木村敏『関係としての自己』についての野田正彰氏の書評

木村敏氏の『関係としての自己』(みすず書房、2730円)についての書評を、精神科医の野田正彰氏が「東京新聞」に書かれています。

その末尾で、野田氏は、次のように指摘されています。

ヴァイツゼッカーは「生それ自身は死なない、個々の生き物だけが死ぬ」といって、ナチによる精神障害者の殺害を受け入れていった。著者が高く評価する西田幾多郎にしても「皇室は主体的一と個別的多との矛盾的自己同一としての自己自身を限定する世界の位置にある」と述べて、天皇教に擦り寄っていた。こんな他者や歴史との間にある自己は、著者の関心の外にあるようだ。

これを「無い物ねだり」と言って非難することは可能ですが、やはり、今日、ハイデガーやヴァイツゼッガー、西田幾多郎などに言及するのであれば、こうした点を問わない訳にはいかないでしょう。野田氏だからこそできる問いかけだと思います。

※このヴァイツゼッガーは、精神医学者のヴィクトル・フォン・ヴァイツゼッカーのこと。「荒れ野の40年」の演説をしたリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー元ドイツ大統領とは別人ですので、お間違えのないように。

木村敏『関係としての自己』についての野田正彰氏の書評」への4件のフィードバック

  1. はじめまして。時には「世界」も手に取る中途半端なインテリ未満の中年です。野田氏は日本でもっとも信頼し、尊敬する学者ですが、残念ながら上記の書評の意味がちんぷんかんぷんで悲しくなりました。こっそりわかりやすくご説明いただけませんでしょうか。お願いします。

  2. 村すずめさん、初めまして。

    ハイデガーやヴァイツゼッガーは、ナチズムとの繋がりのある哲学者。西田幾多郎も、積極的かどうかはいろいろ議論がありますが、戦争中に、哲学的言辞で天皇制とそのアジア侵略の「世界史的意義」を論じていた訳です。

    ですから、仮に、統合失調症の「理解」にハイデガー、ヴァイツゼッカー流の現象学的アプローチが役に立つとしても、しかし、ハイデガーやヴァイツゼッガーがナチズムに荷担した事実、西田幾多郎が天皇制にかかわった事実を、哲学の問題として検討しなくてよいのか?というのが、野田正彰氏の指摘だと思います。

    もちろん、野田氏としては、その先についても、いろいろ意見があるのだろうと勝手に想像しています。「統合失調症」を「関係としての自己」として自己了解することより、もっと社会的なアプローチを重視すべきだ、そんな意味も込められているかも知れません。

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