東京地裁判決で地方紙の社説を眺めてみた

昨日の東京地裁判決について、地方紙の社説を眺めてみました。

東京新聞や神奈川新聞が指摘するように、国旗・国歌法が制定されたとき、政府は「強制」しないと何度も答弁しています。それを、懲戒処分までして「強制」することは許されない、というのが判決の趣旨です。

国旗国歌判決 「強制は違憲」明確に断(中国新聞)
国旗国歌判決 『押しつけ』への戒めだ(東京新聞)
国旗国歌判決 やはり「強制」はいけない(神奈川新聞)

国旗国歌判決 「強制は違憲」明確に断
[中国新聞 2006/9/22]

 国旗の掲揚や国歌の斉唱は義務ではない、と明確に断定した。画期的な判決である。
 東京都立高校などの教職員四百一人が、都と都教委を相手取り、入学式や卒業式で国旗に向かって起立したり、国歌を斉唱する義務がないことの確認を求めた訴訟。東京地裁はきのう、義務はないと認め、強制は「違法、違憲」と断じて、賠償を命じた。
 旧文部省の斉唱の徹底通知などをめぐり、職務命令に従わず処分を受けた教職員が全国で起こしている同様の訴訟にも、大きな影響を与える判決といえる。
 訴訟は二〇〇三年十月、都教育長が「国旗への起立や国歌斉唱で各校長の職務命令に従わない場合は服務上の責任を問われる」と通達を出したのが発端。校長は職務命令で国歌斉唱などを強制した。
 判決で難波孝一裁判長は実に明確な判断を示している。
 日の丸や君が代について、「明治から終戦まで、軍国主義思想などの精神的な支柱として用いられ、国旗、国歌と規定された現在も国民の間で中立的な価値が認められたとは言えない」とした。そのうえで「処分までして起立、斉唱させることは思想良心を侵害し行き過ぎた措置」と言い切った。
 つまり、国旗掲揚や国歌斉唱に反対する「思想、良心の自由」は「憲法上、保護に値する権利」というわけだ。それに反する強制は一方的な理論や観念を生徒に教え込むことを強いるに等しく、教育基本法の「不当支配」に当たる、と違法性を認めている。国旗国歌法の本質を解析した判決である。
 全国では、一九八五年に旧文部省が公立学校に君が代斉唱の徹底を通知。学習指導要領に基づいた職務命令に従わない教職員を処分したことから、訴訟が相次いだ。
 特に広島県内では九八年の「是正指導」を受けて国旗掲揚や国歌斉唱の徹底が叫ばれ、〇一年から斉唱の声量報告も求められた経緯がある。指導の二年後から国歌斉唱の実施率は100%になった。
 しかし、こうした姿勢が「学校管理や統制を強める手段になる」との指摘があったのも事実だ。本来、子どもの能力や心を育てるはずの学校運営が教員らへの過度の「監視」になってはいけまい。
 国旗国歌法が施行されて七年になる。国旗、国歌の意味や指導の在り方を議論することが置き去りにされ、管理だけ進むようでは本来の教育現場ではない。判決はそうした指摘も含んでいる。

国旗国歌判決 『押しつけ』への戒めだ
[東京新聞 9/22]

 入学式などで日の丸に起立せず、君が代を歌わない自由も認められる。東京地裁は教員らが起こした訴訟で明確に述べた。これまで「強制」と「処分」を繰り返してきた都教育委員会への戒めだ。
 そこまでしなくても…と、都教委のやり方に対して感じていた人々も多かったのではないか。
 「都教委の一連の指導は、教育基本法一〇条(行政権力の不当介入の排除)に反し、憲法一九条の思想・良心の自由に対し、制約の範囲を超えている」
 そう述べた東京地裁の判断は、「都教委の行き過ぎ」を指摘する画期的な内容だったといえる。
 なにしろ、入学式や卒業式で、日の丸に起立せず、君が代を歌わなかった教員らへの処分は強引だった。
 二〇〇三年十月に都教委は、「校長の職務命令に従わない場合は、服務上の責任を問われる」という趣旨の通達を出した。それに基づき、〇四年春には、都立高校や都立盲・ろう・養護学校などの教員ら約二百五十人を戒告や減給処分にした。
 さらに同年五月にも六十七人を厳重注意している。処分は毎年続き、〇五年春は六十三人、今年春にも三十八人の処分を数えている。
 今回の訴訟で原告数が約四百人に上っていることにも、その“異様さ”がうかがえる。
 君が代処分をめぐっては、昨年四月に福岡地裁が「減給処分は違法」という判断を出した。一方で、君が代のピアノ伴奏を拒否した東京都日野市立小学校の音楽教師の場合は、一、二審とも音楽教師側が敗訴した。判断の分かれる問題だっただけに、今回の裁判は注目されてきた。
 その判決は「日の丸・君が代が軍国主義思想の精神的な支柱だったことは歴史的事実」と踏み込んだ。その点については、多様な意見はあろうが、「国歌斉唱などに反対する世界観や主張を持つ人の思想・良心の自由は、憲法上、保護に値する権利」としたのは理解できる。
 サッカーやオリンピックで日の丸の旗を振り、君が代を口ずさむのは、誰に強制されたわけでもない。国旗とか国歌とは、もっとおおらかに考えていいのではないか。
 問題とされたのは一律の「押しつけ」だ。一九九九年の国旗国歌法の成立時に、小渕恵三首相もわざわざ「新たに義務を課すものではない」という談話を発表していた。
 それにもかかわらず、都教委が「強制」を繰り返すことへ、司法がストップをかけたのである。都教委は判決を厳粛に受け止め、これまでの高圧的な姿勢を改めるべきだ。

国旗国歌判決 やはり「強制」はいけない
[神奈川新聞 2006/09/22]

 東京都立高校などの教職員が、入学式や卒業式で国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する義務がないことの確認などを求めた訴訟で、東京地裁は、国旗国歌の「強制」は許されないとの判決を下した。斉唱しないことなどを理由とした処分も禁じ、都に損害賠償も命じた。懲戒処分まで行って国歌斉唱などを「強制」してきた都教育委員会を「行き過ぎ」だとして厳しく断罪した。教職員と生徒の思想良心の自由を最大限尊重した判決である。この問題については、複数の裁判所で異なる判断が下されているが、行政と教育関係者は、今回の判決を重く受け止めるべきである。
 国旗国歌法が成立したのは一九九九年。国会では当時の小渕恵三首相が「国旗の掲揚および国歌の斉唱に関し義務づけを行うことは考えておりません」などと答弁していた。国旗国歌を「強制」しないことは何度も確認されていた。
 五輪やサッカーのワールドカップなどを見れば分かるように、国旗国歌への愛着は、国民の自発的で自然な感情によるべきものではないだろうか。「強制」はむしろ、国旗国歌への愛着を妨げる恐れがある。
 ところが実態はどうか。都教委は今春、卒業式で起立しなかったなどとして教職員を大量に処分。停職三カ月という重い処分もあった。処分を受けた教職員は「国歌斉唱などを積極的に妨害したり、生徒に国旗国歌の拒否をあおったり」したわけではない。「懲戒処分までして起立、斉唱させることは憲法が定める思想良心の自由を侵害する行き過ぎた措置」とした今回の判決は説得力がある。
 判決も指摘したように、国旗国歌については、国民の間にさまざまな意見がある。それは一人一人の歴史観や価値観と深く結びついた問題だ。単にマナーや規律の問題とは片付けられない。まして、少数意見を否定し「排除」するようなことはあってはならないはずだ。多数派とは異なる意見を持つ人々を尊重し、その自由と人権を守ってこそ、自由な民主主義社会だからである。
 県内では、東京のように職務命令、それに基づく処分という状況には至っていない。しかし、県教委は各学校長に起立しなかった教職員の氏名報告を求め、強く指導する方針を示していた。今回の判決は、県教委の対応にも影響を与えよう。思想良心の自由という観点から、これまでの対応の再考が求められる。
 また、県立学校の教職員百五十二人(「神奈川こころの自由裁判をすすめる会」)が、国歌斉唱などの義務のないことの確認を求める訴訟を横浜地裁に起こしており、その結果も注目される。
 今回の判決を契機に、思想良心の自由の尊さについて、活発な論議を期待したい。

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