「新自由主義」批判との関係で、あらためて、置塩信雄先生のケインズ経済学にたいする批判を勉強し直そうと、先週から『現代資本主義と経済学』(岩波書店、1986年)を読み返していたのですが、今朝ようやく読み終えました。
これは、『蓄積論』や『マルクス経済学II』で論じられていたことだと思うのですが、置塩氏は、正常に剰余価値を実現するためには、資本家の投資需要が不可欠であることを解明されています。要するに、C+V+MのうちMを資本家の個人的消費だけですべて消費することは不可能だということです。
マルクスは、単純再生産では、Mはすべて資本家が個人的に消費するとしていますが、それはあくまで理論的想定であって、実際にはそういうことはありえず、資本家の個人的消費を超える部分に見合う新規投資需要がなければ、Mの全面的な価値実現は不可能になる、ということです。
で、そのことを、ケインズは「有効需要」の問題として論じたのだ、というのが、本書の第2章「現代資本主義とケインズ理論」です。第3章「現代資本主義とマルクス」のなかでも、この問題が論じられています。
ケインズの「有効需要」理論を、こういうふうにマルクス経済学の側から位置づけているところが、置塩先生の研究の大事なところ。そこから先は、あらためてきちんと整理したいと思うのですが、資本主義経済の動態をリアルにつかむ、という点で、新古典派の想定よりケインズ理論の想定の方がより現実を反映している、ということです。前に『近代経済学批判』(有斐閣、1976年)を読んだときにも、そう思ったのですが、こういうあたりが置塩先生のケインズ批判の面白いところだと思います。
【書誌情報】
書名:現代資本主義と経済学/著者:置塩信雄/出版社:岩波書店/発行年:1986年/定価:本体2,200円+税/絶版(インターネット古書サイト「日本の古本屋」では入手可能)
なるほど! かなり膝を打ちました。これは、ケインズが、有効需要をMの補填として自覚的にとらえていた、ということではないですよね? ケインズなりに、現実のとらえかたの深さがあったから、こういうとらえかたが可能となった、と私なりに理解しました。といっても、本書そのものから、学ばないとだめですね。
洋さん、こんばんは。
>ケインズが、有効需要をMの補填として自覚的にとらえていた、ということではないですよね?
もちろんMの補填というようなことを自覚していた訳ではありません。ケインズは、消費性向が1より小さいので需要不足になると考えて、そこから何らかの投資が必要だと考えた訳です。要するに、Mの実現問題がケインズの頭では、消費性向<1による需要不足というかたちで意識にのぼったということのようです。
それでも、それ以前の新古典派が需要=供給、非自発的失業ゼロという前提を疑ってもみなかったのに対し、ケインズは“現実はかならずしもそうはなっていない”と考えた訳ですから、現実のとらえ方という点では、ケインズの方が新古典派よりリアルだったということになると思います。
詳しくは、置塩先生の『現代資本主義と経済学』や『近代経済学批判』『ケインズ経済学』(新野幸次郎氏との共著)などをご参照ください。
>それ以前の新古典派が需要=供給、非自発的失業ゼロという前提を疑ってもみなかった
正確にはマルサスの「有効需要」論が先駆です。リカードとの論争を想起してください。
別記事の Mill の著書については
http://www.econlib.org/library/Mill/mlP.html
で原文を読むことが出来ます。
tamachanさん、お久しぶりです。
>正確にはマルサスの「有効需要」論が先駆です。リカードとの論争を想起してください。
まあそうですけど、新古典派についていえば、需要=供給であり、非自発的失業という発想がなかったと言っていいと思うのですが。