少し古い記事になりますが、「東京新聞」9/28付夕刊に、名古屋市立大の福吉勝男氏が、日本ヘーゲル学会(会長・加藤尚武京都大名誉教授)の創立にふれて、「なぜ、いまヘーゲルか」と題して、ヘーゲルの「市民社会」論再評価の動きを紹介されています。
すなわち、現状肯定的で国家主義的なヘーゲル理解にたいし、ここ20数年来、ヘーゲルの講義録の研究などから、国家主義者というより自由・民主主義の思想家としてのヘーゲル像が明らかにされてきたというのです。
僕は、学部の時に、岩波文庫『ヘーゲル政治論文集』をテキストにした上妻精先生の倫理学の授業を受けたことがありますが、その授業で上妻先生が強調していたのが、ヘーゲルは反動哲学者ではない、ということでした。非常勤講師で授業にこられていた上妻先生は、わが大学の学生はみんなマルキストで、ヘーゲル=反動哲学と考えている、という思いこみをもたれていたのか、非常な熱の入った授業で、ヘーゲルの革新性、進歩性を強調されていました。
なので、福吉氏が東京新聞に書かれたようなことは理解できるのですが、しかし、1つだけ疑問なのは、ヘーゲルが「民主・自由主義の思想家だ」という評価です。僕自身、ヘーゲルは自由主義者だったと思いますが、しかし、民主主義者だったかといわれれば、やっぱり立憲君主制を望ましいとした以上、民主主義者とは言えないと思うのです。東京新聞の文章からだけでは、福吉氏が、自由主義と民主主義とをどのような意味に理解されているのかが分かりませんが、1848年のドイツ革命が自由主義的改革に終了したように、自由主義と民主主義とは別物であって、「公共性」を強調し、資本主義のもたらす貧富の格差、貧困問題にたいする共互助によるアプローチ、というのは、やっぱり自由主義ではないのでしょうか? 福吉氏は、自助努力の極端な強調は「自由(競争)主義」になると書いておられるので、自由主義を、いまふうの競争至上主義、市場万能主義のように理解されているのかも知れませんが、19世紀において自由主義は、民主主義=共和制に反対する一方で、封建専制にたいしては開明的進歩的役割を持っていた訳で、それゆえヘーゲル哲学は自由主義を代表してはいるが、けっして民主主義とはいえないと思うのです。
もちろん、19世紀の自由主義の中に、今日の市場万能主義という意味での「自由主義」にたいする批判として意義を持つ内容があったと思うし、現在の日本が、ヘーゲル的な意味での自由主義から見ても「遅れている」側面を持っていることも事実でしょう。だから、そういう角度からヘーゲルを再評価する(というか、読み直す)ことは意味があると僕自身も思っているのですが。
「なるほど」っていう感じで読ませてもらいました。「自由主義」と「民主主義」を区別して理解することは大事ですね。なにしろ、その二つをくっつけて名乗っている政党もあるくらいですから。また、「自由主義」の積極的側面への評価も大切だと思いました。
私はいま、「市民社会論」には注目しています。科学的社会主義の立場から、国家論、市民社会論を豊かにしていく議論も待たれている気がします。
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