韓国で、1973年の金大中拉致事件にかんする外交文書が公開されました。
金大中事件というのは、1973年8月8日に、韓国の中央情報部(KCIA)によって都内のホテルから金大中氏が白昼連れ去られた事件。金大中氏は、1971年の大統領選挙で、当時の朴正熙大統領に97万票差に迫り、民主化運動のリーダー的存在でした。その金大中氏を暗殺しようと拉致したが、米政府の介入などで、金大中氏は暗殺を免れ、ソウルの自宅に軟禁されることになりました。
このとき、都内ホテルでは、金東雲1等書記官の指紋が発見され、韓国政府による日本の国家主権侵害であることが明らかであったにもかかわらず、結局、うやむやのままに政治的決着が図られました。
今回発表された資料では、当時の田中角栄首相が、そもそも金大中氏には政治的センスがないとか、「これで終わりにしよう」などと発言し、すすんで政治的に蓋をしたことを明らかにしています。
金大中事件の韓国公文書公開 首脳間のやり取り明らかに(朝日新聞)
金大中事件の韓国公文書公開 首脳間のやり取り明らかに
[asahi.com 2006年02月05日21時29分]韓国外交通商省は、73年の金大中(キム・デジュン)氏(前大統領)拉致事件に関する外交文書を6日付で公開した。事件は、容疑者の旧韓国中央情報部要員の聴取や金氏再来日など原状回復を要求する日本と、拒否する韓国が激しく対立した。3カ月後に金鍾泌(キム・ジョンピル)首相が来日、田中角栄首相との会談で政治決着に至ったが、会談録では、紛糾の長期化を恐れた日本側が「金氏には来日して欲しくない」「これで終わった」と言質を与えるなど、首脳間の生々しいやりとりが明らかになった。
公文書によると、73年11月2日の日韓首相会談では冒頭、田中首相が「捜査の進展状況を伝えよ」「公権力の介在が判明すれば改めて問題提起せざるを得ない」と迫った。金首相が「それは必ずそうすることか、建前として一応、話をしておくことか」と聞くと、田中首相は「建前としてだ」と応じた。
また田中首相は「金氏が日本に来るような政治的センスのない人ならば将来性もない。来ないで欲しい」と捜査当局と逆の立場を述べ、金氏が真相を明らかにすれば後の政治活動に支障が出ることを示唆した。
さらに日本側で捜査が続いていることに話が及ぶと、田中首相は「建前はそうだが実際、日本の捜査は終結する」。「これでパー(終わり)にしよう」と言った。金首相は「この前、ホールインワンしたから自信を得たのか」とゴルフ談議に。田中首相は「ホールインワンは偶然だが、こっちは本物だ」と応じた。
公開されたのは事件直後から翌74年までの約2500ページ分。04年にも一部が公開されたが、まとまった分量の公開は初めて。プライバシーなどに関する約3割の核心部分は除外された。
◇
〈金大中氏拉致事件〉 73年8月8日、朴正熙(パク・チョンヒ)大統領(当時)の独裁を批判して日本で民主化運動をしていた金大中氏が東京都内のホテルから白昼連れ去られ、一時は殺されかけながら5日後にソウルで解放された。韓国大使館の中央情報部(KCIA、国家情報院の前身)要員である金東雲(キム・ドンウン)1等書記官(直後に帰国)の指紋が発見された。しかし韓国捜査当局は金書記官に嫌疑なしと断定し、翌74年8月、捜査打ち切りを日本に通告した。刑事事件としては関係者の海外逃亡で時効が中断したままになっている。東亜日報が98年に報じたKCIAの内部文書によれば、金書記官らKCIA要員25人が周到に役割分担し、朴大統領も報告を受けていた。
第1次政治決着のポイント 金大中事件
[中国新聞 First upload: 2月5日19時24分]【ソウル5日共同】韓国政府が公開した外交文書で判明した金大中事件の第1次政治決着の主なポイントは次の通り(肩書は当時)。
× ×
1973年11月2日、韓国の金鍾泌首相と首相官邸で会談した田中角栄首相は冒頭、日本側の要求として(1)捜査は日韓が協力して継続(2)韓国は捜査状況を日本側に伝達(3)(事件に韓国の)公権力が介在したと判断されれば問題にする?ことを挙げた。
金首相が尋ねた。「必ずそうするということか、それとも『タテマエ』か」。金首相が日本語に流ちょうなためか会談録も一部に日本語が混じる。田中首相はすかさず応じた。「建前だ」。金首相は「分かった。『タテマエ』として言うことは理解する」。会談は露骨な本音で始まった。
× ×
日本側は当時、表向きは事情聴取などのため金大中氏の再来日を要求していた。しかし、金首相は「金大中(氏)の行動に制限はないが、特権を与えるものでもない」。これに田中首相は「もちろん金大中(氏)だからといって治外法権ではない」と言って、こう続けた。「彼(金大中氏)は日本に来ないと思う。それだけの政治センスもなければ将来性もない。とにかくここ(日本)に来ない方がいい」。事件の波紋拡大を避けたい田中政権の本音だった。
× ×
捜査体制を尋ねる金首相に、田中首相は「捜査本部は徐々になくす」と明言。会談に同席した大平正芳外相が「捜査当局は捜査を続け、韓国の捜査結果に期待するとの立場だ」と公式見解を説明したが、田中首相は「『建前』としてはそうだが、実際は捜査は終結する」。金首相は「今後は事件を完全に忘れてくれるよう望む」と訴えた。
さらに、田中首相は「この問題は『パー』にしよう」「私も開き直った」「これを機に終わりにしよう」と相次ぎ発言。会談内容の発表についても金首相が「捜査問題を強調すると後で困る」と語り、田中首相も「そうするのがいい。揚げ足を取られると困る」と同意し「簡略にやろう」と大平外相に命じた。
韓日がDJ拉致問題で‘妥協’…田中元首相「DJが来れば追い返す」(韓国・中央日報)
韓日がDJ拉致問題で‘妥協’…田中元首相「DJが来れば追い返す」
「朴正煕(パク・チョンヒ)大統領もあなたの立場に配慮するので、金大中(キム・デジュン)事件は完全に忘れてほしい」(金鍾泌総理)
「この問題は‘パー’(par:ゴルフ用語、ここでは良くも悪くもない状態という意味で使われている)にしましょう」(田中角栄首相)
1973年11月2日、日本総理官邸。 韓国と日本、両国の総理が交わした対話だ。当時、韓日両国間の外交対立にまで発展した「金大中(DJ)拉致事件」はこのように発生し、88日後に政治的解決で一段落した。
今回公開された外交文書には、金大中拉致事件当時の政治的妥結に向け朴正煕元大統領と田中元首相の間でやり取りした親書、金鍾泌(キム・ジョンピル)総理(JP)と田中首相間の対話録が含まれている。
当時、朴大統領は親書で「最近、金大中事件が起こり、一時的ではあるが両国間に物議をかもしたのは不幸なことであり、閣下と貴国民に遺憾の意を表す」と書いた。この親書は‘JP?田中’対話として伝えられ、田中首相は「今回、金鍾泌総理を我が国に派遣し、大統領自ら遺憾の意を親書で伝え、友好関係増進を期待して頂いたことを有難く思う」と答えた。
‘JP?田中’対話ではさらに率直な言葉が交わされた。田中首相が、拉致に関与した容疑を受けた駐日大使館の金東雲(キム・ドンウン)書記官問題に関し、「金東雲の行為に公権力が介在したことが判明すれば、新たに問題を提起せざるを得ない」とすると、JPは「必ずそうするということか、それとも建て前で話しているだけか」と尋ねた。田中首相は「建て前」と答えた。日本政府も、事件の徹底した真相解明よりも適当な妥協を望んだということだ。
田中首相は「金総理の訪日で名分が良くなった。これを契機に終わらせよう」とし、「捜査本部は徐々になくしていく」と語った。特に、田中首相はDJの今後の去就について、「日本には来ないと考えている」とし、「日本に来た場合は追い返す」とも話した。
◇DJ拉致の政府介入疑惑を報告した国連委員会=当時の国連韓国統一復興委員会(UNCURK)は、韓国政府が拉致事件に介入した可能性について書いた報告書を国連に送ったことが明らかになった。 最上級の秘密に分類されたこの報告書は8月15日に作成され、当時委員会事務局長のオズブドン氏が国連本部に送った。
この報告書には「1971年の大統領選で46%の支持を獲得し、亡命生活をしている野党指導者を、韓国情報機関が拉致する可能性がある。韓国にCIA(中央情報局)のような機関がいくつかあり、その機関は拉致できる能力、方法、要員を備えている」と書かれていた。
しかし報告書は、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の仕業である可能性、自作劇である可能性などについても触れており、根拠がある主張とは考えにくい。
朴承煕(パク・スンヒ)記者
[韓国・中央日報 2006.02.05 19:31:44]
私はその当時から金大中は日本に特に在日の商工人にたかりにきた人間だと思っています。
というのは韓日条約前後に在日の商工人が韓国に落とした金額はその当時の韓国にとっては相当の額です。
金大中はそれに目をつけて、日本に来て韓国の政治問題を餌にして在日の商工人にたかりに来たということをその当時の関係者から聞いています。
私はその当時の状況をよく知る在日の関係者が真実を言っても良いと思っています。
金大中は在日の人達の日本での社会的環境を無視し民族という言葉を餌にして在日の商工人にたかる人間だと思いますが、亡くなった朴大統領とその関係者の在日の人達に対する努力を考えると胸が痛むというのが私の実感です。
特に、解放後長く韓国の親族に再会できなかった在日の人達に対してその当時朴大統領とその関係者が果たした役割は評価されるべきです。
金国鎮さんへ
当時、金大中氏が在日の方々にどう見られていたかは存じ上げませんでした。しかし、かりに金大中氏がそういう“たかり屋”だったとしたら、なぜ71年の大統領選挙で朴正熙を恐れさせたほどの支持を得たのでしょうか。やっぱり朴正熙政権に問題があったのではないでしょうか。
日韓(韓日)条約による国交「正常化」も、軍事独裁政権を支えるために、補償の形で日本から資金を呼び込む必要があったからではないでしょうか。朴正熙大統領にたいする評価がいろいろあることは私も知っていますが、だからといって“政敵”とみなした人物を暗殺するために拉致する、などということが許されて良いはずはありません。
いずれにせよ、日本の側からみれば、KCIAによる拉致が日本の主権侵害であることは明らかで、田中角栄氏が首相でありながら、その主権侵害を正すのではなく、うやむやにしたことが、日本の問題としては一番の問題なのです。
私はこのサイトに投稿するのが初めてなのでどうも要領がよくわかりません。というのは書いている内容が掲載されているのを知りませんでした。
私は韓国の政治の内幕とか地域感情については詳しくありませんがKCIAの日本での役割については前向きの評価をしています。
彼らが犯した誤りがあるとするなら彼らが日本の権力構造に足を踏み入れたということでしょう特に日本のメディアの実態について無知だったと思います。
彼等の多くが韓国大使館・領事館の外務官僚と違って大統領直属で何よりも特筆すべきは韓国の地縁・血縁・学歴とは無関係な人達であったということです。
明治維新前にに登場した新撰組と同様に私は見ています。
彼らがもう少し正確な対日認識を持っていればということが惜しまれます。
というのはその当時総連とそれに連動する日本人に対立して日本で動ける数少ない組織がKCIAでした。
ピンバック: 土佐高知の雑記帳