“身内の話”ということで話題の、『論座』7月号の西村正雄氏(元日本興業銀行頭取、安倍晋三氏の叔父にあたる)の論文を読んでみました。
もちろん立場の違うところもありますが、なるほどと思う指摘もたくさんあります。たとえば
- 一国の総理が人気投票的に選ばれてはならないという指摘。
- 「小泉総理自身に『経世済民』の思想が欠落しているのではないか」という指摘。
- テレビなどでは「強い日本」を煽る「ナショナリスティックな政治家がもて囃される傾向がある」が、「偏狭なナショナリズムを抑えるのが政治家に課せられた大きな使命」だという指摘。
- 戦争体験者の語った真相、経験を「戦争を知らない次の世代に伝えることが私の人生最後の役割と考えている」と述べておられること。
そのなかで、「アジア外交の再構築を」として、首相の靖国神社参拝問題について、靖国神社のあり方にまでたちいって、次のように、きっぱりと批判されていることがとくに印象に残りました。
中国・韓国は、戦没者追悼を問題にしているのではなく、A級戦犯を合祀している靖国神社への首相参拝を非難しているのであって、被害にあったアジア諸国も同様である。欧米諸国も、日本がいまだに戦争責任を総括していないとみており、戦後50年の村山談話、60年の小泉談話にもかかわらず、日本の総理が戦争犯罪人を合祀し、しかもかつての戦争を美化し正当化している付属施設「遊就館」を持つ靖国神社に参拝することに、不快感を持っているのは歴然たる事実である。
東京裁判やA級戦犯について評論家が異を唱えるのは勝手だが、政府関係者にはサンフランシスコ条約を順守する義務がある。敗戦国の日本はこの条約を受け入れることによって独立を回復し、国際社会への復帰を果たして今日の繁栄が可能になったのである。小泉首相が国会答弁で「A級戦犯を戦争犯罪人として認識している」と答弁したのは当然である。
したがって、A級戦犯が合祀されている靖国神社への総理の参拝を正当化する理屈は、国内では通用しても国際的にはまったく通用しない。中国・韓国から言われたから参拝を止めるのではなく、自ら過去の戦争責任を自覚して現実的な外交を優先すべきである。
中学1年生で終戦を迎えられた人生の先達の言葉として、これにつけくわえるものは何もありません。「戦争を知らない次の世代」として、この指摘をきちんと受け止めなければならないと思います。
さらに興味深いのは、西村氏が、この指摘に続けて、米国内で小泉総理の靖国参拝を批判する声が高まっていると指摘されていることです。
今年4月24日、日経新聞と米戦略国際問題研究所(CSIS)のシンポジウムに参加したジョセフ・ナイ、カート・キャンベル、マイケル・グリーン、リチャード・ブッシュ、アーノルド・カンター、ジェームス・ケリーという6人の米政府元高官は、党派を超えてそろって靖国問題に言及、早急に事態を打開すべきとした。カート・キャンベル氏は「首相の靖国参拝問題は中国との間だけでなく、アジア全域での日本の立場を不利にしている。良き友人というのは、間違いを指摘しあえる関係なのだから、米国からこの問題についてもっと言うべきことを言う姿勢が大事だ」と発言、ジョセフ・ナイ氏も「日中関係の緊張の高まりは日米関係にも影を落としかねない。次の首相は『靖国にゆく権利はあるが、実際には行使しない』と表明することによって中国の外交上の手札を一枚取り除ける」と述べた。
さらに続けて、先月、「朝日新聞」のインタビューに答えて、小泉首相の靖国参拝への批判的見地を明らかにしたケント・カルダー氏が最近のFOREIGN AFFAIRSの論文で、次のように指摘していることを紹介されています。
日本政治経済研究の第一人者で、『戦略的資本主義』の著者、ケント・E・カルダー氏は最近のFOREIGN AFFAIRSの論文の中で「小泉首相の靖国参拝は、国際的に日本の外交路線を大きく誤解させる火種をつくり出した。(中略)しかし、ポスト小泉の指導者は大きな機会を手にすることになる。新首相は、日中の首脳会談を復活させ、エネルギー・環境問題をめぐる中国との対話路線を強化し、世俗的な戦没者追悼施設建設の可能性を摸索し、靖国神社への参拝を慎むことができる。こうした路線をとれば、日本は外交的な優位をつくり出せるし(中略)両国の安定化という真の課題に取り組めるようになるだろう」と述べているが、誠に当を得た助言といえよう。〔注、「中略」は西村氏のもの〕
これらを読めば、首相の靖国参拝を批判する声が、決してアメリカの一部でないことがよく分かります。もちろんアメリカからのこうした声は、僕から言えば、日米同盟を前提としたもので、アメリカの国益を守るためにも日本がアジアにおいてより積極的な役割を果たすことを期待する立場からのもの。しかし、そういう立場からみても、日本の戦争を美化し正当化する靖国神社の立場はとうてい容認されない、ということです。