1961年に、靖国神社の遊就館が復活したさい、「BC級戦犯」として処刑された人たちの遺書などの収集を、厚生省が依頼していた事実が明らかに。
靖国神社に集められた遺書、遺品は、決して自発的なものではなかった、ということ。しかも、通達で内容を特定するなど、行政機関が一宗教法人のやることに積極的に協力したことが分かります。このようにして集められた遺書が、「あの戦争は正しかった」という靖国神社の特異な戦争観のために利用されている訳で、行政の関与としては二重に許されないことです。
靖国「遊就館」の戦犯遺書、旧厚生省が収集依頼
[asahi.com 2006年07月30日11時57分]靖国神社にある戦争博物館「遊就館」の展示品収集にからみ、旧厚生省が61年6月、都道府県に対し、BC級戦犯として死亡した人の遺書や顔写真などを出品するよう遺族へのあっせんを依頼していたことが29日、朝日新聞社が入手した同省の文書でわかった。戦後に廃止された遊就館が61年4月に「宝物遺品館」として一部復活した時期に、靖国神社からの要望を受けて対応していた。一宗教法人への国の便宜供与の一端が浮かび上がった。
この文書は、厚生省援護局復員課が都道府県の担当課あてに出した61年6月27日付通知「復員第1051号」。「戦争裁判関係死没者の遺書等を靖国神社宝物遺品館に陳列するため出品のあっせんについて(依頼)」との表題がついている。戦争裁判関係死没者とは、連合国の戦争裁判で捕虜虐待など「通例の戦争犯罪」に問われたBC級戦犯を指すとみられる。
巣鴨刑務所に収容されたBC級戦犯については、58年12月に全員が刑期満了となった。翌59年、靖国神社は処刑されるなどしたBC級戦犯計825人を合祀(ごうし)。遊就館には「祭神」となった戦没者の遺書が収集されており、神社側が合祀を終えたBC級戦犯の遺書を集めるために国に依頼した可能性がある。
通知は、管内に居住する遺族に出品依頼の趣旨を伝え、出品希望者がいた場合には都道府県を通じて、または直接神社に送るよう指示している。
通知に付けられた「出品要領」は、遺書について(1)亡くなる直前に直筆で書かれたもの(2)内容は父母や妻子にあてたものか、裁判内容について訴えたもの――と内容を限定。なるべく死亡時に近い本人の写真1枚を付けるよう指定した。これ以外は「靖国神社と協議のうえ決定する」とした。
遊就館は1882年2月に開館。陸軍省管轄の国立の軍事博物館だったが、敗戦で閉鎖され、46年末に施設や陳列品は靖国神社の管理下に置かれた。61年4月の春の例大祭から宝物遺品館として一部復活し、一般公開を開始。86年7月に正式に再開し、02年7月、創立130年記念事業の一環で新館を増設して展示を改めた。戦没者の遺品や歴史資料、古今の武器類など収蔵品は約10万点に及ぶという。
最近の展示の特徴は、太平洋戦争を「大東亜戦争」と呼び、戦争の性格を「自衛のための戦争」と位置づけていることにある。