稲葉振一郎・松尾匡・吉原直毅『マルクスの使いみち』(太田出版)を、とりあえず読み終わりました。
いまでもマルクスは有効だと思っている僕の目から見ると、松尾匡>吉原直毅>稲葉振一郎 の順で、言われていることに納得。第2章で、搾取理論を捨てたとされるローマーにたいし、「搾取概念にこだわっていく」とする松尾氏が、置塩先生の「マルクスの基本定理」に依拠しながら次のように指摘されているのに注目したいと思います。
マルクスの『経済学批判要綱』(1857?58年)でみてとれる『資本論』体系の根本的なストーリーは、資本主義というのは相対的剰余価値生産を推進するのだと。相対的剰余価値生産とは、人々が生活物資を作るための直接間接の労働生産性が上昇していって、人々の生活を再生産するためにどうしてもしなければならない労働が減少することですが、マルクスはこうして自由時間がつくられるのだといっています。人間が個性を開花させ、その能力を全面的に発揮して、本当に人間らしく生きることができるのは、この自由時間のなかにおいてだというわけです。マルクスのなかには、この自由時間を最大化することが人類の目的だというような志向があり、これは確かに、投下労働価値の森嶋流の定式化である労働最小化とぴったり合致します。マルクスにいわせれば、この、本来だったら自由時間になったはずの時間が、資本主義のもとでは他人のために働かされる時間になる。これが搾取だというロジックになっています。どこまでも自由を希求するのがマルクスの基本的価値観で、僕もそれを引き継いで先ほどから述べている搾取論解釈をとっているのです。(本書、100ページ)
現実の搾取を、そのたびに「本来の自由時間」と比較する必要はないと思いますが、マルクスの搾取論がそういう意義をもっていることは、松尾氏の指摘するとおりだと思います。
これにたいして、吉原氏は、「資本主義における正の利潤の唯一の源泉が労働搾取の存在である」という「マルクスの基本定理」は、「もはや喪失された」、「『労働搾取の存在』自体を何ら否定するものではない」が、「それが『唯一の源泉』である、という主張」は否定される、という立場です(同、111ページ)。さらに「『唯一の価値生成的生産要素としての労働』論自体、たんなるひとつのレトリックに過ぎず、それは論証できるような性質の言明でもありません」(同、118ページ)とも述べています。吉原氏の理論の詳細を僕は知らないので、これだけでは何とも言いようがありませんが、「たんなるひとつのレトリック」などと言われて、ハイそうですか、とはなかなか言えません。(^_^;)
で、それよりももっと「ヘタレ」(稲葉氏がこの本で書いている意味で)だと思われるのが稲葉振一郎氏。それは、ちくま新書『「資本」論』を読むべし、ということですが、何にせよ、
経済学の理論的な知識を使って、現状が直面している経済環境条件……を前提として、どういう代替的な経済システムなり社会システムが実行可能かを、理論的に設計してみる。それによって、どの程度によりましな改革が可能であるかについての、ある程度の見通しをもてるかどうかをはかっていく(吉原氏の発言、172?173ページ)
という立場には賛成です。というか、僕に言わせれば、ローマー的分配的公正論だって、ちょっと「空想的に将来社会の詳細な絵を描くタイプ」のように思えるので、もっと手近なところにある政策的対案(経済システムとか社会システムとかいうレベルまで行かないような水準での)を考えてみるべきだと思っています。
それから、御三人とも、「正統派マルクス主義」ないし日本共産党というものを相当程度に意識されているようですので、あえて付言しますが、日本共産党は、すでに2年前の党大会で「前衛党」という自己規定をやめています。そして、「前衛党注入理論」的な「旧唯物史観」(松尾氏)についても、相当大胆な理論的再検討をしていることを申し上げておきます。そういう意味でも、議論の垣根はもっと低くしたいなぁというのが僕の率直な感想です。
なお、本書は、3人の座談という形式をとっていますが、第2章は、稲葉氏と松尾氏の対談に吉原氏が後から加筆、第3章は、稲葉氏と吉原氏の対談で、松尾氏が登場しません。ということで、松尾氏が最後に「ちょっとまとまってしゃべれたところほど後から削られて不満が残りました」(229ページ)というのが何を指しているのか、ちょっと勘ぐりすぎかも知れませんが、まあ、稲葉氏を中心としてまとめられた本なので、その辺りに松尾氏とのスタンスの違いが出たのかも知れないと思って読みました。