とりあえず読み終わりました。
本書で、伊東光晴氏が批判しているのは次のような論点です。
- 新古典派が貯蓄を利子率の関数とみなすこと
- 実質賃金率によって労働供給量が決まるとする新古典派の労働市場分析
- 貨幣数量説(ヒックスの「IS-LM理論」)
- カーン流の波及的「乗数効果」理論
- 収穫逓減を前提とした新古典派の均衡価格論
全部理解できたわけではありませんが、それでもなるほどと思うところがいっぱい。置塩信雄先生は、ケインズ理論の方が新古典派よりも資本主義経済の動きをよりリアルに反映していると指摘されていますが、本書を読むと“なるほど”と思います。
●貯蓄は利子率の関数ではない(61ページから)
ケインズの理論では、貯蓄は所得の大きさに依存する(「消費性向」の理論)。伊東氏は、貯蓄を利子率の関数とみなす新古典派の考え方は実証されない、すなわち、1億ドルなどという巨大な資金はわずかな利子率の格差でも移動するが、庶民の貯蓄はわずかな金利差では動かない、とも指摘。
●新古典派の労働市場分析について(66ページから)
貨幣賃金が一定で物価が上がった場合、実質賃金は下がるが、労働者は労働供給量を減らしたりはしない。逆も同じ。つまり、労働者は実質賃金の大きさを考えて労働供給量を決めたりはしていない、ということ。景気の上昇期には、貨幣賃金は上がっているが、物価が先行して上がるため、実質賃金は下がる。しかし、雇用量は増加している。つまり、実質賃金の低下と雇用量の増加が同時に起っているが、これは新古典派の雇用理論と矛盾する。同様に、景気下降期には、物価が大きく落ち、遅れて賃金が下がっていくので、実質賃金は上昇するが、同時に雇用減少が生じる。これも、新古典派の雇用理論と矛盾する。
また、新古典派の雇用理論は、労働者が実質賃金の大きさに応じて労働時間を決める、ということを意味する。そのためには、物価水準が一定でなければならないが、物価水準は労働市場では決まらない。
●ヒックスのIS-LM理論(第4章全体)
ヒックスの理論は逆立ちしている。統計的に、総所得が与えられ、社会全体の貨幣量が出てくるのであって、それをヒックスは因果関係に改変し、通貨量が与えられれば総所得が決まる、とした。ヒックスの理解は、原因・結果の関係が逆転している。古典派、新古典派ともに、社会全体の総所得を決める理論は存在しなかった。しいていえば、常に完全雇用、生産設備の完全稼働の水準まで経済は拡張する、という「セーの法則」を前提にしていた。
ヒックスが、ケインズの理論では利子率は資本の限界効率の関数になっているとしているのは、誤りである。資本の限界効率は、起業家が投資した場合、それが将来にわたってどれだけの利益をもたらすかを予想した「予想利潤率」であって、利子率とはまったく異なるものである。(169?170ページ)
社会全体の貨幣量をMとし、これを取引や営業動機にもとづいて所持される貨幣M1と投機のための貨幣M2との2つに分けるとすると、M1は所得Yの関数、M2は流動性選好利子論から利子率iの関数として決まる。したがって、社会全体の貨幣量Mは所得Yと利子率iの関数〔M=L(Y,i)〕と表わされるが、ケインズの理解では、あくまでYによってM1が決まり、流動性選好の結果としてM2が決まり、その合計としてMが与えられるのであって、ヒックスのようにMが与えられ、M1が増えればM2が減り、M1が減ればM2が増えるという関係にはない。(180ページ)
●カーン流の「乗数効果」論批判
カーンの「乗数効果」が前提にしているのは個々の経済主体の投資だが、ケインズが考えているのは、社会全体の投資=実質資本資産の増加である。日本の90年代不況のように、民間企業の大量在庫・生産設備の遊休がある場合、政府支出増は、在庫減によって相殺され、社会全体の投資増にならず、波及効果は急速に減衰する。
不況対策としての公共支出政策を考える場合、重要なことは、その経済が置かれている経済環境である。民間の投資意欲が十分に存在し、それが押さえられている状態で、消費意欲も十分ある経済環境では、政府投資が民間投資にリンケージしていく。90年代のように、個別企業が人件費の削減、不採算部門の整理、在庫減らし、投資抑制、借入金返済に動いている場合、公共支出は民間投資にリンケージしない。
またケインズ政策が適切に機能するためには、景気が上昇し、完全雇用に近づいたとき、財政が黒字になるような税体系・税水準になければならない。しかし、90年代の日本の税体系・税水準は、完全雇用余剰を実現しておらず、ケインズ政策を実現することができない。
●収穫逓増か収穫不変か
資本設備一定のもとで生産量を増加させたとき、製品当たりの費用が増加するのは、完全雇用、設備の完全利用以後のことである。完全雇用以後は、賃金コストが上昇し、製品あたり賃金費用が上昇し、製品当たりコストを引き上げる。しかし、設備の完全利用までは、生産量の増加は、設備の効率的利用を進め、労働1単位当たりの生産性は増加する(収穫逓増)。したがって製品当たりの賃金費用は提言。固定費も生産料の増加とともに製品当たり提言する。原材料費は一定。したがって、新古典派の費用曲線のように、右上がりになることはない。
実際には、費用曲線は、水平に近いナベ底あるいは逆L字型である可能性が大きい。つまり、製品当たり原材料費も賃金費用もほとんど変化のない状態で生産がおこなわれている。新古典派の限界費用曲線は現実妥当性を持たない。(144、153ページ)
その他にも、いろいろ面白い論点がありました。たとえば、伊東氏は、ケインズの価格メカニズムに対する考えとして「価格差」の重視、ということを強調されています(200ページ以下)。
たとえば、労働者は(短期的には)、自分の賃金が同じような仕事をしている回りの労働者と比べて安いか高いかという賃金の「価格差」にある。同様に、野菜などのような場合、消費者は、経験にもとづいて漠然とした「期待価格」を頭に描いていて、それより安いと買うということになる。で、その「期待価格」の基準になっているのは、スーパーだったり商店街だったりする。家電製品の場合は、秋葉原その他の大量家電販売店の価格が、一種の「期待価格」になっている。そして、商店間の価格差が、需要吸引の大きなファクターになるというのです。
他方、収穫不変の場合、新古典派的に、費用曲線から利潤極大条件にしたがって生産量が決まる、ということはなくなります。では、実際にはどういうふうに価格が決まっているかというと、製品当たり直接費(原材料費プラス賃金費用)がまずあり、それに標準的な操業度を想定して、それに応じた間接費を配分し、それに目標利潤額を割り当てて、価格を決めるという(207ページ)。いわゆる「マーク・アップ理論」ですが、こういう形で価格の決まる財とは別に、コストとは無関係に価格が決まる財がある。それは、生鮮食料品、第1次産品等の卸売市場で決まる価格で、カレツキは、これらを「コストによって決定される価格」と「市場が決める価格」といって区別したそうです。「市場が決める価格」は、生鮮食料品や第1次産品だけでなく、株式、債券、為替などの金融市場も含まれる。このような市場の多様性、価格決定メカニズムの多様性を考えないといけない、ということです。
さらに、伊東氏はこの問題を歴史の中において、次のように指摘しています。(211ページ以下)
すなわち、資本主義の初期には、生産の水準は低く、価格がかなり上がっても、簡単に生産を増やせない。生産量が簡単に増えないから、価格が上がって需給の調節をせざるを得ない。古典派の経済学は、こういう時代を反映していて、いかに社会の生産力を増やすかに課題があった(これを伊東氏は「リカードの時代」と呼んでいる)。「リカードの時代」には、供給の弾力性が小さく、需給のバランスを価格によってとらざるをえない供給構造だった。収穫逓減を前提とした右上がりの供給曲線は、こうした時代を反映したもの。逆に、需要の弾力性は非常に大きい。受給の不一致による価格の低下に需要は速やかに反応し、不一致は解消される。
これにたいし、ケインズ理論が想定しているのは、豊かな先進国で、遊休資本設備が存在し、資源も労働力も十分ある社会。こういう社会では、需要が増加しても、価格はほとんど上がらずに、生産者は直ちに供給量を増やすことができる。つまり、供給の弾力性は大きい。逆に、こういう豊かな社会では、需要の弾力性は小さくなっていく(ハロッド「需要の弾力性逓減の法則」)。消費者は、価格の安さよりも、非価格的なものに関心が移っていく訳で、非価格的競争が競争の主要な武器になる。
つまり、「リカードの世界」は価格の動きが需給均衡戦略の中心になる経済。それにたいし、ケインズ的世界は、需給均衡の戦略的中心としての価格の役割は低下し、生産量による調整が中心になる。これが、個々の企業の場合はヒックスの数量調節(何のことか分かりません)であり、社会全体ではケインズの有効需要の理論になる。(214ページ)
ということで、「今日におけるケインズ再読の意味」は「現在の日本の金権主義的な社会風潮への批判」にある(223ページ)というのが伊東光晴氏の結論だといってよいと思います。それをモラルの問題としてだけでなく、サイエンス〔理論)の問題としても展開している、というのが「モラル・エコノミスト」たるケインズの魅力だと言うことでしょう。(走り書きなので、不正確な展があればお許しください)
で、次を読み始めました(伊東光晴『ケインズ』講談社学術文庫)。
追記:
伊東光晴氏の『ケインズ』(講談社学術文庫)を読み終えました。
感想はこっち→読み終わりました(2) 伊東光晴『ケインズ』