首相の靖国参拝問題で、最近の地方紙の社説を調べてみました。
インターネットで読めるものだけなので、他にももっとあるにちがいありませんが、そのなかでも中国新聞の社説(6月8日)は、靖国神社の性格にふみこんで問題点を指摘しているのが注目されます。
【京都新聞6月9日付社説】
首相靖国参拝 中止の決断を求めたい
国会で首相は、極東国際軍事裁判(東京裁判)について「サンフランシスコ平和条約で受諾している。異議を唱える立場にない」、A級戦犯については「戦争犯罪人として指定され、日本は受諾した」と答弁している。A級戦犯を戦争犯罪人と認識しているのであれば、戦争で被害を受けた近隣アジア諸国民の感情に配慮するのは当然である。
【愛媛新聞6月9日付社説】
靖国参拝 自粛要請を真剣に受け止めよ
小泉首相は、中国の胡錦濤国家主席や韓国の盧武鉉大統領らに「自分の考えを何度も申し上げてきた」とした上で、「理解は得られていると思っている」と述べている。
「理解が得られている」のなら、こんなに事態は混乱しないはずだ。小泉流の表現だとしても、これで国内外に通用するはずがない。もはや、言葉でごまかす段階は過ぎている。……
小泉首相も「A級戦犯を戦争犯罪人だと認識している」とあらためて見解を表明せざるを得なくなった。それなら、やはりA級戦犯が合祀(ごうし)されている靖国神社を首相として参拝するのは問題である。
いくら個人の信条だといっても、首相が参拝すれば国を代表して行ったことになる。公的とか私的とかの区別も、対外的には意味をなさないだろう。
戦没者の霊を慰め平和を誓う行為は当然としても、かつて大変な迷惑をかけた隣人の感情を逆なでしてまで強行すべきではないはずだ。
【徳島新聞6月14日付社説】
国益を考え中止すべきだ
小泉首相は参拝を「心ならずも戦場に赴いた人々に哀悼の誠をささげ、不戦を誓うためだ」とし、「A級戦犯のために参拝しているのではない」とする。
しかし、こんな理屈が中韓両国に通じるはずがない。A級戦犯を合祀(ごうし)した靖国神社を参拝すれば、過去の軍国主義や侵略戦争を肯定するものとして受け取られても仕方がないだろう。
【中国新聞6月8日付社説】
首相の靖国参拝 不戦を誓うのに適切か
「心ならずも戦場に赴いた人々に哀悼の誠をささげ、不戦を誓う」。小泉首相は繰り返す。しかし首相が不戦の思いを示す場として靖国神社がふさわしいのだろうか。アジア諸国だけでなく国内にも違和感を覚える人は多いはずだ。
靖国神社は明治初期の1869年に東京招魂社として創建され、十年後に社号が改称された。古くからある各地の神社とは性格が異なる。「英霊」を顕彰し人々を戦争へ動員する精神的支柱として機能した。1978年に極東国際軍事裁判(東京裁判)のA級戦犯も合祀(ごうし)するなど、明治以降の日本が行った戦争を肯定する姿勢が戦後も一貫している。
死者をしのぶ方法はさまざまである。今も靖国神社を訪れる遺族が絶えないのも事実である。しかし一国の指導者が参拝するのは意味が異なる。戦争を始めた責任者とされる人々まで祭る神社の姿勢を、政府が認めたと受け止められても仕方あるまい。近隣諸国が激しく反発するのはやむを得ない面がある。
最近は小泉首相もトーンダウンしてきたようではある。今月上旬の衆院予算委員会では、「A級戦犯のために参拝しているわけではない」と弁明。東京裁判についても「サンフランシスコ平和条約で受諾しており、異議を唱える立場にない」と述べた。「靖国神社の考えを支持しているとはとらないでほしい」とも答弁している。靖国神社の根幹にあたる部分の多くを否定しながら、ではなぜ参拝するのか。「個人の信条」だけではますます説得力を欠く。
【沖縄タイムス5月30日付】
首相は中止の判断を
中国や韓国の批判は、A級戦犯が合祀されている神社への参拝が侵略戦争の正当化に映るからにほかならない。
極東軍事裁判の結果を日本はサンフランシスコ平和条約で受け入れた。このこと自体、日本は過去の戦争の反省に立って平和な国家を目指す、という国際社会との約束を意味した。背景には国民の共通した認識があった。
戦後50年の1995年に村山内閣が、過去の植民地支配と侵略に対する「痛切な反省とおわび」を表明したのはその延長であった。戦後60年のことし、小泉首相も四月のアジア・アフリカ会議で村山内閣談話を引用し、国際社会に理解を求めたばかりである。
このような中で、内閣の一員である森岡正宏厚生労働政務官が「(A級戦犯は)日本国内ではもう罪人ではない」とし、極東軍事裁判も「一方的裁判」と批判したことは戦後の日本の歩みを否定しかねない重要な問題である。
この発言は小泉首相の「罪を憎んで人を憎まず」という言葉とも重なってくるように思える。