今週の「九条の会」(8月10日まで)

ブログの移設などで、掲載が遅れてしまいました。全国各地の「九条の会」の活動ぶりを、インターネットを流れるニュースから拾い集めています。もちろん、これ以外にも、ネットに流れない各地の活動があると思います。「九条の会」の発行するメルマガでも、そうした全国各地の取り組みが紹介されています。8月前半は、広島・長崎の原爆投下日があり、各地で反核平和の集まりが「九条守れ」の思いとともに開かれています。

息のむ思いで子ら聞き入る 気高で原爆朗読劇
[日本海新聞 2006年8月10日]

 平和の尊さを考えるきっかけにしようと、「朗読劇 この子たちの夏?1945・ヒロシマ、ナガサキ」が長崎原爆の日の九日、鳥取市気高町宝木の宝木地区公民館で行われた。「けたか9条の会」(篠村昭二会長)の会員や小学生が気持ちを込めて朗読。地域の子どもやお年寄りたちは息をのむ思いで聞き入り、六十一年前の状況に思いをめぐらせた。
 「この子たちの夏」は、東京の劇団「地人会」によって二十年以上上演されている朗読劇。広島と長崎で被爆した親子の手記を読むというシンプルな手法ながらも、心に迫る苦しみの言葉が強烈な印象を与えている。
 劇では、宝木小の有志児童が原爆が落ちるまでの平和な日常の手記を、篠村会長らが原爆が落とされた後のむごたらしい状況の手記を朗読した。
 「水をください! 命の糸をつなぎとめてください」「うちの子を知りませんか。どうか人間の形に戻して」「神様、こんな爆弾を誰がこしらえましたか」。悲惨な状況を伝えるせりふを涙で声を詰まらせながら語った。
 意見交換では「宝であるわが子がいる今、あらためて戦争のない世界をみんなで考えたいと思った」など感想が述べられた。祖母と聞きに来ていた吉村亮真君(11)=同市気高町宝木=は「自分も大変なのに、子どもや兄弟を助けようとするところがすごかった」と神妙な面持ち。また、「すいとん」をみんなで食べ、戦時中の食生活を体験した。

花月九条の会:身近なところから戦争反対、発足へ 来月9日記念の講演会/神奈川
[毎日新聞 8月10日12時6分更新 8月10日朝刊]

◇呼びかけ人の横浜・鶴見区、野中さん「若い会員増やしたい」
 15日の終戦記念日を前に、横浜市鶴見区で「花月九条の会」の結成準備が始まった。東京大空襲の悲惨さを訴え続ける海老名香葉子さん(71)が、5月に区内の鶴見公会堂で行った講演会がきっかけとなった。【網谷利一郎、写真も】
 「空襲で一家を失った海老名さんの切々たる訴えを聞き、何か自分の周りから戦争に反対する動きをしようと考えた」
 同市鶴見区鶴見の野中晃さん(66)は、5月からマンション隣人や知人に声をかけ始めた。公務員を定年退職後、郷土史を学びながら政治の動きにも関心があった。
 元農協職員、関根建三さん(60)ら11人の呼びかけ人が集まり、賛同者を約60人に増やした。京急花月園前駅近くの住民が多く、名称は「花月九条の会」に決まった。9月9日、鶴見大短大の後藤仁敏教授を招いた発足記念の講演会「今・どうして憲法九条が大事なの」を開く。1人1000円のカンパで賛同を呼びかけるビラを作り、近所や商店街に張り出す。
 主婦の古島菊栄さん(59)は「9条は平和を守る宝だと思う。憲法の拡大解釈できな臭さがどんどん増す世相に、身近なところから歯止めをかけたい」と話す。
 野中さんは「終戦時は5歳だった。戦争は2度としない、との思いを伝えていきたい。最高齢は93歳。若い世代の会員を増やしたい」と話す。
 昨年11月に出来た「九条かながわの会」(横浜市中区)によると、県内の「九条の会」は231団体。「講師派遣や情報交換を機に、地域での結成が増えている」という。また、作家の井上ひさしさんら9人が04年6月に結成した「九条の会」(東京都千代田区)は「1年前は全国で1940団体。今年6月現在で5174団体に激増している」と運動の盛り上がりに期待している。

創・平和の世紀:風船に核廃絶の願い 大津・三井寺で「原爆犠牲者慰霊」/滋賀
[毎日新聞 8月8日15時18分更新 8月7日朝刊]

◇僧侶や市民300人、青空にメッセージ
 広島原爆の日の6日、大津市園城寺町の園城寺(三井寺)では、「原爆犠牲者慰霊・世界平和祈願法要」が同寺主催で開かれ、僧侶や市民ら約300人が世界平和と核廃絶などを祈った。他にも平和を祈り、学ぶ催しが一日中続いた。
 法要では、61年前に原爆が投下された午前8時15分に合わせ、全員で黙とう。平和へのメッセージが書かれた短冊が取り付けられた風船3000個を青空に放った。福家俊明・同寺長吏はあいさつで「核廃絶は、核保有国が行うべき。米国がまず核廃絶することで地球の核兵器がなくなる」と訴え、岡部善恵・遊心庵(大津市)庵主も「戦争は、勝っても負けても多くの人が死ぬ、人殺しです」などと戦争の悲惨さを子どもたちに語りかけた。
ピースパレードも
 引き続き同寺では、戦争体験などを聞く「憲法と平和を考える県民のつどい」(滋賀・九条の会主催)や、核兵器廃絶などを訴えて同市内を行進するピースパレード(ピースアクション2006・しが実行委など主催)などの催しが開かれた。【阿部雄介】

広島原爆:投下61年 平和の大切さ考える――戦争体験語り継ぐ集い/山梨
[毎日新聞 8月7日13時3分更新 8月7日朝刊]

 広島への原爆投下から61年を迎えた6日、県内でも平和を訴える行進や戦争体験者による講演会が開かれるなど、各地で平和の大切さを考える一日となった。
 韮崎市のにらさき文化村では、9条の会呼びかけ人と賛同者の会が「朗読と戦争体験を聞く会」を開催。朗読ボランティア「なみの会」のメンバーが太平洋戦争末期に旧日本軍が掘削した同市の七里岩地下壕の歴史など県内に残る戦争のつめ跡を紹介。広島の原爆で家族を失った被爆者の悲しみや怒りをつづった詩の朗読や、若くして戦地へ赴いた同市清哲町出身の青山久春さん(88)と藤盛嘉文さん(85)による、中国での戦争体験やシベリアでの抑留生活を語る講演会も行われた。講演した藤盛さんは「戦争により、親の顔を遺影でしか見たことがない人が多くいることを忘れないでほしい」と、戦争の悲惨さを訴えた。
 甲府市は原爆投下時刻の午前8時15分、宮島雅展市長が市内全域に向け防災放送で「広島の悲劇を繰り返さぬよう黙とうをささげましょう」と呼び掛けた。JR甲府駅南口でバスを待ちながら黙とうした同市下石田2、県立甲府昭和高2年、内藤千裕さん(16)は「北朝鮮のミサイル発射など、日本の平和が失われる危険性を感じることがある。日本を含めた世界が平和でありますようにと強く祈りました」と話した。
 また、連合山梨(渡辺一彦会長)は甲府市の中心商店街で平和行進を行った。小学生から70代の戦争経験者まで約300人が平和への願いを記した短冊付きの風船を手に約1キロを練り歩いた。【沢田勇、宇都宮裕一】

ドキュメンタリー映画:「映画日本国憲法」、足利で上映会??きょう /栃木
[毎日新聞 8月6日14時1分更新 8月6日朝刊]

◇参加者の交流会も
 日本国憲法制定の経緯や意義について、世界の知識人たちにインタビューしたドキュメンタリー映画「映画日本国憲法」(ジャン・ユンカーマン監督、05年作品)の上映会が6日、足利市有楽町の同市民会館第1特別室で開かれる。「足利・九条の会」(采沢良浩代表)の主催で、参加者による交流会も予定している。入場無料。
 同映画は、日本国内での改憲論議の高まりを背景に、憲法の意義を世界的な視野で見つめ直そうと企画された。監督は、原爆の絵で知られる画家の丸木位里・俊夫妻に取材したドキュメンタリー「HELLFIRE(劫火(ごうか))―ヒロシマからの旅」、9・11テロについてノーム・チョムスキー・マサチューセッツ工科大教授にインタビューした「チョムスキー9・11」を手掛けた米国人のユンカーマン監督。チョムスキー氏や憲法草案づくりにかかわったベアテ・シロタ・ゴードン氏、中国や韓国、レバノンなどの研究者や人権活動家、ジャーナリストに日本国憲法への思いを尋ねた。05年度のキネマ旬報ベスト・テン「文化映画」部門第1位、日本映画ペンクラブ会員選出ベスト5「文化映画」部門第1位などを受けた。
 当日は午後2時開会。問い合わせは足利・九条の会。【太田穣】

みやぎ憲法九条の会:「全力で9条守ろう」 結成記念する集会開催/宮城
[毎日新聞 8月2日13時1分更新 8月2日朝刊]

 憲法9条改正に反対する「みやぎ憲法九条の会」の結成を記念する集いが開かれ、約1200人が参加。事務局長の河相一成・東北大名誉教授は「あらゆる分野の人と垣根を越えて手を携え、全力で9条を守ろう」と述べた。県内全域を対象とした「九条の会」の発足は初めて。
 作家の井上ひさし氏らが04年6月、9条改正に反対する「九条の会」アピールを発表。全国各地域や団体ごとに「九条の会」が結成され、県内では現在83を数える。
 みやぎ憲法九条の会は県内全域を対象とする会として今年3月、県内在住者162人で結成された。賛同者は約6300人。今後は賛同者を県内有権者の過半数に広げることを目標に、改憲反対論者の講演を開くなどの活動を行う。【鈴木一也】

田辺 <イベント> ビデオ音楽会「懐メロで綴(つづ)る昭和史」
[紀伊民報 – 2006年7月30日]
 戦前、戦中、戦後の歌を集めたビデオ音楽会「懐メロで綴(つづ)る昭和史」が、8月5日午後1時からと同6時からの2回、由良町中央公民館で開かれる。田辺市をはじめ紀南地方の人たちが歌手として大勢参加している。入場は無料だが整理券が必要。
 和歌山室内管弦楽団(中西忠指揮・監督)の生演奏をバックに過去開催され、テレビ和歌山が制作した番組「想い出のメロディー」で、放映されなかった場面も含めて中西さんが編集し直した。
 戦前、戦中、戦後の3部構成で各部とも放映時間は約40分。「戦友」「蘇州夜曲」「リンゴの唄」「チャペルの鐘」など計56曲放映されるが、曲数が多いため1コーラスのみの歌もある。
 四国放送ラジオ番組「なつめろ日曜大全集」の岩瀬弥永子さんが司会を務めている。
 「九条の会ゆら」が第2回「戦争体験と平和への思いを語り継ぐ会」の一環で開く。
 中西さんは「戦争という負の遺産の一つである戦時歌謡の中の軍歌においても、ものの哀れをうかがわせる曲があり、それらも合わせて編集した」と話している。
 整理券の問い合わせは中西さんへ。昼の部は残りわずかという。

期間:2006年8月5日(土)
場所:由良町中央公民館
(問):「九条の会ゆら」

インフォメーション:「06 ノー・ウォー横浜展」/神奈川
[毎日新聞 2006年7月29日]

 平和を希求する心を芸術を通じて表現する「06 ノー・ウォー横浜展」が8月14?20日、神奈川県民ホール(横浜市中区山下町)ギャラリーで開かれる。主催は平和の下での真の芸術を目指す「ノー・ウォー美術家の集い横浜」と「美術・九条の会」。
 戦争に反対する美術家ら141人の作品が一堂に会し、絵画や彫刻、写真などを展示。14日午後3時からは「映画と講演の集い」があり、同ホール大会議室で、短編映画「DOYOUBOMBTHEM?」などを上映。イラク支援のNPOで活躍する高遠菜穂子さんがイラクの現状などを写真を使って語りかける。
 9?18時で入場無料。問い合わせは事務局の藤井さん。

9条の国で過半数世論めざし 戦艦大和の軍港でも 悲惨な体験胸に/広島・呉市
[2006年7月26日(水)「しんぶん赤旗」]

 広島県呉市は軍港のまちです。市民の多くが自衛隊や軍事関連企業に関係しています。このまちで“憲法九条を守ろう”の声が高まっています。「なぜって? みんな悲惨な体験をもっちょるんや。戦争だけはしてはいけんのよ」。ずしりとした言葉が返ってきました。(名越正治)
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 呉の中心部から曲がりくねった道を上っていくと自衛隊官舎や石川島播磨重工のロゴ(社名)をつけた社宅が目に入るベッドタウンです。この焼山(やけやま)地域(人口三万六千人)に五月下旬、「焼山九条の会」が誕生しました。
 戦前、呉の海軍工廠(こうしょう)で戦艦大和を建造、「大和ミュージアム」が昨年オープンし、二百万人が訪れ、ブームにわいているようにみえました。
 「ところが多彩な人が快くよびかけ人を引き受けてくれたんですよ」。会事務局長の増野雅夫さん(70)=元小学校教師=は話します。
 よびかけ人の顔ぶれは僧りょ、元小学校長、元自治会長、原爆被害者友の会会長、絵本作家、老人会連合会長、環境団体役員と多彩です。結成の集いには六十人が会場を埋めました。
 その一人ひとりの胸には、痛切な平和への思いがありました。
 元教師で保護司や自治会長の経歴を持つ男性(86)は、中国で生まれ育ちました。日本軍が軍刀の切れ味を試し、中国人捕虜を虐殺した場面にも遭遇しました。
 結成の集いで、初めてそのことを話しました。
 「『日本は負ける』。笑いながら死んでいく中国人もいました。人を狂わせる戦争の愚かさを嫌というほど知りました」

■教え子を戦場に

 元小学校長(85)は語ります。「私は天皇陛下に殉死するようにと教え子を育て、戦場に送り出しました」
 広島の師範学校に入学したころ、大和が呉海軍工廠で極秘裏に建造されていました。「すごい戦艦ができよる」と小躍りする軍国青年でした。
 その大和の姿を脳裏に刻み、国民学校の教師として二十一歳で満州(中国東北部)に渡ります。「天皇陛下のために死のう」と教えました。
 赴任先の学校は中国人のコウリャン畑を取り上げ、つぶして建てられました。日本軍は、その中国人をクーリー(筋肉労働者)として重労働を課していました。「おかしいと感じましたが、間違った戦争だとわかったのは、後々のことでした」

■町並みは火の海

 戦争は、さまざまな犠牲を人々に押しつけました。別の元小学校長(74)は「これですよ」と一枚の古びた紙を掲げました。「都市疎開ニ伴フ地方転出証明書」とあります。
 この人の父親は、東京・中野区の自宅で旋盤工場を営んでいました。「防災地帯にする。五日以内に立ち退け」。軍による通告でした。あわてて家財道具を持ち出すと、戦車が自宅と町並みを一気に踏みつぶしました。「一言の抗議もできなかった親の悔しさを今も忘れません」
 到着した呉駅から家財道具を少しずつ牛車に載せ、焼山まで運びます。翌四五年七月には、アメリカのB29爆撃機による空襲で火の海になった街を目の当たりにします。
 戦後、教員の道を選び、小学校長も務めました。「戦争をしないと誓った九条の歯止めをはずしてしまったら大変です。平和憲法を何としても守りたい」
 「あの日の光景が脳裏に焼きついています」というのは植田雅軌さん(74)=呉市原爆被爆者友の会会長=です。八月六日朝、爆心地に近い製罐(かん)工場に学徒動員で働いていました。ガラスの破片が頭に十数カ所突き刺さり、血だらけで逃れました。外は地獄でした。女子てい身隊員が働いていた隣の工場が全壊し、下敷きになった女学生がうめいていました。
 「『助けてやるけ』といいましたが、火の回りが早く手がつけられんかった。二度と戦争しないという前提でつくった憲法を変えてはならない」

■平和願い会誕生

 「こんなことは繰り返してはならん」。呉市民は、憲法九条に腹の底からの願いを託し戦後、生きてきました。それを変え、アメリカと一緒になって再び、戦争する国にしようとしている。そうさせてはならない。この思いが「九条の会」を誕生させました。
 江戸時代からの古寺の住職(60)もよびかけ人に名を連ねています。大手新聞記者の経歴を持ち、父親の急逝で住職を継ぎました。大学同期に別の新聞社の編集長もいます。
 「日本の屋台骨を左右する問題の割には、九条を守る運動のメディアの扱いは小さい。憲法は格調が高い、とてもいい文章です。この会が倍の一万にでもなると、世論が変わると思いますよ」

■反戦の伝統受け

 呉には反戦平和のたたかいの伝統があります。日本が中国侵略を開始した直後の三二年二月、軍隊内の日本共産党が「聳(そび)ゆるマスト」を創刊し、侵略戦争やめろと主張しました。
 「焼山九条の会」は十五日、地域で“九条守ろう”の横断幕を掲げ、初宣伝に立ち、憲法署名をよびかけました。めざすは有権者過半数です。
 事務局長の増野さんはいいます。「悲惨な体験をしちょるで、わしらはみんな“九条派”です。あの暗い時代と違って、今はどこでも堂々と訴えられます。戦争で殺される人も、一人の戦死者も出さないために、『九条守ろう』の国民の意思を発信していきたい」

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