読み終わったのだが…

ジェームズ・D・ワトソン『DNA』下(講談社ブルーバックス)

前に「読み始めた」と書いたジェームズ・D・ワトソンの『DNA』。下巻では、ヒトのゲノム解読から、DNAによる人類の起源史、DNAと犯罪捜査、さらに遺伝病と遺伝子治療の問題などが論じられています。

その中で、いちばん議論を呼びそうなのが、病原遺伝子の探索と遺伝病の出生前診断の是非、それに遺伝子治療の可能性をめぐる議論でしょう。

ワトソンは、遺伝病の1つである嚢胞性線維症を例にあげて次のように述べています。

子どもにこの病気が予想される母親に対しては、当人が望むならば、検査を受けられるようにする余地はあるのではないだろうか。そして胎児について知りうることをすべて知った上で、母親にはもっとも適切だと思う選択をする自由がある。(下、238ページ)

さらにより一般的な形で、次のようにも述べています。

自由な社会では、女性に対して遺伝的疾患のある胎児を産むように命じることも、中絶しろと命じることもあってはならない。すべての女性が傷害のある子どもを育てる心の準備ができているわけではないし、すべての女性が、予想される子どもの生活の質を考慮して中絶する心の準備があるわけでもない。だが、各自がどんな選択をするにせよ、スクリーニングで病気を減らせるという事実に代わりはないし、それは明らかに社会的な善である。(同、242ページ)

私は、これをもってワトソンを優性主義だというつもりはありません。同氏の議論が、産む産まないを自由に決定できる、ということを前提にしていることは明らかだからです。

遺伝病のDNA診断の問題点は、ワトソンが指摘しているように、将来、遺伝病を発症する可能性を指摘することはできても、多くの場合、治療する方法が見つかっていないことにあります。そんな現状のもとで、産む産まないの選択をすることは、それがどんなに母親自身によって自由におこなわれたとしても、ある種の「選別」になるのではないか。そこに、DNA診断にたいする最大の抵抗感があるのではないでしょうか。

しかし、科学の立場からいえば、将来、治療方法が見つかる可能性はある(遺伝子治療を含め)訳で、したがって、現在、治療方法がないことをもって、DNA診断を完全に否定し去ることはできないということになります。で、ワトソン自身は、科学者らしく、将来治療法が見つかる可能性について非常に楽観的で、したがって、DNA診断そのものの評価も肯定的です。

僕自身、科学あるいは医療技術の発展によって将来的にはDNA診断をうけ、適切な治療を受けることができるようになる、という大局的な見通しについては賛成です。しかし、そのことと、いま、この社会がDNA診断を受け入れることができるかどうかは、やっぱり別問題だと思います。それに関しては、ワトソンのように気軽に「社会的な善である」と言い切ることはできません。

しかし、ワトソン氏の立場は科学者として一貫したもの。それだけは確かです。

【追記】 2007/10/20
ワトソン博士が人種差別発言をしたというニュースが報じられています。その目であらためて、このエントリーを読み返してみると、「ワトソン博士は優性主義とはいえない」など、私の評価は甘かったと思いますので、その部分は削除します。

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