仰木前監督逝く

オリックスの前監督、仰木彬氏が亡くなられました。今シーズン、現役で監督をやられていたのですから、本当に驚きました。

いろんなニュースを読んでみましたが、シーズン中から相当悪かった様子。強引な近鉄との合併劇で評判を落としたチームを助けようと、あえて自ら泥をかぶる覚悟で監督を引き受けられたに違いありません。葬儀は親族だけでおこなわれるとのこと。球団にたいする監督の気持ちが分かろうというものです。

監督のご冥福を心から祈念します。

前オリ監督 仰木彬氏死去(デイリースポーツ)

前オリ監督 仰木彬氏死去

 前オリックス監督の仰木彬(おおぎ・あきら)氏が15日午後4時10分、呼吸不全のため福岡市内の病院で死去した。70歳。仰木氏は3年前から体調を崩し、今季限りで監督を退任してオリックスのシニア・アドバイザー(SA)に就任した後は、主治医の下で闘病生活を送っていた。仰木氏は近鉄、オリックスで通算14年間監督を務め、3度のリーグ制覇を果たし、96年には日本一にも輝いた。また、野茂やイチローらメジャーリーガーを育て上げ、近鉄とオリックスが合併した今季は、統合球団の初代指揮官としてチームをまとめ上げた。通夜・告別式などは本人の意向で親族のみの密葬となる。
 変幻自在のさい配で数々のマジックを演じてきた仰木SAが、静かに逝った。体調不良を理由に監督を勇退した翌日となる9月29日以降は、地元の福岡で治療に専念してきたものの、ついに帰らぬ人となった。
 この日の午後、療養中だった福岡市内の病院で容体が急変すると、そのまま息を引き取った。未確認情報を受けたオリックス球団は、夜まで情報収集にあたり、午後10時半に死亡を確認、11時過ぎに関係者がスカイマークスタジアムに集結して善後策を協議した。
 最後に仰木SAが公の場に現れたのは、10月7日に神戸市内で行われた中村新監督の就任会見だった。「ゆっくりと、と言っていいのかな、大変と言っていいのかな…。一点、体調回復や」。前巨人の清原獲得に意欲的な一方で、自らの体調については苦笑いを浮かべていた。
 体調は思わしくなく、イスに座って報道陣に対応した際には隣にもう1つイスを置き、斜めにもたれかけなければならないほどだった。
 近鉄とオリックスの球団統合で4年ぶりに現場復帰を決意して昨オフに監督就任。3年前に大病を患ったこともあり、就任当初から体調面は懸念されてきた。
 プレーオフ争いの激闘は、着実に体調を悪化させていた。就任時から1カ月に1度、福岡市内の病院で受けてきた定期検査は、風邪をこじらせた夏場以降は2週間に1度に短縮。微熱が続き、シーズン終盤の試合中にはベンチ裏に氷水で冷やしたタオルが欠かせなくなっていた。
 闘病中の11月3日には愛弟子・イチローも見舞いに訪れていた。2時間ほど談笑し、仰木SAは球団広報を通じて「こんなにイチローと話し込んだのは初めて。今度はキヨに会えたらいいな」とコメント。イチローとは12月に神戸で食事する約束も交わしたが、ついにかなわなかった。
 統合球団をまとめて3位争いを繰り広げた今季も、独特のさい配は色あせることはなかった。現役時代は名二塁手として西鉄黄金期を支え、近鉄、オリックス監督時代は通算リーグ優勝3回。鮮やかな手腕は、いつしか「仰木マジック」と呼ばれていた。
 「補強に関してはいろんな点で推し進めなイカン」。勇退会見では、SAとしてらつ腕を振るうことを強く誓っていた。歩みを止めるつもりはなかった。志半ばで、希代のマジシャンがこの世を去った。

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