甘樫丘で7世紀の建物跡見つかる

蘇我入鹿の邸宅跡ではないかと大きく報道されていますが、よく読むと、今回発見された建物跡はいずれも小さいもの。まだ入鹿邸宅跡と断定することはできないようです。

蘇我入鹿の邸宅跡か 奈良・明日香村ふもとで建物跡出土(朝日新聞)

蘇我入鹿の邸宅跡か 奈良・明日香村ふもとで建物跡出土
[asahi.com 2005年11月13日20時58分]

 奈良県明日香村の甘樫丘(あまかしのおか)(標高148メートル)のふもとにある甘樫丘東麓(とうろく)遺跡で、掘っ立て柱建物5棟や塀などの遺構が見つかった。奈良文化財研究所が13日、発表した。94年には約20メートル南東で大量の焼けた壁材や木材、土など(7世紀中ごろ)が出土しており、そのすぐ近くで発見されたことで、今回の建物跡は、大化改新のクーデターで倒れた権力者、蘇我入鹿(そがのいるか)の焼け落ちた邸宅跡の可能性が高いという。同研究所は周囲の発掘を続け、日本書紀が描く蘇我氏滅亡のドラマを裏付けたい考えだ。
 国営飛鳥歴史公園の整備に先立ち、約725平方メートルを発掘。直径20?30センチの柱穴が20個以上見つかった。建物は南北10.5メートル、東西3.6メートルのものなど、いずれも小規模で、全容や用途は不明。塀は長さ約12メートル分。周辺の溝(幅0.8?1メートル)からは、焼けた石や土、炭などが出土した。
 調査地は甘樫丘の東側のふもとで、入り江のようになった谷間。起伏の激しい場所を大規模に整地していたことも今回わかった。
 丘の頂上からは蘇我氏建立の飛鳥寺跡や、大化改新の幕開けとなる「乙巳(いっし)の変」(645年)で入鹿が中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(天智天皇、626?671)に首をはねられたとされる飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)の伝承地(後の飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)の跡)などが見渡せる。
 日本書紀によると、644年、入鹿の邸宅が丘の谷間、父の蝦夷(えみし)の邸宅が丘の上に築かれ、乙巳の変でいずれも焼け落ちたとされる。焼けた部材や土などが94年に出土した際には建物跡は見つからなかったが、同研究所は今回の発見で入鹿邸跡との見方を強めている。
 今回出土した土器の中には、入鹿邸が存在した7世紀前半のもの以外に、7世紀後半のものもあった。遺構が入鹿邸跡とすれば、蘇我氏滅亡後もこの場所に何らかの施設があったことになる。
 調査担当の豊島直博研究員は「土器の年代幅を限定しにくく、調査面積も狭かった。入鹿邸跡の有力候補地だが、結論は来年度予定の本格調査を待ちたい」と話す。
 現地見学会は16日午前10時?午後3時。駐車場は利用できない。小雨決行。

大化改新、舞台に迫る 明日香・甘樫丘東麓遺跡(朝日新聞)

大化改新、舞台に迫る 明日香・甘樫丘東麓遺跡
[asahi.com 2005年11月13日23時04分]

 「やっぱりあったか」。奈良県明日香村の甘樫丘(あまかしのおか)東麓(とうろく)遺跡で見つかった建物や塀の跡に、考古学者らの興奮が高まった。11年前、焼けた木材や土などが近くで出土し、「焼失した蘇我入鹿(そがのいるか)邸の痕跡では」と話題になった場所だ。古代史上最も有名な政治改革、大化改新のきっかけになった蘇我氏滅亡の舞台なのか。決定的な証拠を求めて調査は続く。
 奈良文化財研究所の豊島直博研究員は、今回の調査担当に決まったこの春、同僚らに冷やかされた。「いいところに当たったな」。94年に焼けた木材などが大量に見つかった場所のすぐ脇だったからだ。その期待通り、建物跡が出てきた。
 日本書紀はこう伝える――。皇極天皇3年(644年)の冬、甘樫丘の頂上とふもとに邸宅が築かれた。蘇我大臣(そがのおおおみ)蝦夷(えみし)の「上(うえ)の宮門(みかど)」と、その子入鹿の「谷(はさま)の宮門」。家の外に城柵(きかき)、門の近くに兵庫(つわものぐら)(武器庫)があった。
 丘の上から宮殿(飛鳥板蓋(いたぶき)宮、後の飛鳥浄御原(きよみはら)宮)を見下ろす蝦夷邸は、蝦夷の妹の法提郎媛(ほてのいらつめ)を天皇家に嫁がせることで強大化していく蘇我氏の権力の象徴だったのだろう。
 約半年後の645(大化1)年、入鹿は宮殿で政敵・中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(天智天皇)に暗殺され、蝦夷は翌日、邸宅に火を放って自害。このクーデター「乙巳(いっし)の変」で蘇我氏は滅ぶ。天皇中心の中央集権化を進める大化改新が始まり、元号も初めて導入された。
 今回の調査で、小規模だが5棟分の建物跡が見つかった。しかもそこは、日本書紀が入鹿邸のあった場所と記す「谷」だ。11年前の調査の担当者、奈良文化財研究所の次山淳・主任研究官は「予想通りだ。建物が小さいので、邸宅の周辺施設ではないか」と声を弾ませた。
 一方で、蘇我氏滅亡後の7世紀後半の土器や整地跡も見つかり、入鹿邸と断定するには謎が残る。ただ、巨大氏族が最期を迎えた地を、天皇家が再利用したとも考えられる。猪熊兼勝・京都橘大教授(考古学)は「蝦夷の父、馬子の邸宅跡も後に天武天皇が使っている。蝦夷・入鹿の屋敷跡を天皇家が利用しても不思議ではない」と話す。
 河上邦彦・神戸山手大教授(考古学)は、邸宅跡が天皇家の苑池(えんち)(庭園と池)の一部になったのではと推測する。飛鳥川を挟んで南東約400メートルには、7世紀後半の斉明天皇時代に築かれたとみられる「飛鳥京苑池」(国史跡・名勝)がある。「蘇我氏は天皇家にとって目の上のたんこぶ。その本拠地跡を苑池に取り込み、天皇の権勢を示したのではないか」と想像を巡らせる。

蘇我入鹿邸跡か、奈良・明日香村で出土(読売新聞)

蘇我入鹿邸跡か、奈良・明日香村で出土

 大化改新(乙巳=いっし=の変、645年)で中大兄皇子(後の天智天皇)らに暗殺された飛鳥時代の大豪族、蘇我入鹿(いるか)の邸宅「谷(はざま)の宮門(みかど)」の一部とみられる建物跡5棟の柱穴が奈良県明日香村川原、甘樫丘東麓(あまかしのおかとうろく)遺跡で出土し、奈良文化財研究所が13日、発表した。建物が谷を大規模に造成して建てられ、焼けた壁土なども見つかるなど、日本書紀の記述と一致した。古代の豪族支配を象徴する蘇我氏と、国家の大改革を導いた大化改新の実態を物語る一級の資料となる。
 現場は入鹿暗殺の舞台となった伝飛鳥板蓋(いたぶき)宮跡(飛鳥京跡)の西約600メートルで、蘇我氏が建てた日本最古の寺、飛鳥寺の南西約600メートルに位置する甘樫丘のふもとにあたる。
 同研究所が約730平方メートルを調査、建物5棟分の柱穴と長さ12メートル以上の塀の跡が見つかった。うち1棟は幅10・5メートル、奥行き3・6メートルの規模で、直径30?20センチの柱穴が並び、柱筋に沿った溝(深さ30?20センチ、幅80センチ)に7世紀前半の土器、焼けた土や炭が埋まっていた。倉庫などとみられ、母屋にあたる主要建物はさらに東側にあると予想される。現場南隣の斜面では1994年の調査で、焼けた壁土や建築部材、土器が出土しているが、建物跡が確認されたのは初めて。
 日本書紀によると、皇極3年(644年)11月に「蘇我大臣蝦夷(おおおみえみし)と子の入鹿は家を甘樫丘に並べ建てる。大臣の家は上の宮門、入鹿の家は谷の宮門という」という記述があり、翌645年6月に入鹿が暗殺された翌日、蝦夷が自邸と入鹿邸に火を放って自害したとしている。
 今回の発見について、研究者の中には「中心建物が見つかるまで断言できない」とする慎重意見もあるが、同研究所は、周辺に母屋や「上の宮門」などがあるとみており、来年度以降も調査を続ける。現地見学会は16日午前10時?午後3時。
 和田萃・京都教育大教授(古代史)の話「大化改新は強大な権力を持っていた蘇我氏が滅び、天皇家が権威を取り戻して律令体制を固める契機となった古代国家最大の政争。その舞台が発見されたことで、歴史の実態に近づくことができる非常に重要な成果だ」(2005年11月14日 読売新聞)

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