今村仁司『マルクス入門』

筑摩書房のマルクス・コレクションを読んでいる手前、仕方なく購読。

結論からいうと、あれこれ今村流マルクスを描いていますが、マルクスの全体像が見えてこないだけでなく、今村氏がいまマルクスを通して何を主張したいのかさえよく分かりませんでした。

全体として、『資本論』の話は、一部を除いて、主には価値形態論までで終わっており、たとえば未来社会における個人所有の復活という問題でも、「いったんは私的所有へと変質し頽落した個人所有を、もう一度共同所有と結合する」「個人所有と自由な個人を優位におき……共同所有を劣位におく仕方で、個人と共同体を結合する」など述べるだけで、意味不明というか、個人所有と共同所有の関係が問われている時に、その関係を明らかにしないままに、その周辺をあれこれさまよっているだけです。

とくに最後の2章は、「第4章と第5章は、いささか自説を押し出す試みをしてみた」(あとがき)だけあって、出来が悪いですね。

たとえば、180ページの「人間の解剖は、猿の解剖のための鍵」というマルクスの有名なフレーズの解釈は、まったくアベコベ。ちゃんと、マルクス自身が「低級な動物にあるより高級なものへの予兆は、このより高級なもの自体がすでに知られているばあいにだけ、理解することができる」と書いているのに、それを理解してないのでは?

補足:2005/06/04
180ページの引用について、あらためてマルクスの文章に当たってみると、今村氏の言っていることは、マルクスが言わんとしたこととまったくアベコベだと言うことがよく分かります。

今村氏が「中略」したとこでマルクスは、「(資本主義的)地代を知るならば、(封建的)貢租、十分の一税などを理解することができる。しかしそれらを同一視してはならない」と指摘しています。また、今村氏が引用をやめてしまったあとでは、「ブルジョア経済学の諸範疇が他のすべての社会諸形態にしたいして1つの真実性を持つ」としても「それは割引して受け取るべきである」、「ブルジョア経済学の諸範疇は、他の社会諸形態を、発展させたり、委縮させたり、戯画化したりなどしながら、それらを包含することはできるが、つねに本質的な区別をおいてである」と指摘しています。

つまり、マルクスは、現存の社会の中に残存している過去の社会の諸要素を、過去の社会形態そのものと同一視してはいけないと言っているのです。今村氏の言うことに引きつけて言えば、「過去の社会の基本構造を遡及的に認識」できないというのが、マルクスの言わんとすることだということです。
(以上、補足終わり)

また、「ヘーゲルの『精神』=運動する具体的現実=歴史は、マルクスの歴史時間の概念は構造的に同一である」(189ページ)と述べて、価値形態論の展開の話をやっていますが、今村氏のこの解釈だと、なぜ『資本論』の中で価値形態論のあとに、もう一度交換過程論が出てくるのか、理解不能でしょう。

さらに、マルクスが、第2版後書きで、研究が「素材の詳細をわがものとし、素材のさまざまな発展諸形態を分析し、それらの発展諸形態の内的紐帯をさぐり出」すことに成功すれば、叙述がヘーゲル流の「“先験的な”構成」に見えるかも知れない、と断っているくだりを、今村氏は引用していますが、その意味が分かっていません。ここでマルクスは、ヘーゲルの弁証法とマルクスのそれとは、具体的事物の具体的分析にもとづく総合という点で決定的に異なっているということを指摘しているのです。したがって、今村氏は、このマルクスの指摘を手がかりにして、マルクスの弁証法が具体的な事物の分析に基礎をおいていることを、実際に、『資本論』の叙述に沿って明らかにすればよかったのです(この点については、見田石介氏の一連の業績を参照のこと)。

ところが今村氏は、そうした作業をおこなわず、漠然とヘーゲルとマルクスを眺めて似ているところを“発見”し、それをあれこれもっともらしく意味づけているのです。たとえば氏は、マルクスの思考の「きわめて個人的な傾向」あるいは「性癖」としての「ミクロロジー」なるものも論じていますが、そこで取り上げられている問題も、実は、マルクスの弁証法が具体的な事物の具体的な分析に基づいているという問題なのですが、それが今村氏の手にかかると、マルクスの「性癖」の問題になってしまうのです…。(^^;)

補足:2005/06/04
今村氏は、ヘーゲルとマルクスは「同一の立場に立っていた」(186ページ)として、「上級カテゴリーが下級カテゴリーを有機的に組織するというマルクスの表現は、ヘーゲル的にいえば、上級は下級をアウフヘーベンするというのと同じである。それが具体的現実の運動の叙述であり、この運動のなかには人間の精神的行為としての言説が不可欠のモーメントとして含まれている」といっています。

まず、この「有機的に組織する」というのは、マルクスの言葉ではない。今村氏は、『資本論』第1巻第23章の言葉だとして「有機的合成体」という言葉をあげて、それを「有機的に合成する」「有機的に組織する」と言い換えているのですが、この「有機的合成体」というのは、資本の「有機的構成」のことであって、上級カテゴリー・下級カテゴリーの関係とはまったく別の事柄です。これが第1。

第2に、ヘーゲル弁証法が観念論であるのは、人間の認識の発展を事物の現実の発展と同一視するところにあるのですが、今村氏は、そのことがまったく分かっていません。「具体的現実の運動の叙述」が「人間の精神的行為としての言説」を「不可欠のモーメント」として含んでいる、というのは、今村氏が、ヘーゲルと同じように、人間の認識の発展を事物の現実の発展と区別していないことを示しています。ヘーゲルの弁証法の観念論的誤謬を理解していない今村氏が、マルクスの弁証法をヘーゲル流に歪んで理解し、そのうえでマルクスの弁証法がヘーゲルと同一であることを「発見」したにすぎないのです。
(以上、補足終わり)

ちなみに、今村氏の“お得意”であるはずのアルチュセールも、マルクス弁証法のヘーゲル主義的な解釈への批判を志したのですが、今村氏は、アルチュセールをあれだけ紹介しておきながら、そうした点に少しも気づかなかったようです(これについては、上野俊樹『アルチュセールとプーランザス』参照のこと)。

【書誌情報】著者:今村仁司/書名:マルクス入門/出版社:筑摩書房(ちくま新書533)/刊行:2005年5月/定価:本体720円+税/ISBN4-480-06233-5

今村仁司『マルクス入門』」への4件のフィードバック

  1. おひさしぶりです。
    色々コメントしたいことや、読んでもらいたい僕の記事などもありましたが、なかなか時間がなくて。。。
    今回は、「頭を使わない」コメントができるので書いてみようと思いました。

    僕は学生の時、この人物の授業をとったことがあります。
    ハッキリ言って、教員としての資質はなかった。「言動」があやしく、自分の書いた教科書を買えば単位をやると公言し、僕は本は買わなかったけど単位はもらった記憶はあります。授業の「中身」についての記憶はありません。。。

  2. >yoshiさん、お久しぶりです。

    誰だったかのホームページで、“自分の思想を語り出したとたんに内容が貧弱になる”というコメントを読んだ記憶がありますが、なかなか的確な指摘だと思います。大学の講義では、そこらへんがもろに出てしまうのかも知れません。

  3. はじめまして。
    うちのblogに来ていただいたみたいで,コメントありがとうございます。
    すごいまとまったblogですね。こういうblogを作りたいです。
    置塩のまとめられている部分,とても参考になります。わたしも置塩経済学の研究会などをとおして,少しずつためたものがあるので,またUPしたいと思います。
    また参考にさせていただくために,ちょくちょく来たいと思います。よろしくお願いします。

  4. >ぷうじろうさん
    私のBlogにお越しいただき、ありがとうございます。
    京大の大学院で経済学を勉強中というのは、うらやましい限りです。置塩先生の本は、大学1年の時に『マルクス経済学』の1を買ったのですが、読んでもさっぱり分からず、そのまま手放してしまいました。最近になって、あらためて著書を古本で買い集め、少しずつ読んでいます。数式的なところは僕の手に負えないところがたくさんありますが、マルクス経済学の立場から、現実経済へどうアプローチできるのか、そのために何をどう考えたらよいのか、しっかりと勉強したいと思っています。
    というわけで、こちらこそよろしくお願いします。m(_’_)m

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