憲法記念日の社説

憲法改正に反対する社説。こういう問題では地方紙の方がはっきりした論調を張っているのはどうしてなんでしょうねぇ…。

必要ない憲法改正(八重山毎日新聞 5/3)
国民の視点で議論したい(徳島新聞 5/3)
憲法記念日(神奈川新聞 5/3)
明日は憲法記念日*静かに考える時を大切に(北海道新聞 5/2)
憲法公布60年・輝きを増す「九条」/改正論議の前に貢献評価を(琉球新報 5/2)
憲法記念日/平和の意味かみしめよう(東奥日報 5/3)
[憲法改正論議]機が熟したとは言えない(沖縄タイムス 5/3)
憲法記念日 いま改正へ向かう危うさ(信濃毎日新聞 5/3)

必要ない憲法改正 一段と加速する改憲への動き
[八重山毎日新聞 2006-05-03]

■国民投票で衆院に特別委

 きょう3日は憲法記念日だが、その憲法を改正しようという動きが一段と加速している。昨年10月に自民党が新憲法草案を決定し、さらに同月、憲法改正のための国民投票法案を審査する特別委員会も衆院に与党自民と公明、それに民主の賛成多数で設置され、国会提出が具体的に論議され始められたからだ。周知のとおり憲法改正は、憲法96条で衆参両院の3分の2の賛成で改正案を発議。その改正案を国民投票にかけ、その過半数の賛成で公布となる。
 確かに特別委が設置されたからといって、直ちに憲法改正に向かうというのではない。衆院は自民と公明の与党が絶対多数を握ってはいるものの、参院は勢力がきっ抗し、3分の2の同意を得るためにはどうしても野党第一党の民主党の協力が不可欠。しかし同党は肝心の9条改正で意見集約のめどが立っておらず、さらに公明党も現行憲法に新たに環境権などを加える「加憲」を基本方針として全文改正には否定的であり、その点自民党と考え方に隔たりがあるためだ。
 しかし近年の世論調査では、国民の6-8割は憲法改正に肯定的であり、さらに9条改正に対しても抵抗感は少なくなっているのが現状であり、こうした世論を背景に改憲の動きが今後さらに加速していくのは確実。それだけに憲法記念日は、本当にそれでよいのかを改めて考える機会にしていただきたいと思う。

■「自衛軍保持」を明記

 自民党の新憲法草案は、9条第1項の戦争の放棄は変えないが、しかし日本国憲法の魂ともいえる2項の「陸海空軍その他の戦力は保持しない。国の交戦権は認めない」という戦力不保持の部分を改め、「わが国の平和と独立ならびに国および国民の安全を確保するため内閣総理大臣を最高指揮者とする自衛軍を保持」するを明記した。
 いわばこれは日本が、「戦争をしない国」から状況によっては米軍と一体となって「戦争をしてもよい国」に変わることである。
 確かに日本は、周辺事態法など有事法制などいろいろな法律をつくってこれまでもなし崩し的に憲法を無視し、米軍の後方支援などを名目に自衛隊の海外派遣など実質的に戦争する国に道を開いている。
 そしてイラクでは、幸いこれまでは最悪の事態は起きていないが、多くの自衛隊員がいつ収まるかもわからない米軍とイラクの武装勢力との戦闘と、あるいはイラク人同士の宗教戦争である内戦状態の中で戦禍の危険にさらされている。
 政府は、6年前の米同時テロ後、テロ特措法を制定するなど米軍との連携をさらに強める一方で、北朝鮮の核開発や中国脅威論などで国民の国防への危機感をあおり、改憲への環境作りを加速させている。そして先に触れたように国民世論も改憲に抵抗感はない。ということは憲法9条が危ないということだ。

■市民運動の強化を

 そこで単純に思うが、なぜ憲法を変える必要があるのかということだ。改憲派は米国の押し付けとか、現状にそぐわないとか、憲法を変えないのは日本だけとか、いろいろ理由を並べているが、1947年の制定以来およそ60年、変えないために困った日本国民がどれだけいるのだろうか。むしろ憲法のおかげで日本国民はすべてが平和を享受している。それだけに愚直にも憲法改正、9条改正は必要ないを訴え続けたいと思う。
 しかし現実には9条は危機だ。それだけに石垣市をはじめ全国各地区で9条の会が発足、市民運動を展開しているものの、まだまだ大きな盛り上がりに欠けるというのが現状だ。
 政党も護憲政党の共産、社民は弱体化し、与党の公明に期待がかかるが、自民党との与党の枠組みの中で見通しは不透明だ。それだけに今一度市民運動を強化して大きなうねりにする必要がある。平和は、他人任せや心で願うだけでは実現しない。私たち一人ひとりの行動でしか手に入らないというのは確かだろう。

国民の視点で議論したい
[徳島新聞 5/3]

 きょう三日は憲法記念日である。戦後の混乱の中にあった六十年前の一九四六年十一月三日、わが国の最高法規として公布された日本国憲法が、翌年五月三日に施行された。
 焦土から立ち上がり、平和を守りながら今日の繁栄を実現して、自由な民主主義社会を築くことができたのは、日本国憲法があったからといえる。このことを胸に刻んでおかなければならない。
 だが、憲法改正についての論議はまったくタブー視されなくなった。憲法施行から五十九年、内外の情勢は大きく変化した。改憲が現実味を増す中で、私たちは憲法に目を向け、国会や政党の議論に耳を傾けながら、一人一人がしっかりとした憲法観を確立する必要があろう。
 憲法は国の基本の法律であり、安易に改正すべき性格のものではない。現行憲法を正しく評価するとともに、どこに問題があり、どのように改正すればよいのか、変えない方がよいのか、国民の視点から慎重に検討したい。
 改正問題での最大の論点は戦争の放棄をうたった九条であろう。議論の際に、この論点を外すべきではない。
 自民党は昨秋、「新憲法草案」をまとめた。政党が改憲案を具体的な条文として発表したのは初めてのことだ。
 この中で、戦争放棄をうたった九条の一項はそのまま残しているが、戦力の保持や国の交戦権を認めないことを示した二項は削除した。そして、新たに「自衛軍」が位置づけられている。
 民主党も昨秋に発表した「憲法提言」の中で「自衛権」を明確にした。先月には全国に先駆けて徳島市で憲法対話集会を開いたが、各地で憲法提言への好感触がつかめれば条文化する方針だ。
 九条改正を目指す動きに、危機感を募らせる人たちは少なくない。徳島県内では先月、弁護士三十人による「徳島弁護士9条の会」が結成された。きょうも護憲団体による講演会や街頭キャンペーンが予定されている。
 九条改正をめぐる護憲派の人たちの懸念も理解できる。戦争の反省の上に立つ現行憲法の平和主義の理念は、近隣諸国をはじめ世界に向けた「不戦の誓い」でもあり、堅持すべきだ。
 イラクへの自衛隊の派遣は「非戦闘地域」への人道復興支援とされているものの、専守防衛の自衛隊の海外派遣はエスカレートするばかりである。それでも、海外での武力行使を禁止した九条が、際限のない米国からの協力要請に対する歯止めとなっているのは間違いない。
 気になるのは、これまで熱心に改憲を叫んできた人たちが最近、思いのほか静かなことである。自衛隊のイラク派遣でも分かるように、憲法解釈を拡大しさえすれば、改憲をしなくても何でもできると考えるようになったからかもしれない。そんな見方も広がっている。
 九条改正の必要性を主張する人たちの中には、そうした憲法の形骸(けいがい)化、空洞化に歯止めをかけようとの思いもあるようだ。それが本当に日本のためになるのかどうか。ここは国民一人一人が時間をかけて慎重に考えなければならない。
 憲法は国民のためにある。憲法は国民に義務を求めるのではなく、国家権力が国民に対して勝手な権力駆使をしないように制約するための規範であると考えるのが基本である。これからの憲法論議でも、その原則を忘れるべきではない。

憲法記念日
[神奈川新聞 May 3, 2006 6:37:08 PM]

 憲法記念日を迎えた。残念ながら、憲法をめぐる状況は年を追うごとに悪化していると言わざるを得ない。平和主義、基本的人権の尊重という大原則が傷つき、憲法の空洞化が進んでいる。自民党が新憲法草案を発表するなど憲法改正論議が高まっているが、われわれ主権者がすべきことは、政治権力者に「憲法尊重擁護義務」(憲法九九条)を果たさせることである。
 まず問われるのが在日米軍再編の最終報告である。もともと、イラク戦争のように国際法違反も辞さない米国の先制攻撃戦略と、憲法前文と同九条の平和主義が、真っ向から背反することは明らかである。にもかかわらず、キャンプ座間への米陸軍第一軍団司令部の改編移転など、日米の軍事的「融合」が、国民に十分な説明もないまま進められている。
 さらに、基地負担軽減をめぐる協議では、独立国とは言えないような日本の現実が浮き彫りになった。基地の返還も使用方法も米軍の「都合」次第。在日米軍部隊がグアムに戻るために日本側が約七千百億円を負担するといったことは世界でもほとんど例がない。地元の意思を無視して、原子力空母の横須賀への配備も「通告」された。わずかな基地負担軽減の代わりに、平和主義、国民主権が踏みつけにされている。
 米国は今後、世界的規模で日本の軍事的協力を求めてくるだろう。それに伴って、集団的自衛権行使を可能にするための憲法九条改正論がさらに高まることが予想される。戦争への最後の歯止めとして、九条を擁護する意味がますます大きくなっている。
 こうした平和主義に逆行する動きと表裏一体で進んでいるのが基本的人権の危機。その象徴が国民に「愛国心」を強制しようとする動きである。このほど政府が国会に提出した教育基本法改正案は「我が国と郷土を愛する態度を養う」とした。
 国歌・国旗をめぐる教育現場の現状を見れば、今後、政治権力に都合のよい「愛国心」が、教育の名の下に強制されるのではないか、と懸念される。思想良心の自由に政治権力が土足で踏み込むことは許されるものではない。
 国民の「愛国心」を高めるのに必要なのは、良い政治によって魅力ある国づくりを行うことではないか。政治家が声高に「愛国心」を語るのは、政治と政治家の腐敗、暴走の証明とも言える。
 現在、権力を制限し、人権を守るという憲法の役割をねじ曲げ、国民に新たな義務を課そうとする改憲論が独り歩きし始めている。しかし、憲法九七条が記すように「基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」である。日本国憲法の意義を学び直し、先人の遺産を継承したいものである。

明日は憲法記念日*静かに考える時を大切に
[北海道新聞 5月2日]

 日本国憲法が施行されてから、あす三日で五十九年になる。
 憲法は戦後の風雪に耐えてきた。その長い歴史の中でも、昨年は改憲への動きがひときわ高まった年だった。
 自民党は昨年十月「新憲法草案」を発表した。国会では改憲手続きの国民投票法案をめぐる論議が始まった。
 ただ、今年は、ひところの熱気とは違って、改憲への動きはかなり沈静化した印象がある。
 小泉純一郎首相の改革路線政治の陰に生じた「格差社会」問題、アジア近隣外交の行き詰まりと緊張、デフレ経済からの脱却。その他を含め、政治が緊急に取り組まねばならない課題が数多く浮上してきたからでもあろう。
 改憲をめぐる「静かな時間」が、つかの間訪れた。今こそ、このひとときを大切にしたいと思う。

*守らねばならないものは

 憲法とは何か、それを改めることにどんな意味があるのか、思いをめぐらせるには時間が要る。しかも、考えるための材料も増えた。
 改憲論が盛り上がった昨年の憲法記念日に合わせて、わたしたちは次のようなことを書いた。
 今の憲法は、戦争の反省を踏まえた、世界に対する不戦の誓いであり、この精神は忘れてならない。
 憲法とは、国民に対してというより、国などの権力に対し「してはならないこと」を示すものであり、この近代立憲主義の精神は守るべきだ。
 歴史、文化、伝統など、個人で違うはずの価値観を一方的に教え諭すことは憲法としてふさわしくない。
 この考え方は、何ら変わらない。
 不戦の誓いの精髄ともいうべきものは、憲法の前文と第九条であろう。
 前文には「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」とある。
 第九条は「戦争の放棄」の第一項を「戦力不保持・交戦権の否認」の第二項で補強することで、不戦の決意を具体的なものにしている。
 自民党の新憲法草案は、今の憲法の前文を廃棄し、第九条第二項も捨て去った。つまるところ、海外での戦闘や武力行使に制約を受けない「軍」を持つことこそが、この改憲案の狙いと言うことができるものだった。

*戦後の大転換でいいのか

 それから半年あまりが過ぎた。そのわずかの間に、世界の状況は大きく動いた。
 米国は、イラク戦争で抜き差しならぬ状態に陥っている。強大な軍事力をもってしても、平和で民主的なイラク国家づくりがいかに困難かが、日々、浮き彫りになっている。
 一方で、米国は独自の国益観と戦略観に立って、世界規模で米軍の再編を進めている。
 米国政府は、そのために三兆円を超える理不尽な負担を、日本国民に課すという意図を、つい最近、明らかにしてもいる。
 日米同盟が存在している以上、「普通の国」としての軍隊を持てば、米国の世界戦略に日本がさらに組み込まれることを意味するだろう。
 だとすれば、戦後の日本の国づくりの原理からの逸脱であり、大きな方向転換になることは間違いない。
 憲法を変えるにしても、何が未来の日本と、そこに生きる国民、周辺諸国民との共存にとって望ましいことか、時間を惜しまず考える。
 それが今、切実に求められているのではないだろうか。

*誇りたい立憲主義の水脈

 憲法はだれのものか。これもあらためて考えてみたい課題だ。
 明治初期の思想家で民権運動家に、土佐藩出身の植木枝盛がいた。
 明治憲法制定に向けて発表された多くの私案の中に、植木の「東洋大日本国国憲按(あん)」(一八八一年)がある。
 そこから読み取れる人権意識や、憲法によって国・権力を律するという立憲主義の精神は今も新鮮だ。
 例えば、三十五条にもおよぶ国民の権利は、思想、言論、集会、結社、宗教などの自由や、法の下の平等など、今の憲法と遜色(そんしょく)がない。
 しかも「政府が国憲に背いた時は国民は従わなくていい権利」「権利を害した政府を倒す権利」などもある。憲法によって権力の暴走を防ぐという立憲主義の心が躍動している。
 植木の憲法案は、戦後、日本国憲法を制定する過程で参考にされた。
 今の憲法を貫く立憲主義が、戦後、突如現れたのではなく、明治以来の日本の歴史に根ざすことを考えるのも、改憲を論じる時に無駄ではない。
 その点では、自民党の新憲法草案が国民に「国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支える責務」を課しているのは気がかりだ。
 権力でなく国民を規制する点、個々人の価値観に踏み込む点で、今の憲法からの距離は想像以上に大きい。
 同じ流れは教育基本法改正の動きにも見て取れる。政府の改正案は、本来は一人一人の価値観に由来するはずの愛国心を、「国と郷土を愛する」として教育への導入を目指している。
 わずかな変更に見えても、針路の振れは容易には戻せないのが、国の基本原理である憲法の改正だ。
 いま一度、憲法と、その改正が意味するものを静かに考えてみたい。

憲法公布60年・輝きを増す「九条」/改正論議の前に貢献評価を
[琉球新報 掲載日時 2006-5-2 9:43:00]

 日本国憲法は戦争放棄と戦力不保持をうたった世界に誇れる憲法である。学校教育の中で、繰り返しこう教えられ、その意識はしっかりと根付いた。さらに、誰に強制されることなく、平和憲法を持つこの国を誇らしく思った。過去の戦争で「お国のために」と促されて死んでいった方々の死を無駄にするまいという決意はゆるぎなかった。だが、公布から60年。今やかつてないほどの危機感が漂う。誇れるはずの憲法が「古着」扱いされ、「実態に合わない」と批判される。改正論議は大いに結構。しかし、60年にわたり国のよりどころであり続け、日本の針路を正してきた憲法を軽々しく扱ってはならない。

国家権力の暴走防止

 憲法改正論議の焦点となるのは平和主義を支える九条である。改正論議の高まりの中で、同条も既に聖域ではなくなった。
 自民党は、昨年10月に発表した改憲草案で自衛軍の保持を明記し、集団的自衛権行使を認めた。さらに「国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動」に参加できると規定し、海外での武力行使に事実上、道を開いた。
 この論議では、常に米国の影が不気味に見え隠れする。イラク問題もしかり。テロが日常的に発生し、一向に治安が安定しないイラクに派兵している米国は、「軍事パートナー」として日本に治安維持など、さらに一歩進んだ役割分担を求める。しかし、日本は踏み出せない。なぜか。憲法がそれを禁じているからである。憲法は国家権力の暴走を抑える重しなのだ。
 「愛国心」論議も憲法を脅かしている。最終的に教育目標として「国と郷土を愛する態度」という文言で教育基本法改正案に盛り込まれ、今国会で審議されているが、「国を愛する態度」が法で規定されたらどうなるのか。学校現場で「愛国心」が評価の対象となるなど、それが一人歩きするのは容易に想像できる。心理的な強制になり、かつての「非国民」という言葉がよみがえる危険性がある。
 さらに「共謀罪」新設を柱とした組織犯罪処罰法の改正案も今国会で審議されている。この改正案は、実行行為がなくても謀議に加わるだけで処罰可能となる。警察権力による市民生活の監視、市民同士の密告など、背筋の寒くなるような社会がすぐそこまでやってきている。

同じ過ち繰り返すな

 これらの動きは、一つの方向に収束されていくような気がしてならない。戦争へと突き進んだかつての時代である。国家権力による国民生活の抑圧。国策に批判的な言動を発すれば「非国民」となじられ、自由な言論活動もできなくなる。果ては、国と国との殺し合いに行き着く。わたしたちは歴史に学ばなければ、また同じ過ちを犯すことになる。
 憲法記念日を機に、あらためて憲法の存在価値を考えてみたい。現状に合わなくなったから、と改正を急ぐべきではない。60年間現憲法が果たしてきた貢献を見つめ直すべきである。
 紛争などに対する国際貢献を求められるのなら、憲法に立脚し、毅然(きぜん)とした日本独自の主張をし、貢献すればよい。現状のイラクを見れば分かる。米国が大規模戦闘の終結を宣言してから3年にもなるのに、テロによる犠牲者は後を絶たない。武力による紛争の完全解決は不可能に近いといえよう。
 県民は、沖縄戦での経験から軍隊の本質をよく知っている。住民を守るどころか、逆に戦火へと追い立てることがあり、むしろ危険は増す。だからこそ九条、とりわけ二項「戦力不保持」は多くの県民の願うところだ。また、戦後、米軍施政権下の沖縄は憲法の枠外という屈辱的な状況にあった。復帰後、憲法の恩恵にあずかった県民こそ、存在の重さをよく知っているといえよう。
 憲法改正のための国民投票法案も今国会提出へ向け準備が進んでいる。論議を否定するつもりはないが、現憲法を「古着」扱いすることはやめてほしい。世界各地で紛争が頻発する現状では、むしろ「日本国憲法」は輝きを増している。「戦争放棄」の精神を世界に向けて発信すれば、子供たちに「愛国心」教育など必要ない。誇れる憲法を持つ誇れる国。子供たちはしっかりとこの意識を受け継ぐに違いない。

憲法記念日/平和の意味かみしめよう
[東奥日報 5/3]

 日本の憲法は「戦争放棄」「戦力不保持」を明記した世界でも希有な平和憲法である。
 戦後六十年余、世界でいくつもの戦争があったが、日本は巻き込まれることなく、平和を享受してきた。この憲法があったからである。
 国際貢献の名の下に、その憲法を改正し、海外で武力を行使できるようにしようとする動きがいま勢いを増している。希有な憲法を維持するのか、「普通の国」の憲法に近づけるのか、国民はその瀬戸際に立たされようとしている。
 今日は日本の憲法が施行されてから五十九回目の記念日である。この日がいつまでも祝福すべき記念日となるよう、一人一人があらためて平和の意味をかみしめる必要がある。
 自民党は連休明けにも国民投票法案を衆院に提出し、成立を目指す。憲法を改正するためには、国会のほかに国民の承認も得なければならない。国民投票法は憲法改正への布石となる。
 自民党は昨年まとめた「新憲法草案」で、九条の「戦争放棄」を定めた第一項は維持することにしたが、二項の「戦力不保持」「交戦権否認」は削除し、「自衛軍保持」を明記した。
 国際社会の平和と安全に寄与することも明確にし、現憲法では許されない「集団的自衛権」の発動や、国際協力活動としての「海外での武力行使」を解釈で容認する立場も打ち出した。湾岸戦争以来の課題を一気に盛り込んだ。
 民主党も「武力行使は最大限抑制する」との条件を付してはいるものの、国連主導の集団安全保障活動への参加を打ち出し、海外での武力行使を容認する方向にある。
 しかし、武力の行使が必ずしも国際平和につながらないことはイラク戦争が証明している。
 米国が先制攻撃してから三年以上になるのに、平和がやってくるどころか、イスラム教のスンニ派とシーア派の殺し合いが内戦状態にまで拡大している。
 日本は日中戦争と第二次世界大戦でアジアの多くの人々の命を奪った。自国の兵士や民間人も約三百十万人死んだ。原爆も二発投下された。憲法はこの悲しみと反省の中で生まれた。
 つくったのは連合国軍総司令部(GHQ)だが、日本はこれを受け入れた。もう戦争はごめんだという非戦の誓いを込めたのである。私たちはもう一度、この原点に返って憲法を考える必要があるのではないか。
 後に自衛隊誕生やイラクへの自衛隊派遣など、玉虫色の要素がさまざま加わったが、憲法九条が常に「一線」を越えさせない歯止めとなった。
 だが、仮に集団的自衛権が容認されれば、同盟国の米国に追随して、歯止めの利かない海外派兵につながる恐れがある。
 内閣府が先月発表した世論調査によると、自衛隊の海外派遣を伴う国際平和活動について「現状維持」が53.5%と、「これまで以上に積極的に」の31.0%を大幅に上回った。日本を守る方法としては「現状通り日米安保と自衛隊」を選んだ人が76.2%に上った。
 自民党が思うほど、国民は現状を変えることを望んではいないのである。

[憲法改正論議]機が熟したとは言えない
[沖縄タイムス 2006年5月3日朝刊[

前文と九条の理念誇ろう

 私たちは憲法の前文に書かれた「平和主義」と第九条にある「戦争放棄」の理念を本当に誇りにし、大事にしてきたと言えるだろうか。
 憲法は国民を守るもの―と何となく思い、そう受け取ってきてはいまいか。憲法とは何か。私たちの暮らしにどう根付いてきたのか。
 憲法改正論議が勢いを増すなか、憲法記念日のきょう、もう一度憲法とは何なのかを考えてみたい。
 第九九条はこう記している。
 <天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ>
 「憲法は国民が守るものではない。国家権力を縛り、政治家にしっかりと守らすためにある規範」(水島朝穂早大教授)なのである。
 では論点を絞って、小泉純一郎首相はじめ現政権は憲法第九条を守っていると言えるだろうか。
 「護憲的改憲派」である小林節慶大教授は「政府はこれまで、憲法を前提に海外派遣は禁止という解釈を重ねてきたのに、内乱状態のイラクに非戦闘地域があるとうそをついて軍隊を送った」と指摘。「小泉政権の手法は憲法違反」と異議を唱えている。
 憲法改正を党是とする自民党は、昨年秋にまとめた「新憲法草案」で自衛隊を「自衛軍」に置き換えた。
 現憲法で認めていない集団的自衛権についても「自衛権に含まれる」と拡大解釈し、武力行使が可能な「戦争をする国」に道を開いたのである。
 「憲法提言」をまとめた民主党は制約された自衛権とし、「専守防衛に徹し、必要最小限の武力行使にとどめる」方向性を打ち出した。
 公明党は第九条を堅持した上で加憲案をつくり、第九条改正に反対の立場を示しているのは共産、社民の両党だ。
 日本は朝鮮半島や中国、近隣諸国における旧日本軍の侵略行為を反省して世界に先駆けて武力の行使と交戦権を否認したのではなかったか。その意味で第九条が近隣諸国に対する「国際公約」であるのは明らかだろう。
 国際法上認められた自衛権についても「専守防衛」に限定したからこそ信頼を得たのであり、このことを私たちはしっかりと認識する必要がある。

憲法から疎外された沖縄

 沖縄には戦後六十年を経てなお広大な米軍基地が存在している。
 沖縄戦での悲惨な体験から、県民は戦後二十七年間の米軍施政権下でも基地のない平和な暮らしを願い、一九七二年五月十五日の祖国復帰の際は「平和憲法の下に帰る」夢を抱いた。
 だが朝鮮戦争、ベトナム戦争、さらに湾岸戦争やアフガニスタンへの米軍出撃、そしてイラク戦争が県民の願いをことごとく打ち砕いた。
 日米安保条約が、平和憲法の理念を公然と踏みにじったといわれるゆえんである。
 沖縄の戦後は平和憲法から疎外された歴史とも重なる。ただ私たちが自省しなければならないのは、基地被害を訴えるなかで「平和憲法」を武器に、その「順守」を政府に徹底して問い続けてきたかどうかだ。
 いま世界は猜疑心に包まれ、テロなどの不穏な空気が漂う。だからこそ憲法前文と第九条にある理念の普遍性は一層輝きを増しているのではないか。
 戦後六十年を経て一度も交戦せず一人も戦死者を出さなかったのは第九条があったからだ。国民には第九条の順守を政治家に問う責務があり、改正を目的にした論議には敏感にならなければならない。

改正のハードル下げるな

 自民、公明両党は憲法改正法案を今国会に提案する方向で民主党と調整している。
 自民党の「憲法改正手続き法案」(仮称)は、投票権者を選挙権を持つ二十歳以上とし国民投票の期日を憲法改正の発議から「六十日以後、百八十日以内」にした。
 現憲法で衆参両議員の三分の二の賛成が必要とされる条件は二分の一に。国民投票の有効性も有権者の過半数から投票総数の過半数にした。改正に向けハードルを低くしたのは明らかだ。
 憲法改正論議に異を唱えるわけではないが、機も熟さぬまま国の基本法を変える姿勢には疑問が付きまとう。
 言うまでもないが、国の最高法規の改正には「高度の説明責任が必要」(水島教授)である。
 「現状に合わないから憲法を変える」という論法は危険であり、憲法改正には私たち国民の責任もまた厳しく問われていることを自覚したい。

社説=憲法記念日 いま改正へ向かう危うさ
[信濃毎日新聞 2006/05/03]

 政治の流れが変わろうとしている。小泉純一郎首相は9月に退任する意向を変えていない。前後して民主党の代表選が行われる。憲法論議も新しい局面を迎える。
 衆参両院は昨年4月、改正の論点を整理した報告書をそれぞれまとめている。自民党は同10月に新憲法草案を決定、続いて民主党も「未来志向の新しい憲法を構想する」とする「憲法提言」を発表した。
 憲法改正は衆参各議院の3分の2以上の賛成で発議できる。国民投票を行い、過半数が賛成すれば、憲法は変えることができる。
 各種の世論調査では、改正の必要性を認める答えがおおむね半数以上を占めている。時の流れは憲法改正、と見えないでもない。

<環境は整ったか>

 だからこそ、と言わねばならない。改正への具体的一歩をいま踏み出すことには慎重であるべきだ。
 理由を2つ挙げる。第1は政府の姿勢の危うさだ。
 イラクにはいま自衛隊が派遣されている。事実上、戦争状態にある国への派遣である。
 「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」
 憲法九条にはこう書いてある。自衛隊は海外では戦闘行為にかかわることはできない。素直に読めばそう解釈できる。
 そこで政府が編み出したのが「非戦闘地域」の理屈だった。戦闘が行われていない場所に出向くのだから、武力行使することはあり得ない。したがって派遣は憲法に抵触しない。政府はそう主張した。
 これがごまかしであることは、首相自身の言葉が裏書きしている。

<政治のごまかし>

 非戦闘地域はどこか。国会で問われたとき、小泉首相は「私に聞かれたって分かるわけない」と答えた。「実質的に自衛隊は軍隊だろう」。そう言い切る首相の姿勢を、野党も追及しきれないでいる。
 自民党内には、国民の義務規定を憲法に新たにうたうべきだとの主張も根強い。憲法は本来、政府が権力をむやみに振り回さないよう縛りをかけるものである。「義務規定を」との主張は、憲法の原則をはき違えている。
 いまの政治は、憲法改正論議をまかせるには危なっかし過ぎる。
 理由の第2は、取り巻く環境の難しさだ。特に、ブッシュ米政権の姿勢である。高官が日本に向けしきりに、憲法改正を促すメッセージを送ってくる。集団的自衛権行使に道を開き、世界を舞台に米軍と自衛隊が協力し合う関係を整えようという意図が読み取れる。
 日本を巻き込んで米軍再編も進んでいる。米本土から司令部が日本に移ってくる計画だ。在日米軍基地に自衛隊が同居し、一体化傾向をさらに強めようとしている。
 世界のどこへでも出向く米軍のシステムに、自衛隊はさらに強固に組み込まれる。憲法論議をいま加速させれば、平和の理念は足元をもう一段、掘り崩される。
 アジア諸国との関係もよくない。韓国との間では先日、竹島をめぐり緊迫した場面があったばかりだ。
 憲法の戦争放棄条項には、アジア諸国に多大な惨禍を及ぼした歩みへの反省が刻み込まれている。歴史に時効はない。いま憲法改正へ踏み出せば、要らぬ誤解を招く心配が大きい。重ねてきた平和外交の実績が突き崩されかねない。
 国内に目を向ければ、雇用不安、学校の荒廃、不正の横行など、暗い出来事が多い。中国や韓国で反日感情が噴き出すのに対応する形で、偏狭なナショナリズムが頭をもたげ始めている。
 米政府の姿勢、アジアとの関係、国内の社会状況。取り巻く環境はどれをとっても、憲法改正を論じるのにふさわしくない。

<理念を強めるために>

 平和主義、国民主権、基本的人権の尊重が憲法の3大原則とされている。これは何も、日本の憲法だけのものではない。近代民主国家の憲法には、表現は違っても何らかの形で3つの原則が盛り込まれている。
 戦争放棄の条項も、日本の専売特許ではない。1929年の不戦条約は「締約国は国際紛争解決のため戦争に訴ふることを非とする」と定めている。
 戦争を非合法化する努力は、2度の大戦を挟んで世界で連綿と続いている。第2次大戦後はフランス、旧西独などが、戦争行為そのものを制限する憲法を定めた。
 日本は戦争に負けたために、何か突拍子もない憲法を持つに至ったと考えるのは間違いだ。日本の憲法は平和を目指す人類の取り組みを、しっかり踏まえている。
 「押しつけ憲法」論も根強い。確かに、憲法の制定作業は米軍の占領下で、米国の意向を受けながら進められた経過がある。
 半面、戦争の惨禍を体験した日本人が、平和憲法を心の底から歓迎したのも事実である。そして今日まで守り続けてきた。押しつけ論は一面的な見方でしかない。
 日本の憲法は世界に通じる普遍性を持っている。自信を持って、理念を強化し、新たな力を吹き込むことを考えたい。

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