として戦闘に巻き込まれる恐れが残る。それだけに「九条」の意味をよく考えたい。
 戦中派の人々は、戦争を知らない戦後派世代に自らの戦争体験を語ってほしい。その話をさらに次の世代へと語り継いでもらいたい。
 国際社会への発信を
 国民主権、基本的人権、平和主義?は現憲法の重要な三原則だ。
 三原則の維持については、自民党内の改憲論者でも異論はないだろう。とりわけ平和主義は日本の存立だけでなく、世界平和の実現に結び付く重要な原則である。
 これまで日本は平和主義のメッセージを海外に十分発信してきたか。世界平和を構築するための努力をしているか。その検証が必要だ。
 世界で唯一の被爆国として、核兵器の廃絶に向けて核軍縮の必要性を強く訴えるべきだ。
 2日、ニューヨークで開かれた反核大集会に参加した長崎市の伊藤一長市長は「一日も早く核兵器をなくす道筋をつけよう」と演説した。だが、核廃絶の取り組みは、広島、長崎だけに任せる問題ではない。
 核拡散の恐れが現実になっている時だけに、日本政府には核保有国への積極的な働きかけを求めたい。それが憲法の精神を生かす道だ。
 一方で最近、中国、韓国との関係が悪化しているのが気掛かりだ。
 憲法の精神を考えれば、日本の軍国主義化はあり得ない。憲法前文と九条には大戦の惨禍に対する反省と平和への決意が込められている。
 憲法が示す平和主義をアジア各国にアピールして、日本は平和外交をもっと展開すべきだ。[2005年5月3日 京都新聞]

そいでもって、こっちが琉球新報が憲法記念日の前日に掲げた社説。

社説 憲法の危機・「戦力不保持」は平和主義の要 見直す理由が見あたらない(琉球新報)

社説 憲法の危機・「戦力不保持」は平和主義の要 見直す理由が見あたらない

 筆舌に尽くし難い犠牲を払った第二次世界大戦の反省から、日本では戦後まもなく「戦争放棄」と「戦力不保持」をうたった比類なき平和憲法が制定された。この新しい憲法の下で、平和と主権在民を手にした国民がこぞって「生きる喜び」をかみしめていたころ、沖縄は米国統治下にあり、人々は抑圧され、人権を踏みにじられる日が続いていた。
 憲法第九条の一項には「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とある。さらに二項で「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とある。
沖縄戦と米国統治
 激しい地上戦を体験した県民は軍隊が決して住民を守らず、逆に戦火へと追い込む場面があることを肌で感じていたから、この二項は画期的であった。
 九条一項の「戦争放棄」は必ずしも日本のオリジナルではない。似た表現の憲法を持つ国はあり、国連憲章にも不戦条約の精神が生かされている。その意味で国際標準といえるが、二項で「戦力不保持」に踏み込んだことは大きい。二項は戦後、政府が拡大解釈を繰り返し、骨抜きになっているとはいえ、一切の軍備を禁じていると読める。この項こそ平和主義の要となる部分であり、世界に誇れるゆえんだ。
 ところが米施政権下の沖縄で、憲法は適用されない。二五条には「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とあったが、沖縄は「国民」から排除され、生存権すら保障されない状態が長く続く。
 憲法へのあこがれを募らせた県民は一九六五年、立法院(当時)で住民の祝祭日に関する関係法令を改正し、本土と同じ五月三日を憲法記念日と定めた。復帰の七年前で米軍占領は続いていたが、異民族支配からの脱却を目指す祖国復帰運動へと発展していった。
 本土復帰で県民が手にした憲法はいま、平和主義などを一段と骨抜きにする方向で改正される危機にある。四月に衆、参両院の憲法調査会がまとめた最終報告書は、九条を含む改正の必要性を明確に打ち出した。国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の三原則は堅持し、九条一項の戦争放棄も維持するとしながら、一方で自衛権、自衛隊は「憲法上の措置をとることを否定しない」とし、集団的自衛権の行使についても立場が割れたとしている。
 しかし、報告書には矛盾点が多い。三原則を堅持するなら、あえて憲法を変える必要はないのではないか。戦争は放棄するが、戦力は持つというのも本来は説明がつかない。
「国を映す鏡」
 改正派には自衛隊を「自衛軍」に格上げしたい思いがありありだし、一度改正してしまえば次の改正で根幹を変えてしまうことが容易になるという、なし崩し戦略も透けて見える。
 憲法は前文で、政府の行為で再び戦争の惨禍が起こることのないようにすると決意し、主権が国民にあることを宣言している。この精神を見直す理由が見当たらない。
 国際貢献にしても「国際社会で名誉ある地位を占めたい」と前文にある。とかく米国の押し付けとされる憲法だが、生存権はGHQ案にはなく、衆院段階で修正追加されたものだ。そもそも憲法改正は日米の軍事同盟の強化を狙う米側が求めている側面もあり、押し付け論は説得力に欠けよう。
 「新しい人権」にしても、環境基本法や教育基本法などの法令で十分対応できる。これを持ち出すところに、意図的な改正容認ムードづくりを感じざるを得ない。
 本紙が大型連休直前に実施した県民世論電話調査では、憲法九条について「堅持すべき」が56%と半数を超え、「見直すべき」の40%を上回った。国際情勢が不安定な時代だからこそ、平和主義の精神が一段と輝いてみえる。
 憲法は「国を映す鏡」である。三日の記念日は、重箱の隅をつつくような粗探しをするよりも、平和主義や基本的人権を日々の暮らしにどう生かしていくか?を考えたい。それが、被害者にも加害者にもならない平穏な国づくりへの近道になる。[琉球新報 5/2 9:44]

神戸新聞は、9条問題ではちょっとはっきりしませんが、立憲主義の問題では、「国家が暴走しないように一定のルールをはめるのが近代憲法の原理「立憲主義」だが、政権党の憲法観はその逆方向を目指している」とズバリ指摘しているのが注目されます。

社説 憲法記念日/見分け、聞き分け、もっと語ろう(神戸新聞)

社説 憲法記念日/見分け、聞き分け、もっと語ろう

 きょう、憲法は58歳の誕生日を迎えたが、その身辺はいつもの年にもまして騒がしい。
 「衰えが目立ち始めた。もう交代したらどうか」と引退を迫る声の一方で、「時代に合った衣装を選び直せば、まだ十分働ける」と衣替えを促す主張もある。「いまの姿こそ理想」とする擁護論も根強い。いや実際はもっと多様であり、以前の「改憲対護憲」の構図を超えて、主張は入り交じっている。
 しかし、さまざまな意見が出ることは、歓迎すべきことだ。戦後60年、わたしたちはいかに生きてきたのか。これから先をどう生きたいのか。歴史と未来を重ねて、もっと「憲法」を語り合いたいと思う。
        ◇
 青い冊子は471ページ、黄色の方は半分ほどの厚みだが、それでも215ページある。衆参の憲法調査会が5年の議論を経て先月、相次いで出した最終報告書だ。共に一応「改憲」の方向を示してはいる。
 しかし、その中身はかなり違う。衆院が自衛権や自衛隊について「憲法上の何らかの措置を否定しない意見が多数」として9条改正を打ち出したのに対して、参院は賛否両論の併記にとどまった。
 もっとも衆院の「多数意見」にしても、民主党の「法的統制に関する規制を盛り込むべき」や公明党の「自衛隊に関する規定を追加するかは今後の議論」も含まれている。これをひとくくりにするのは、さすがに無理があったのだろう。回りくどく「何らかの措置を否定しない意見」とせざるを得なかった。
 参院で「すう勢の意見」とされたのは、環境権やプライバシー権の明記である。衆院も「多数意見」とした、この項目でまとめるのがやっとだった。「改憲」の方向といっても、かくも中身はばらばらだ。
 立憲主義とは何か
 だが、5年の議論はむだではなかったと考えたい。少なくとも、いま憲法で何が問題になっているのかが、それなりにみえてきたからだ。
 ひとつは「憲法とは何か」である。2つの報告書とも「多数」や「すう勢」意見にはしなかったが、国民の「権利と義務」にふれた。
 衆院では「国家、社会、家族・家庭への責任感や責務が軽視され、権利の主張のみが横行」しているとして、義務規定を増やすべきという意見を出している。
 今秋の党改憲草案作成に向けてのたたき台としてまとめた自民党の改憲要綱は、もっと端的な表現になる。「夫婦の協力で家庭維持」「親を敬う精神の尊重」「社会的費用の負担」などが並ぶ。「国防の責務」や「愛国心」もある。憲法とは、これほど事細かく国民に義務を説くものなのだろうか。
 国家が暴走しないように一定のルールをはめるのが近代憲法の原理「立憲主義」だが、政権党の憲法観はその逆方向を目指しているということだろう。
 環境権などの新しい人権保障にも、「憲法とは何か」の問いが含まれている。
 たしかに現憲法の制定時には想定できなかった課題ではある。憲法の「衣替え」論は、ここからきている。だが、しっかりとした個別法をつくれば対応できるというのが法学者の意見の大勢である。永田町では、何でも憲法に書き込もうという空気があるようだが、憲法に書けば問題解決できるというものではない。
 「詳細に書くほど賞味期限が短くなり、頻繁に改正しなくてはならなくなる」(紙谷雅子・学習院大教授)だろう。
 戦争はしたくない
 憲法論議は多岐にわたるが、焦点がやはり9条にあることもはっきりした。
 「戦争放棄」を変える必要はないが、自衛隊を「軍」と位置付け、海外派遣を「国際貢献」とし、集団的自衛権の行使にも余地を残すというのが自民党の主張だ。
 それでは歯止めが利かない。国民の間にも定着してきた自衛隊を憲法に明記する代わりに、活動範囲を明確にする。民主党は、そう主張する。9条の改正論も相当に幅が広い。
 こうした議論を国民は、どう受けとめているのだろうか。調査会報告の直後に実施した世論調査が、その一端を示している。61%が改憲に賛成としながら、9条改正については「必要と思わない」が改正派を上回った。
 今年初めの調査でも、改憲に80%近くが賛成と答える一方で、自衛隊の海外派遣や集団的自衛権の行使は反対が過半数を超えた。
 時代に合った条項が必要なら明記したらいい。もっとわかりやすい表現も考えた方がいいかもしれない。
 しかし、戦争はしたくないし、してはいけない。「国際貢献」は他にも方法はある。武力行使につながる考え方は取るべきではない。
 一見、矛盾しているようにも見えるが、世論調査からそんな声が読み取れるのではないか。政治は、それを見誤ってはならない。
 わたしたちも、もっと憲法を語ろう。自分の国のあり方を決めるのは、だれでもない、わたしたちなのだ。[神戸新聞 2005/05/03]

神奈川新聞の社説は、自衛隊のイラク派兵に触れて、「国連事務総長を含め世界中が批判した侵略行為を支持する平和主義とは何なのか。そのような逸脱を反省しないまま、海外での武力行使に道を開くような改正論議がなされていることに恐ろしさを覚える」とズバリ指摘。憲法の「理想はまだ完全には実現していない。日本国憲法の生命力はまだ尽きていない。私たちも現憲法の理想実現への努力を続けなければならない」との訴えは、すがすがしく感じられます。

社説 憲法記念日(神奈川新聞 5/3)-

社説 憲法記念日

 日本国憲法が施行されて58年。58回目の憲法記念日を迎えた。ついに大日本帝国憲法(明治憲法)の施行期間57年間(1890?1947年)を上回った。明治憲法が日本を破滅させて幕を閉じたのに対し、日本国憲法は現在も日本の平和と繁栄を支え続けている。その生命力と意義は高く評価されている。憲法改正への動きが本格化しているが、この日本国憲法を十分に生かし切ることをまず考えたいものだ。
 先月、衆参の憲法調査会が報告書をまとめ、濃淡の違いこそあれ、憲法改正の方向性を示した。衆院では、前文への歴史・伝統・文化の明記、自衛権及び自衛隊の憲法上の措置、環境権・知る権利・アクセス権・プライバシー権の明記、憲法裁判所設置、道州制導入、非常事態の創設など。参院では、新しい人権、プライバシー権、環境権の明記をうたっている。両報告書を受け、憲法改正への動きは新たな段階に入った形であり、自民、民主両党も改正案作成の取り組みを進めている。
 しかし、憲法改正を決して急いではならないと強調したい。なぜなら両報告書の内容には多くの疑問点があるからである。何より、憲法から現実政治を検証する姿勢が欠落している。現在の日本は、憲法をしっかり守り、その理想を実現する努力をしているのだろうか。問われるべきは、憲法ではなく政治ではないだろうか。
 典型的な例が、米英のイラク攻撃を支持し、「戦地」に自衛隊まで派遣したことの総括がなされていない点である。両報告書は、憲法の平和主義を今後とも維持発展させるべきだとし、第九条一項(戦争の放棄)の維持でほぼ一致した。しかし、国連事務総長を含め世界中が批判した侵略行為を支持する平和主義とは何なのか。そのような逸脱を反省しないまま、海外での武力行使に道を開くような改正論議がなされていることに恐ろしさを覚える。
 また、環境権など新しい人権についての議論も上滑りしている。憲法に明記する前に、国会にできることは山ほどある。国会はそうした努力をしてきただろうか。
 改憲を主張する政治家の一部からは、日本が抱える諸問題について、さも憲法に原因があるかのような言論が振りまかれている。それは、政治家の責任逃れであると同時に、ある意図を感じざるを得ない。報告書を読むと、憲法に国民の義務を増やすなどして、権力に都合のいい国民をつくろうとする構想が垣間見える。
 日本国憲法の国民主権、基本的人権の尊重、平和主義は、日本が先進民主主義国に発展する基盤だった。しかし、その理想はまだ完全には実現していない。日本国憲法の生命力はまだ尽きていない。私たちも現憲法の理想実現への努力を続けなければならない。

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