金曜日、新年の仕事をたら〜〜と終えつつ、錦糸町へ。新日本フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会に行ってきました。
- 江村哲二:武満徹の追憶に≪地平線のクオリア≫オーケストラのための(世界初演)
- ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第1番 ハ短調 作品35
(休憩) - ショスタコーヴィチ:交響曲第4番 ハ短調 作品43
指揮は大野和士さん、ピアノはシモン・トルプチェスキ、トランペットはデイヴィッド・ヘルツォーク。
今日のメインは、ショスタコーヴィチの2曲。会場で友人のD氏に「ピアノ協奏曲を生で聴くのは初めて」といったけれど、よく考えたら、交響曲第4番も生は初めて。いろんな意味で、ショスタコーヴィチは好きな作曲家なので、期待して会場へゆきました。
プログラム・ノーツでは、この2曲について、次のように解説されています。
ソヴィエト社会に生きたドミトリー・ショスタコーヴィチ(1906?75)を論ずる者は、1936年を境とした作風の転換を極めて重要とみなす。同年1月に党機関誌プラウダに発表された所謂「プラウダ批判」で、この作曲家の歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』のモダニズム志向が批判され、ロシア革命後暫く続いたアヴァンギャルド時代が一気に終わったのだ。本日演奏される2曲は、国家権力に強制された様式変化の直前に綴られた、ロシア・モダニズム音楽の集大成である。
ところで、会場で受け取ったプログラムには、「聴衆の皆様へ」と題した指揮者・大野和士さんの半裁1枚の文章がプログラムとは別に挟み込んであって、その中で大野さんは、この日のプログラム、ショスタコーヴィチの交響曲第4番について、こう書かれています。
この交響曲第4番は、大成功を収めた第5番に比べると、演奏頻度は圧倒的に少ないのですが、実は4番の中にはすでに第5番のすべての要素が内包されています。
うむむむ…、プログラム・ノーツの解説が1936年の「批判」を挟んだ「断絶説」だとすれば、大野氏のコメントはむしろ「連続説」というべきもの。ここまで対立する解説が提示されることも珍しいかも知れません。
で、実際に大野さんの振った第4番は、(当たり前のことですが)5番との連続性を強く意識した演奏でした。プログラム・ノーツでは「マーラー的な作風」と書かれています(実際、第4番の作曲にあたって、ショスタコーヴィチがマーラーを強く意識していたことは事実です)が、実際に聴く第4番はマーラー的というより、フレーズのあっちこっちで第5番を連想させるものでした。僕がもっているバルシャイのショスタコーヴィチCD全交響曲集の4番よりもっと力強い、骨太な演奏で、大満足。(^_^;) 演奏の機会という点では、圧倒的に第5番の方が多いですが、第4番こそがショスタコーヴィチの“原点”のようなものを感じさせてくれて、僕は好きです。
ピアノ協奏曲第1番の方は、独奏ピアノと弦楽5部のほかに、舞台中央後ろにトランペットが陣取り、独奏もあるということで、ピアノとトランペットのための協奏曲といった方がいいような曲でした。
【演奏会情報】指揮:大野和士/ピアノ:シモン・トルプチェスキ/トランペット:デイヴィッド・ヘルツォーク/コンサートマスター:崔文洙/演奏:新日本フィルハーモニー交響楽団/すみだトリフォニーホール 19時15分開演
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NJP当日プログラム曲解執筆をさせていただいております、よろず売文業者の渡辺和と申します。たまたま仕事をサボって遊んでたらここに辿り着きました。
当日プログラム作文に対する反応というのは、意外なほど上がってこないものでして、このような率直なご意見は有難く思います。大野さんというひとは、「ジャーナリスト泣かせ」という言葉の正反対、「ジャーナリスト喜ばせ」というか、良くも悪くもよく喋る方で、それがまた、そのまんま書き下ろせば原稿になっちゃうような頭の良い方です。客演指揮者でなければ、事前にどんなことを思っているかある程度情報を得ることが出来ますが、なにせお忙しい方で、そういうことがまるでできませんでした。
結果として、あの挟み込みコメント(もの凄く珍しいですね、ああいうの)と小生の作文の間で矛盾が生じ、読者諸氏を混乱させることになったとしたら、申し訳なく思います。スイマセンです。
まあ、小生としては、あれは大野解釈ということで納得されるだろうなぁ、と気楽に思っており、実際、そのように思っていただけたようですから、許容範囲内でありましょう。
それにしても、正直なところ、個人的には、あの作品の現在の姿が初演撤回前の姿とホントに同じかどうか、どうもよくわからないのですよ。たとえば3楽章最後のファンファーレのあとのコーダは、ホントに最初からついていたんでしょうかねぇ。他にも、余りにも5番以降の臭いが強すぎる感じの部分もあるんですよね。全体がコラージュみたいな作品でもあるわけですから、1950年代の後半に手を入れてる可能性も高いんじゃないのかなぁ、と感じられてなりません(そんないい加減なことは曲目解説にはさすがに書けませんけど)。井上道義さんなど、4番はやらない、と宣言なさってましたのも、そんな臭いが理由なんじゃないのかしら。
ま、そのようなことを思わせてくれるのも、ああいうちゃんとした演奏を聴かせてくれるからでしょう。
なんだか弁解めいた書き込み、失礼しました。今年のNJP、次はプロコの3番だし、もうまるでロシアか旧東独のオケ定期みたいですねぇ。
ピンバック: 千葉さとしの「はい、クラシックを聴いてます。」
はじめまして。e+エンタメブログで書いてます、千葉と申します。
コメント&TBありがとうございました!
自分のブログにも書きましたとおり、この公演は2回とも伺って、どちらも非常に質の高い演奏で本当に謎の多い作品をきっちりと聴かせてくれたことに感謝しています。
千葉も交響曲第四番は実演では初めて、どのように聴こえるのか非常に期待していました。で、あの演奏ですので非常に満足しております。良いニューイヤー・コンサートでした(千葉にとっては)。
>渡辺様
はじめまして。いつもブログは拝読しております。プログラムの解説も楽しく拝読いたしました。この作品に解説として一つの答えを出すのはさぞ大変だろうなと思い拝読してみたらGAKU様ご指摘の事態、千葉も解釈の仕方かなと思いました。『初演版と当時の曲は別物』説まで取り上げられた非常に目配りの効いた解説、と思いました。
もう少し落ち着いたらまたこの作品を聴きこもうかと思っています。いささか乱入気味のコメント、失礼いたしました。今後もお手すきの際にでもお読みいただければ幸いです。
渡辺和様、初めまして。
わざわざコメントをいただき、ありがとうございます。まったく勝手なブログの記事に、お気を悪くされたのではないかと恐縮しています。
コメントをいただき、あらためてプログラム・ノーツを読み返してみて、「未だに謎の大作」「1936年完成稿と1961年初演稿は別の曲では、という極端な主張すらある」という御指摘の意味がようやく少し分かってきたように思いました。ショスタコーヴィチは大好きな作曲家なのですが、ようやっと交響曲全15曲を聴いた程度で、とても全貌はつかめていません。伝記的なものも、昔、『ショスタコーヴィチの証言』を読んだ他は、最近になって音楽之友社・作曲家・人と作品シリーズの『ショスタコーヴィチ』(千葉潤著)を読んだ程度で、いまのところは、生にせよCDにせよ、ただただ作品を聴き、感動しているというしかない状況です。
しかし、「プラウダ批判」やスターリン支配下で親族まで犠牲がおよぶ中でショスタコーヴィチが、何をどのように考えて、どういうふうに作品に結実させていったかは、興味の尽きないテーマでもあります。第4番をめぐる「謎」は、その1つなんだろうと思いました。ショスタコーヴィチの伝記や作品について、もっと勉強してみたいと思います。
それにしても、どこかに眠っていた「1936年完成稿」が発見された、なんていうことは起こらないものでしょうかねぇ…。
はじめまして!TBありがとうございました◎
本当におっしゃるとおり、充実した、「堂々とした」4番だったと思います。上で千葉さまが書かれていらっしゃるように、ショスタコーヴィチファンの私にとっては最高のお年玉でした。
4番と5番の「断絶説」と「連続説」。すでにプログラム執筆者でらっしゃる渡辺さまがコメントされている段階で私が口を出すのは非常に恐縮ですが、あの挟み込みプリントでの大野氏のコメントにある「内包」というのは完全にアナリーゼ的な、即物的な意味合いなのではないかと思いました。
といいますのも、本番前日の公開リハーサルの際のスピーチで大野氏が、4番→5番の引用手法について具体例を明示しつつ「連続」について話していらしたためです。私も微視的レベルでの「4番→5番連続」にはかなり関心がありまして、いつか何かの媒体で彼のショスタコーヴィチ分析が読みたらいいなと思っています。
ながながと蛇足を書き連ねてしまい、申し訳ありません。1936年完成稿がもし存在していたら…ロマンですね^^
ピンバック: 庭は夏の日ざかり
TBありがとうございました。
私も金曜日に行きました。
ショスタコーヴィチ4番に圧倒されてしまいました。
「断絶説」と「連続説」については、・・・素人の私としては大作であり、難曲でもあり、時代背景も考えると色々な見方があるのだなぁと勉強になりました。
コメントを書いた紙片をプログラムに挟み込んだことや指揮をされた演奏を聴くと、大野さんってサービス精神旺盛な方なのではないかと勝手に想像したりしています。(笑)
>渡辺様(この場を借りて失礼します)
いつもブログを拝見しています。今回のショスタコーヴィチ4番や先のロクシンなど、ロシア(旧ソ連)関係の解説執筆にはご苦労が多いようですね。また、素敵な解説を期待しております。
TBありがとうございました。皆様の広範な知識の前でははなはだ恥ずかしい限りの聴き手であります。ショスタコーヴィチは例の証言を読んだりしましたが、何がこの人の確信なのかさっぱり解からず、わからないならわからないまま、音楽を聴くことにしてます。そういう意味では、渡辺さんと大野さんのお書きになったことは両方とも正解ではないかと思います。そして、あの晩の演奏は本当に凄い、の一言につきました。月末にゲルギエフの5番を川崎で聴く予定です。その前の4番をもう一度予習してから出かけることににてみます。
TBありがとうございます。
今回は指揮者からのコメントがプログラムに付せられ、しかもその内容がプログラムノートとやや異なる視座によるものである、という珍しい事態になりました。
ただ、その結果として多様な意見が出される契機になったと考えれば、よき問題提起になったとも言えそうです。
ともあれ、演奏そのものが(好悪・評価は意見の分かれるところにせよ)魅力あるものであったのがなによりだと思います。
これからも立ち寄らせていただき、勉強させていただければと存じます。