都響第631回定期演奏会のために、久しぶりに上野の文化会館へ。ほんとは12日のサントリー定期だったのですが、仕事の都合で今日に振り替えをしてもらいました。オール・プロコフィエフのプログラムです。
プロコフィエフ:組曲「キージェ中尉」 作品60
プロコフィエフ:オラトリオ「イワン雷帝」 作品116
なんといっても、今日のメインは、後半のオラトリオ「イワン雷帝」。エイゼンシュテイン監督の映画「イワン雷帝」のために作曲されたものですが、オラトリオ版は、プロコフィエフの原曲を、映画で音楽の指揮をしたアブラム・スタセーヴィチが1961年(プロコフィエフの死後)に編曲したもの。全25曲ですが、今日は第2曲「若きイワンの行進」第18曲「エフロシーニヤとアナスタシーヤ」、第23曲「フョードル・バスマーノフと親衛隊員たちの歌」、第24曲「親衛隊員たちの踊り」は割愛。そして、語りは日本語、歌はロシア語(日本語字幕付き)という形で上演されました。
で、冒頭から、「バルト諸国は予の領土なるぞ」と言われちゃって、聴く方としては、いささかげんなり。1942年ごろといえば、バルト諸国はドイツに占領されていた時期で、バルト諸国をとりもどすというのは、文字通り現実の課題。しかし、もとはといえば、ロシア革命後いったんは独立したバルト諸国を、1930年代にスターリンが強引にソ連に併合してしまったのだから、「バルト諸国は予の領土なるぞ」という叫びは、スターリンの領土拡張主義そのもの。
映画「イワン雷帝」は、イワンによるロシア統一を描いた第1部はスターリン賞を受賞したけれども、続く第2部は、独裁的権力者イワンの孤独と苦悩を描き、結局、スターリン死後の1961年まで公開されず、第3部は製作を断念されました。だから、映画の方は、イワンの強権を描きつつ、それへの批判も見せるという作り方になっていると思うのですが、それにたいして、プロコフィエフの作品の方はというと、要素としては第17曲「イワン、貴族等に懇願す」など、イワン雷帝の“弱さ”も描かれているのですが、しかし聴いていると、やっぱりイワン雷帝の強大さばかりが強調されているように思えてなりませんでした。
そうなると、音楽的に非常にすばらしい作品だけに、「バルト諸国は予の領土なるぞ」という大国ロシアのナショナリズムむき出しの部分が気になって、聴いていて本当に痛々しい気持ちになりました。
あとそれから、でだしのコルネット。舞台裏ということで、非常に音が小さいのに、斜め後ろの席でオバサン2人がごそごそおしゃべり。アホか!!
さて、今日のプログラムは、18日の「作曲家の肖像」Vol.61《ショスタコーヴィチ》と対になっているんでしょう、たぶん。プログラム代わりの『月刊都響』9月号には、ロシア文学の亀山郁夫氏によるエッセー「ショスタコーヴィチとプロコフィエフ――スターリン時代と2つの音楽的精神」が載せられています。
亀山氏の表現を借りれば、「『未来派』の末裔を自負としつつ、独裁権力に対して『二枚舌』による孤独な抵抗を試み続ける『国際主義者』ショスタコーヴィチ」に対して、プロコフィエフは、「スターリン権力へあからさまなすりよりをすこしも恥じる様子のない『ナショナリスト』」。プロコフィエフは、十月革命のあとソビエト政府の承認を得ていったんは国外へ移住するが、1936年に帰国。といっても、別に社会主義やスターリンにあこがれた訳でなく、“望郷の念やみがたく…”というもの。他方、ショスタコーヴィチは、出国もままならず、同じ1936年に「プラウダ」の厳しい批判を受け、完成した交響曲第4番を撤回し、第5番「革命」の成功によってかろうじて生き延びることができた、というところで、その点でも対照的。音楽的にも、プロコフィエフの作品が、どちらかといえば諧謔的なのにたいして、ショスタコーヴィチは内省的です。
ということで、18日の演奏会で、じっくり聞き比べてみたいと思います。(^_^;)
【演奏会情報】東京都交響楽団第631回定期演奏会 Aシリーズ(東京文化会館)/指揮:ジェイムズ・デプリースト/語り:平野忠彦/アルト:クリスティーヌ・メドウズ/合唱:二期会合唱団/語り:日本語/歌唱:ロシア語(日本語字幕付)
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