重田澄男『マルクスの資本主義』

重田澄男『マルクスの資本主義』(桜井書店)

重田澄男氏の新刊『マルクスの資本主義』(桜井書店)を読み終えました。

マルクスは、資本主義を表わす術語として、『哲学の貧困』(1847年)では、フランス語で、la production bourgeoise(ブルジョア的生産)と表記。『共産党宣言』(1848年)や『賃労働と資本』(1849年)あるいは『経済学批判』(1859年)では、ドイツ語でdie brügerliche Produktionweise(ブルジョア的生産様式)と表現していました。これが、『資本論』ではdie kapitalistische Produktionweiseという用語になっていることはよく知られているとおりです。

本書は、マルクスの資本主義概念が、なぜ、このような「ブルジョア的生産様式」という用語から「資本主義的生産様式」という用語に生まれ変わらなければならなかったか、その謎解きしようとしたものです。そのことを明らかにするために、著者は、『ロンドン・ノート』(1850?53年)や『経済学批判要綱』(『1857?58年草稿』)をたんねんに調べており、ほんらいの謎解き以外にもいろいろと興味深い論点が取り上げられていると思いました。

その1つは、「ロンドン・ノート」の内容が詳しく紹介されていること。「ロンドン・ノート」は、まだ新MEGAでの刊行が終わっておらず、もちろん全24冊のノート全部の邦訳など存在しません。本書には、非常に簡単なものですが、24冊のノートの主内容のリストがかかげられていて、そこから、マルクスが、同ノートをつくりながら、貨幣の独自の役割に注目するようになったことが分かります。

また、『経済学批判要綱』の“謎”が追究されているのも面白いと思ったところです。たとえば、『要綱』は、冒頭に、「II)貨幣にかんする章」という見出しが書かれていますが、一番最初に「II)」とあるというのは考えてみると、実に不思議。しかも、この「II)貨幣にかんする章」という見出しは、ノートをとりはじめた最初に書かれたものではなく、しかも「貨幣にかんする章」という見出しと、「II)」という書き込みも別の時期らしいというのです。それなら、いったい、いつマルクスは「II)」、「資本にかんする章」と書き込んだのか? 実に謎です。(^_^;)

また、『要綱』は、ダリモンの著書『銀行の改革について』の抜粋と評注から始まっていますが、読んでみても、ここでマルクスが何を言いたいのかよく分からないところです。(^_^;) いったい、なぜ『要綱』がダリモンの抜粋から始まったのか? それにはどういう意味があるのか? これもなかなか大きな問題です。

こういうところに、解明のメスが入れられていて、興味深い論点がいろいろ浮かび上がってきます。たとえば、『要綱』段階での革命論と『資本論』段階での革命論の違いとか、「富の源泉としての労働と自由時間」といった論点などなど。読みながら、なるほど、こういう角度で『要綱』を読み返してみると面白いなと思うところがいっぱいありました。

で、最初の“謎解き”に戻ると、マルクスは、『要綱』の「資本にかんする章」において、たんなる商品・貨幣関係とは異なる資本主義的な経済関係を表現するのに、「資本にもとづく生産」とか「資本を基礎とする生産様式」などの表現を用いるようになり、そこから、「資本主義的生産様式」という表現が生み出されていったというのが、著者の結論です。こう書いてしまうと、あまりに単純かも知れませんが、「資本主義的生産様式」というカテゴリーの前段として、「資本にもとづく生産様式」などの表現が用いられたということだけとってみても、まだまだいろいろ研究してみる値打ちがありそうです。

ちなみに、著者は、マルクスにあるのはkapitalistischという形容詞であって、Kapitalismusという抽象名詞が先にあって、そこからこの形容詞ができた訳ではないという意味で、「資本主義的」という訳語には反対されております。そのため、これまでの著作では、kapitalistischは「資本家的」(Kapitalistの形容詞)という訳語を当てておられましたが、本書では「資本制」という規定詞に変更されています。しかし、「資本制生産」とか「資本制生産様式」という単語を見て、「資本制」というのが形容詞だというのが分かる人もなかなか少ないのでは…? と思ってしまいます。他方で、著者御本人も、「マルクスの資本主義概念は資本主義的生産様式である」というように、現在の術語としては「資本主義」という単語の使用を認めておられるようで、そこにも多少の齟齬を感じてしまいます。

【書誌情報】著者:重田澄男(静岡大学名誉教授)/書名:マルクスの資本主義/出版社:桜井書店/出版年:2006年4月/定価:本体3800円+税/ISBN4-921190-34-8

重田澄男『マルクスの資本主義』」への4件のフィードバック

  1. ちょうど今日、この本を本屋でみつけて、ぱらぱらめくって、値段を見て、図書館待ちにした所でした。GAKUさんの記事をみて、あらためて関心をかきたてられました。
    私はいま、『61-63年草稿』を読んでいますが、ちょうど、「労働過程と価値増殖過程(資本主義的生産過程)」という言葉がでてきて、マルクスの「資本主義」という言葉の使い方が気になっているところです。社会全体を示す用語としての「資本主義」のネーミングは、ホントにマルクス独自のものなのか、ということも、気になったりしています。
    本書はやっぱ、購入し、よく読まないとダメですね。

  2. はじめまして。
    「カッシーニでの昼食」経由でうかがいました。
    いろいろ勉強させてもらいます。社会科学はまだ入り口で、古典で最初から最後まで読んだのは『空想から科学へ』と『フォイエルバッハ論』と『ドイツ農民戦争』だけです。
    「資本制」ということばについて(あるいはドイツ語でもと記載された概念をどう日本語あるいは漢字で表現するかということについて)ですが、…
    工藤恒夫『資本制社会保障の一般理論』新日本出版社、2003年
    という本をこの前買ってきてこれから読もう、というところでした。
    ある程度このことばも成熟しているのかもしれません。(これ以外に根拠はないのですが。)

    またうかがいます。

  3. ぶっさん@高知さん、初めまして。

    マルクスが『資本論』の中で使っているのは、kapitalistischという形容詞です。これを語源的にさかのぼると、Kapital(資本)およびKapitalist(資本家)という名詞があって、そこから派生したと考えられるので、その意味では、「資本家的」という訳語が一番だという説もあります。ただ「資本家的」では経済体制という意味が出ないということで「資本制的」という訳語を使う方もけっこうたくさんおられます。しかし「資本制的」という訳語を使った場合、「資本制」(Kpaitalismus)という名詞が先にあって、そこからkapitalistischという形容詞ができたかのような誤解がありうるので、重田氏は、いろいろと訳語で苦労されているわけです。(その中をとって、「資本家制的」という訳語を使う人もいらっしゃいますが、「資本家制」という抽象名詞が想定される、という意味では問題の解決にはなっていません)

    Kapitalismusという名詞が一体いつ登場したかは、なかなか難しい研究課題です。詳しくは、重田澄男氏の『資本主義を見つけたのは誰か』(桜井書店、2002年4月発行)あるいは『資本主義の発見』(御茶の水書房、1992年4月発行)などを参照されてはいかがでしょうか。

    なんにせよ、Kapitalismusという言葉が一般化したとき、多くの人がそれをマルクスの『資本論』と結びつけて理解したことは間違いなく、その意味で、Kapitalismusという言葉の生みの親は(Kapitalismusという言葉に、概念的な内容を規定したのは)マルクスだと言ってよいと思います。

    ところで訳語として、「資本主義」という言葉がいつ登場したかを調べた文献というのは、僕はまだ見たことがありません。

    また、一般論として、-ismus(英語では-ism)という語尾が、いつ頃一般化したのか、というのもよく分かりません。19世紀前半に、共産主義とか社会主義、集産主義といった言葉が使われるようになったことは確認されているので、その頃には-ismという語尾も一般化していたということはいえると思います。これらの場合では、「?主義」というのは思想・運動を表わしている訳ですが、「資本主義」といった場合は、経済あるいは社会体制を表わすわけで、「?ism」という語尾が、体制を表わすものとして、いつ頃から使われたのか不詳としか言いようがありません。

  4. たいへん丁寧なご返事、ありがとうございます。
    また、すぐにご返答くださったのに、お礼が遅れ、すみません。
    いま読んだだけでは自分の考えがまとまりませんので何回か読み返してゆっくり考えていきます。
    また訪問します。どうぞよろしく。

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