『論座』8月号(朝日新聞社)にのった石破茂・前防衛庁長官のインタビューを、遅ればせながら読んでみました。全く立場は異なりますが、それでも、読んでみると、けっこう“まとも”なことを言っています。たとえば日中戦争について。
私は、日中戦争、と言って悪ければ日華事変でもいいし、支那事変と言ってもいいですが、あれは侵略的なものであったと思っています。
まあ、このあとに太平洋戦争については「それ自体は多分に自衛戦争的な面があった」と続くのですが、それはともかく、日中戦争について侵略的な戦争だったと認めておられるのは、当然のこととはいえ、まっとうなことです。
東京裁判についても、「誤っている部分はたくさんある」としつつも、次のようにのべて、東京裁判を否定する議論を批判されています。
しかしながら、それ〔東京裁判〕を受け入れたからこそ今日の日本があるのであって、いまさらあれはなかったことにしようとか、あれは全部間違いだったということになると、戦後のすべてを否定することになりますよね。東京裁判の判決がすべて正しいとは言わないが、いまさら裁判を否定するような議論が成り立つとは思いません。
そして、靖国神社の遊就館について、こう指摘されています。
遊就館も靖国の重要な一部であり、全く関係ないということにはならない。そしてその遊就館では、いかにあの戦争が正しかったかということが強調されている。特に新しい遊就館になってからは、非常にビジュアルで、何となく心揺さぶられてしまうほどです。それは宗教法人靖国神社がやっているのだから、それはちっとも構わない。しかし、その歴史認識が強調されている施設を持つ神社に一国を代表する総理がお出ましになるのは、やはり問題なのではないだろうか。遊就館の展示が問題なのではなく、そういうところに総理が参拝されることが問題だということです。
僕に言わせれば、“遊就館の展示が問題だから、そういうところに総理が参拝されることが問題になるのだ”と思うのですが、「あの戦争が正しかった」という遊就館の「歴史認識」とは一線を画すべきだと明確に指摘されているのは、道理にかなったことだと思います。
石破氏の立場は僕とはまったく反対ですが、その石破氏から見ても、「あの戦争は正しかった」「東京裁判は全部間違いだ」という靖国派の主張はとても肯定できるものではない、という至極“まとも”なご意見です。
『中央公論』8月号(中央公論新社)では、金融・経済財政政策担当大臣の与謝野馨氏と元自民党幹事長の加藤紘一氏が、靖国問題について書いています。両氏とも、落としどころは、靖国神社に代わる追悼施設をつくり、天皇陛下にもお参りしてもらえるようにしよう、というところにあって、そのあたりはにわかに賛成しがたいものがありますが、たとえば与謝野氏が次のようにのべているのは、靖国派の矛盾を指摘したものといえるのではないでしょうか。
靖国神社が現在の立場をとり続ける場合、理論上、靖国神社が主張している、自分たちは国の唯一の慰霊施設だという理屈は通らなくなる。国の意思とは関係なく、宗教法人として、ある種の歴史観や政治的立場をとるということと、自らを国の唯一の慰霊施設であるということ、この二つの主張を同時に行うことはできない。
加藤紘一氏が、「現実には日本は中国に対しては加害者的な側面が強い」、しかし日本は「戦争自体の総括」「戦争責任がどこにあったかについては、真正面から議論してこなかった」、「日本は戦争の総括から目を背け、アジア諸国のナショナリズムにきわめて鈍感だったこともあり、いまだに加害者意識が薄い」と指摘されているのも、きわめて良識的かつ常識的な見解だと思います。
同じ自民党政治家といっても、日本の侵略・加害にたいする反省から出発する人たちがいて、決して「靖国派」の一枚岩でないということに、私たちはきちんと目を向けておく必要があります。