1905年に結ばれた第2次日韓協約(韓国側では乙巳条約)。日本が韓国の外交権を取り上げ、ソウルに統監府を設置、10年後の韓国併合につながった条約ですが、その締結の際に、日本側が韓国駐留軍の軍事力にものをいわせて圧力をかけていたことを示す史料が、荒井信一氏によって明らかにされました。
1つは、当時の駐韓アメリカ公使の国務長官宛報告書。報告書は、韓国駐留日本軍が交渉会場を固めていたことを指摘し、「韓国皇帝に日本の要求を拒むことは不適当だと思わせるためにも使われた」と報告。
もう1つは、陸軍省の「明治三十七八年戦役陸軍政史」で、長谷川司令官が条約に反対する韓国の閣僚らの動きを封じるため、憲兵に動静を厳しく監視させ、韓国の軍部大臣を呼び、「最後の手段が何か、あえて詳しく言わないが」と告げたとのこと。
日韓協約交渉、日本軍が韓国側の行動制約か 米公使指摘(朝日新聞)
日韓協約交渉、日本側が武力で圧力 シンポで発表(朝日新聞)
日韓協約交渉、日本軍が韓国側の行動制約か 米公使指摘
[asahi.com 2005年11月10日18時36分]日本による朝鮮半島の植民地化につながった1905年の第2次日韓協約の締結交渉で、韓国の閣僚らの行動を日本軍が制約していた可能性を、駐韓米国公使が本国への報告書に明記していたことが荒井信一・駿河台大名誉教授(国際関係史)の研究で分かった。国の代表者に強制して結ばせた条約は無効との説が当時からあり、同協約の正当性をめぐる議論に影響を与えそうだ。
報告書は05年11月20日付でエドウィン・モーガン公使からルート国務長官あて。米外交官と本国がやりとりした公式文書を集めた米国の研究書「コリアン アメリカン リレーションズ」の第3巻(89年)の中で荒井名誉教授が見つけた。
報告書によると、交渉が最終段階に入った11月17日、日本の特派大使・伊藤博文が韓国駐留軍の長谷川好道司令官らとともに、米公使館から低い壁を挟んで20メートル余の位置にある交渉会場に入った。内部の様子は正確には分からないが、日本の憲兵らが会議室のベランダや一つしかない裏口への通路を固めているのが見えたと記した。
韓国内では条約への反対論が根強かった。文書は「憲兵らは表向き伊藤らの警護のために配置されたが、韓国皇帝に日本の要求を拒むことは不適当だと思わせるためにも使われた」と記した。
ソウル市内で日本軍が繰り広げた示威行動にも触れ「物理的な暴力が行使されたとは考えにくいが、閣僚らが条約調印を承認する際、まったく自由に行動できたとも思えない」とも書いている。
荒井名誉教授は12日午前9時から東京都千代田区神田駿河台の中央大駿河台記念館で報告書について発表する。問い合わせは朝鮮人強制連行真相調査団へ。
日韓協約交渉、日本側が武力で圧力 シンポで発表
[asahi.com 2005年11月12日20時35分]朝鮮半島の植民地化の布石になった1905年の第2次日韓協約の締結交渉に当たり、韓国に駐留する日本軍の長谷川好道司令官が、軍事力を背景に伊藤博文・特派大使を支援した経過を陸軍に報告していたことがわかった。荒井信一・駿河台大名誉教授(国際関係史)が東京都内で12日に開かれた集会で発表した。
当時の国際法でも国の代表者に強制して結ばせた条約は無効とされていたため、日本が軍を動員して受け入れさせた同協約の有効性については議論を呼んできた。日韓の交渉関係者が残した記録などに基づく論争が90年代に再燃。当時の駐韓米国公使の報告書も最近見つかったが、日本軍幹部の記録が明らかになるのは珍しい。
荒井名誉教授によると、報告は陸軍省の「明治三十七八年戦役陸軍政史」に収録されている。
報告によると、長谷川司令官は条約に反対する韓国の閣僚らの動きを封じるため、憲兵に動静を厳しく監視させた。韓国の軍部大臣を呼び、「最後の手段が何か、あえて詳しく言わないが」と告げると、大臣は恐れおののいて立ち去ったという。ソウルに歩兵部隊や砲兵大隊などを配置した目的に、治安維持のほか、閣僚の逃走防止や示威を挙げている。
過去の研究によれば、交渉会場にも憲兵らが配置されていた。荒井名誉教授は「事実上の監禁。拳銃を突きつけたのと同じだ」と同協約の無効性を指摘した。