韓国・盧武鉉大統領が、3・1独立運動記念日におこなった演説の全文が、駐日韓国大使館のホームページに掲載されています。
小泉首相が靖国参拝は「心の問題」と主張していることに対して、「国家指導者の言葉と行動の意味は、当事者自身の釈明によってではなく、その行為が帯びる客観的性格によって評価されるもの」「国家指導者の行為は、人類普遍の良心と歴史の経験に鑑みて、はたして相応しいものであるかを基準に評価される」と指摘しているのは、まったく道理にかなった指摘だと思います。
第87周年3・1節 盧武鉉大統領記念辞
Date 2006-03-01尊敬する国民の皆様
独立功労者と内外の貴賓の皆様
87回目の3・1節を大変意義深く迎えました。
己未年(1919年)の今日、私たちの父や母、祖父や祖母は、国を取り戻すために素手で立ち上がりました。自主独立と民族自存という大義の前に、命を賭けて銃剣に立ち向かいました。
三千里の津々浦々を揺さぶった大韓独立万歳の声は、いかなる圧政にも屈しない私たちの独立の意志を世界万邦に轟かせ、抑圧されていた民族の魂をふたたび目覚めさせました。独立を渇望していた世界の弱小民族に、希望の光を灯しました。
このような3・1運動の偉大な精神は上海臨時政府の樹立につながり、国内外の独立闘争をいっそう熱くしました。そしてついに私たちは国を取り戻しました。
祖国の光復(独立)のために献身された愛国先烈の方々に敬意を表し、ご遺族の皆様と独立功労者の皆様に深い尊敬と感謝の言葉を捧げます。国民の皆様
昨年の3・1節に私は“韓日両国が真実と誠意をもって過去史の残滓を掬いとり、真の和解と協力の道へ進みましょう”と強調しました。誤った歴史認識と感情を整理しなければ、韓日関係はもちろん東北アジアの未来を約束することは困難だからです。
しかし、この1年間、神社参拝と歴史教科書歪曲、そして独島問題まで、大きく変わったことはありません。指導層の神社参拝は続いており、侵略戦争で独島を強制占領した日を記念までしています。
このような事情から、わが国の国民の立場としては、今もなお日本が侵略と支配の歴史を正当化し、またもや覇権の道へと進むかもしれないという疑念をもつことは当然のことでありましょう。
神社参拝は戦争反対の決意を新たにするためのもので、個人の問題であるから、よその国が干渉する問題ではないと言っています。しかし、国家指導者の言葉と行動の意味は、当事者自身の釈明によってではなく、その行為が帯びる客観的性格によって評価されるものです。国家指導者の行為は、人類普遍の良心と歴史の経験に鑑みて、はたして相応しいものであるかを基準に評価されるしかないのです。
日本はすでに謝罪しています。私たちは繰り返し謝罪を求めることはしません。謝罪に相応しい実践を求めているのです。謝罪を翻す行動に反対しているのです。
‘周辺国が抱いている疑念には根拠がない’と言葉で言うだけではなく、疑いを抱かせる懸念のある行動を自制することが道理にかなっています。すでにドイツなど世界の国々が実践している先例がその基準になりうると思います。
日本が‘普通の国’ひいては‘世界の指導的な国家’になろうとするなら、法を変えて軍備を強化するのではなく、まず人類の良心と道理にあった行動をすることによって、国際社会の信頼を確保していくことが、正しい道であろうと思います。
私は、大多数の日本国民の思いも、これと変わらないと思っています。私たちは、日本国民の良識と歴史の大義を信じて、粘り強く説得し、また要求していくつもりです。国民の皆様
我々の歴史の問題も整理していかなければなりません。
許しと和解を前提に真実を明らかにし、過去史に端を発した分裂を解消し、信頼と統合の新たな社会をつくっていくために、私たちは今、過去史を整理しています。
ところでこれらの過去史は、それ自体がまさに歴史です。過去史整理の過程をみると、私たちの歴史には、いまだに解明されていなかったり、誤って記録されている歴史が相当にあるということが察せられます。
隣国に対して、誤って記された歴史を正せと堂々と主張するためには、私たちの歴史も、誤って記された部分があれば正し、埋もれているものがあれば発掘していかなければなりません。
今進められている過去史整理の過程は、このような歴史的観点から理解されるべきであり、またこのような観点を考慮して進められるべきであります。国民の皆様
3・1運動当時に、全ての同胞がともに叫んだあの日の喊声と、あの日ひとつとなった我が民族の魂を記憶しましょう。そしてひとつとなった力によって、先進韓国の夢を必ずや成し遂げましょう。私たちの子孫が誇れる栄光に満ちた大韓民国の歴史をつくっていきましょう。
ありがとうございました。