教育基本法改悪法案の強行を地方紙はどう論じたか

教育基本法の改悪について、地方紙はどう論じたか、拾い集めてみました。

特定の徳目を明記して、学校教育を通じて教えることや、国家を個人より優先させることへの危惧。タウンミーティングの「やらせ」問題と、それをそのままにして法案を強行したことへの批判。数を頼んで採決を強行するというやり方が非教育的だという批判、そもそもなぜ教育基本法の改定が必要なのか分からない、教育基本法の改定がいま直面している教育問題の解決に役だつとは思えない、という根本的な疑義まで出ています。

政府は疑念、不安をぬぐえ/「教育の憲法」改正
[東奥日報 2006年12月17日]

 敗戦二年後の一九四七年に施行された教育基本法は、五十九年にわたって戦後教育の柱になり「教育の憲法」と言われた。国家のためだった戦前の教育を反省し、自主的に考えられる一個の人間を育てていくことを根本理念にしている。
 その理念を大きく転換させて「公共の精神」を重視する改正教育基本法が十五日、参院本会議で自民、公明両党の与党賛成多数で可決された。
 自民には、個人を重視する現行法は道徳や公共心を軽視し、教育を荒廃させたとする意見が根強い。その思いも受けた小泉政権が改正案をつくる。引き継いだ安倍政権下で成立した。
 戦後体制からの脱却を掲げる安倍首相は、占領時代につくられた教育基本法と憲法を自らの在任中に「二十一世紀にふさわしい内容に書き換えたい」と言って登場した。首相は目的の一つを達成した。
 背景にあるのは、昨年の衆院選で自民が大勝した数の力だろう。だが、自民はこの選挙で、国民に直接賛否を問いかけてもいいほど重要な教育基本法の改正を争点にしていなかった。
 共同通信が十一月下旬に行った全国世論調査によると、改正案賛成が53.1%、反対は32.9%。賛成した人のうち今国会で成立させるべきとする人は43.1%、成立にこだわるべきでないが53.8%あった。
 改正には肯定的だが、教育は「国家百年の計」だから丁寧な審議を、と世論は望んでいたとみる。私たちも、改正の是非を国民が判断するためにも深い論議が必要と繰り返し求めた。
 ところが、今国会の審議は改正案賛成の「やらせ発言」もあったタウンミーティング、いじめ自殺などが中心になった。なぜ今改正なのかの政府の説明も不十分。消化不良になった感があり疑念、不安が残った。政府はぬぐうべきでないか。
 改正法は、公共の精神を尊ぶとか「我が国と郷土を愛する態度を養う」といった現行法にない道徳規範を盛っている。
 ただ、愛国心は自然ににじみ出るべきもので何を愛するかの考え方も違うはず、という声が改正賛成の人にもある。なのに教育の目標の一つと明文化し、押し付けるようにしていいかという疑念がある。愛国心をどう教え、どう評価するのかという不安が学校現場から出ている。
 国が教育に関与しすぎないよう歯止めをかけてきた現行法の条文に「教育は法律の定めによって行われるべき」と付け加えられた点も問題視されている。
 これで国や行政が教育に介入しやすくなり、工夫して教える学校現場の自由が締め付けられないか。政府が変わり、法律や教育目標も変わって教える側、教えられる側とも混乱するのではないか。そんな心配もある。
 改正法の成立で土台が変わった教育の実際の姿がどうなるかは、これから本格化する学習指導要領の改定のほか関連する法律の改正、教育再生会議の提言によって煮詰まっていく。
 その過程で、懸念されている問題を政府が解消しようとするのかしないのか注視したい。安倍政権が目指し、戦後日本の大きな曲がり角になる憲法改正問題にも目を一層凝らしたい。

【教基法改正】国民がきちんと監視を
[高知新聞 2006年12月16日]

 改正教育基本法が成立した。国会の内外に反対や慎重審議を求める声が根強くある中、自民、公明両党が採決を強行した。
 未来を担う子どもたちをはぐくむための「教育の憲法」に、力任せの手法は最もふさわしくない。極めて残念だ。
 国会審議では、現行法のどこに問題があり、なぜ改正が必要か、改正すれば教育の現状がどう変わるのかについて、安倍首相らが明確にすることはなかった。十分な検証なしの「はじめに改正ありき」では、答えようがなかったのだろう。
 改正法には、国家を個人より優先させようとする政府や自民党の狙いが色濃く出ている。今後、教育現場がどう変わっていくのか、懸念がつきまとう。
 一つは新設の「教育の目標」に盛り込まれた、「国と郷土を愛する態度」「伝統と文化の尊重」などの扱いだ。いずれもが心の問題であり、画一的に教え、評価できるようなものではない。
 愛国心について、安倍首相は「内面まで入り込んで評価することは当然ない」とする一方、「学習する態度」の評価は肯定している。心と態度が不可分の関係にあることを考えれば、態度の評価が結局は愛国心の強制につながる恐れは大きい。
 政府の「強制しない」を額面通りに受け取ることができないのは、国旗国歌法の先例があるからだ。当時の官房長官は「強制するものではない」と強調したが、文部科学省は学校現場での指導徹底を求め、事実上の強制につながった。
 今回も伊吹文科相は、愛国心教育について現場の統制強化を進めるかのような考えを明らかにしている。現場の混乱が心配だし、押し付けは憲法が保障する内心の自由を侵すことにつながりかねない。
 国の統制強化
 そうした懸念をこれまで以上に抱かざるを得ないのは、改正によって国の権限が強まるからだ。
 現行法一〇条は「教育は、不当な支配に屈することなく」と定めている。国家が学校現場に深く関与して軍国主義教育を進めた戦前の反省に基づくもので、現場の独立性や中立性を担保してきた条文だ。
 改正法はこの条文の後に、「この法律及び他の法律の定めるところにより行われる」と付け加えた。さらに、新たに国と地方が策定する教育振興基本計画では、地方は国の計画を参考にして、と明記している。
 安倍首相は「教育の国家管理を強めることにはならない」とする。だが、伊吹文科相の発言からは、法律や学習指導要領で決めさえすれば、教育を思う方向に進めることができるようになる、という国の考えが透けて見える。
 国による統制が強化されれば、現在も色濃い教育行政の「上意下達」の体質はさらに強まっていこう。学校現場では国が決めた目標を達成することに目を奪われるあまり、子どもたちに向ける視線が弱まることになりかねない。
 いじめや不登校などの教育の荒廃は、子どもたちを取り巻く家庭や社会を反映したものだ。大きな負担を強いられている学校現場への統制強化で解決できる問題ではない。
 逆に、さまざまな不安の中で生きる子どもたちと教員の距離を広げてしまう恐れさえある。そうした事態を招けば、学校現場の危機はさらに深まるのではないか。
 教育基本法改正によって教育そして学校現場がどう変わるのか。国民一人一人が監視していかないと、とんでもない方向に進みかねない。

社説=教育基本法 運用の監視が怠れない
[信濃毎日新聞 2月16日(土)]

 教育基本法の改正案が参議院の本会議で可決、成立した。戦後教育の背骨となった重要な法律が全面的に改定された。
 個人の尊重より公共の精神を優先し、国を愛する心を求める内容だ。反対が根強い中、論議を尽くさないままに成立したのは残念だ。
 今後、関連する法律の見直しが進められる。法律に何が盛り込まれるのか。学校はどう変わるか。国の動きをチェックする必要がある。
 何より、子どもたちがより息苦しくならないよう、現場の声を上げ続けることが大切になる。
 「伝統と文化を尊重」「わが国と郷土を愛する態度を養う」「公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度」?。改正法にはこういった「教育の目標」がずらりと並ぶ。
 憲法の理想を実現するには「教育の力にまつべきもの」として、個人の尊厳を重んじる現行法から、基本的な考え方が大きく変わる。規範意識を植え付け、国が期待するあるべき姿を押しつける方向に教育がねじ曲げられないか、心配になる。

<規律の重視だけでは>

 教育をめぐる問題は深刻だ。学ぶ意欲の低下、家庭や地域の教育力の弱体化など山積している。こうした問題を、政府は個の尊重や自由が行き過ぎたゆえに生まれたものだとする。根本的な改革のための、基本法見直しだと説明している。
 いまの教育を良くしたいという思いは国民の間に強い。ただ、そのために教育の理念を変える必要性は認め難い。政府の目指す方向と、学校現場や家庭が抱えている問題には大きなずれが感じられる。
 例えば、相次いで表面化したいじめにどう対応するかだ。
 いじめられた経験を学校などで語る、20代の人たちの話を聞く機会があった。
 「学校に行けない自分を悪い人間だと責めながら、行くなら死んでしまいたいと包丁を持った」
 「生きるのもつらいが、死ねないつらさにも苦しんだ」
 過去を語ることは、死にたいほどのつらさを再び体験することにもなる。それでもいじめをなくしたいと、訴え続けている。
 彼らがそろって口にするのは、いじめる側を厳しく指導しても、解決にならないということだ。
 「なぜいじめるのか、自分の心に向き合わせる対応が大切」「先生は忙しく、子どもに接する時間が少なすぎる」「親や教師も絡んだ複雑ないじめの実態に、もっと耳を傾けてほしい」。こうした訴えは、どこまで国会に届いているのか。
 14日の参議院特別委員会で、安倍晋三首相は「相手をいじめる気持ちを自律の精神で抑え、教室で迷惑をかけてはいけないと公共の精神や道徳心を教える」と述べた。体験者の声とは懸け離れた理屈である。問題を深刻化しかねない。
 論議が不十分に終わった一因は、民主党にある。民主党の対案は前文に「日本を愛する心」をうたい、保守的な色合いは政府案よりむしろ強い。政府案が決まれば、どんなマイナスの影響があるのかといった問題追及が足りなかった。

<内心に踏み込む恐れ>

 改正法に基づき、政府は5年間の目標を定める「教育振興基本計画」を作る。関連法の改正や、学習指導要領の見直しも始まる。今後の動きに厳しい目を向ける必要がある。
 最も心配されるのは、子どもの内面に踏み込む方向が強まることだ。安倍首相は「内心の評価は行わない」としたものの、日本の伝統や文化を学ぶ姿勢や態度を評価することは明言している。
 評価の対象は「態度」だとしても、法律などで教育目標となれば、子どもに強制することになりかねない。通知票で「愛国心」を評価することに、どんな意味があるのか。
 かつて国旗国歌法の審議でも、日の丸掲揚や君が代斉唱を義務付けるものではないとの答弁はあった。しかし、現実には教職員への指導強化になり、自殺者まで出た。事実上の強制である。二の舞いは避けねばならない。
 第二の心配は、地域や学校の自主性が狭められることだ。
 教育基本法は、戦前の教育が国家のために奉仕する国民を育てた反省に基づいて生まれた。「不当な支配に服することなく」と、教育の中立性や自由をうたっている。

<改憲への岐路に?>

 改正法は教育行政について「この法律及び他の法律の定めるところにより行われる」としている。教育内容への国の関与は、強まると考えねばならない。学校の裁量や自由が狭められる心配が募る。
 学校も家庭も余裕がない。そんな中で、例えば「いじめや校内暴力を5年で半減」といった目標が掲げられたらどうなるか。現場はより息苦しくなる。
 子どもたちに徳目を押しつけるだけは解決にならない。そういった生の声をこれからも上げ、法の運用に目を光らせていく必要がある。
 教育基本法改正は、憲法改正にもつながる。自民党の新憲法草案は個人の自由と権利の乱用を戒めている。このまま、国の関与が強まる道を選ぶのか。岐路に立っていることを自覚しなくてはいけない。

[改正教基法成立]政治に翻弄されるな
[沖縄タイムス 2006年12月16日朝刊]

 安倍内閣が今国会の最重要法案と位置付けていた改正教育基本法が自民、公明の与党の賛成多数で可決、成立した。一九四七年の制定以来、野党がこぞって反対する中での改正である。
 「世論誘導」と非難されたタウンミーティングに象徴されるように、民意をないがしろにしてきた過去の教育行政の検証もなく、内閣不信任決議案や問責決議案などが飛び交う中での力ずくの成立である。
 不信任案の提案理由を説明した民主党の菅直人代表代行は「政府主催タウンミーティング(の運営)を官僚に丸投げする姿勢こそが安倍内閣の改革が偽者であることの証明だ」と厳しく批判した。
 これに対して、自民党の石原伸晃幹事長代理は「タウンミーティング問題で給与を国庫返納した首相のけじめは誠に潔い。内閣不信任案は正当性もなく、まったく理不尽だ」と反対した。
 国民はどう思っただろうか。国会で多数派をとれば、何でも介入できる道が開かれるという「数の力」への諦念、あるいは無力感ではないのか。
 約六十年ぶりの改正審議は、改正教基法の成立を最優先した政府、与党の思惑で事実上閉幕したと言えよう。
 それにしても、政治が教育内容に踏み込む道が開かれたのは納得できず、残念でならない。
 改正教基法には、これまで歯止めとなってきた「教育は不当な支配に服することなく」との言葉は残ったが、「この法律及び他の法律によって行われるべき」との文言が加わった。
 「法に基づく命令、指導は不当な支配ではない」(政府答弁)としているように、歯止めは限りなく無力化されている。
 教育が政治に翻弄される宿命を負うことになりかねない。返す返すも歴史に禍根を残したと言わざるを得ない。
 安倍晋三首相は「新しい時代にふさわしい基本法の改正が必要」と国会審議で繰り返し、現行法の「個」の尊重から「公」重視へと基本理念を変えた。新たに「公共の精神」「伝統と文化の尊重」などの理念も掲げた。
 だが、こうした理念がいじめなど現代の子どもの抱える問題の解決につながるかどうかは極めて疑問だ。
 日本人として、国と郷土を愛することは当然である。しかし、「内心の自由にはなにびとも介入できない」ように、法律は行為の在り方を定めるのであって、心の在り方を決めるものではない。
 安倍首相の教育改革論議は、現状を打破したいあまりに教育全体をどうするかの哲学に欠けていたと言いたい。

教育基本法改正・懸念は残されたままだ
[琉球新報 12/16 9:38]

 教育基本法の改正案が参院本会議で与党の賛成多数で可決、成立した。1947年の制定以来、59年目にして初めて改定となった。
 教育基本法改正案は、衆院特別委員会、本会議でも与党の単独で採決され、参院でも与党単独での力ずくの採決となった。与党側は、審議は十分尽くしたとするが、果たしてそうだろうか。「成立ありき」の感がぬぐえない。
 国会での論議を聴いていても、高校の社会科未履修問題などに時間が割かれた。そのことは重要だが、なぜ教育基本法改正が必要なのか、改正で教育をどう変えていくのかなど、改正の本体を問う論議は少なかった。政府側の説明も不十分だった。
 教育が現在、解決すべき問題を抱えていることは、多くの国民の共通の認識だろう。しかし、その解決が教育基本法改正とどうつながるのか、政府、与党から明確な答えを聞くことはできなかった。
 教育基本法は、憲法と同じく戦後の日本の進むべき方向性を示してきた重要な法律だ。改正は慎重の上にも慎重を期して当然だ。
 教育は「国家100年の大計」といわれる。その理念を定めた基本法が国民合意とはほど遠く、数を頼みの成立では、将来に禍根を残すことになる。
 改正する理由について政府、与党は「個人重視で低下した公の意識の修正」や「モラル低下に伴う少年犯罪の増加など教育の危機的状況」などを挙げる。
 しかし、教育を取り巻く問題がすべて現行の教育基本法にあるとするのは、無理がある。
 安倍晋三首相は、いじめ問題などについて「対応するための理念はすべて政府案に書き込んである」と繰り返した。「公共の精神」や「国を愛する態度」といった精神論を付け加えることで果たして問題が解決できるのか。
 むしろ、現行法の最も重要な理念である「個の尊重」が、教育現場で本当に生かせるような枠組みづくりが必要なのではないか。
 教育と政治の関係も大きく変わる。現行法では「教育は、不当な支配に服することなく」とされているが、改正法では「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり」が付け加えられた。
 国会で多数をとって法律を制定させれば、教育内容に介入することも容易になる。教育が時の政権の思惑によって変えられることになりはしないか。
 改正法が成立したことで、政府は教育振興基本計画を定め、関連法案の改正に着手する。しかし、基本法改正への懸念は残されたままだ。政府は、計画策定などの論議の中で国民の懸念に十分に応える必要がある。

[基本法成立] 教育の“今ある危機”に対応できるか
[南日本新聞 12/16 付]

 安倍晋三内閣が今国会の最重要法案と位置付けていた改正教育基本法が参院本会議で自民、公明の与党の賛成多数で可決、成立した。教育基本法の改正は1947年の制定以来、初めてである。
 教育基本法は「教育の憲法」と呼ばれる教育の根本法である。改正には国民的議論の成熟が必要なはずだった。
 だが、共同通信社の最新の世論調査では、基本法改正に「賛成」は53%で、「反対」の33%を上回ったものの、賛成と回答した人でも「今国会にこだわるべきでない」とした人が半数を超えた。
 必ずしも緊急と思えない基本法改正を、特別委員会で“強行可決”し、野党が内閣不信任決議案などで抵抗するなか押し切ったのは極めて遺憾で、歴史に大きな禍根を残したと言わざるを得ない。
 与党が改正を強行した背景には、戦後体制からの脱却を目指す安倍政権の思惑が働いているのは間違いない。「教育の再生」という理由付け以上に、政権が狙う憲法改正への布石と受け取れる。国民的議論の成熟を待たずに強行した対応に、そんな政権戦略が浮き上がる。
 だが、基本法を政治的対立の象徴に落とし込んでいいだろうか。改正法が掲げた「公共の精神」「国を愛する態度」「伝統と文化の象徴」などの理念についても、突っ込んだ議論はなかった。
 問題は、教育基本法改正について政府主催のタウンミーティング(TM)でやらせ質問があり、政府案に賛成する立場からの世論操作が行われた点だ。
 政府の調査報告書によると、「やらせ」は教育改革をテーマにしたのが5回で、発覚の発端となった9月の青森県八戸市のTMでは「新しい基本法には家庭教育の規定があり期待している」と露骨な改正案への賛成意見が出された。議論の成熟を待つどころか、世論をでっち上げるのは言語道断の行為だ。
 国会の議論を聞いてもなぜ今、基本法改正なのか説得力ある説明はなかった。国を愛する態度は、例えば国を憂い、反政府運動まですることを含むのか。尊重すべき伝統、文化とは何なのか。それをだれが決めるのかなど、きめ細かい論議は最後まで聞かれなかった。
 現在の教育が危機的状況にあるのは間違いない。だが、重要なのはいじめ自殺など現代の子どもが抱える心の問題だ。高校の必修科目未履修に象徴される受験偏重の教育体制も問題である。
 基本法改正で、そんな教育の“今そこにある危機”が解決に向かうとは到底、思えない。真に子どものためにあるべき教育を、国家のものにしようという動きには強い憤りを覚える。

改正教育基本法 政治の現場介入避けよ
[中国新聞 2006/12/16]

 憲法に準じるほどの重みを持つ法律の改正が、数の力で押し切られた。参院本会議できのう、改正教育基本法が自民、公明の与党の賛成で可決、成立した。
 教基法の改正は一九四七年の制定以来初めてである。戦後社会に定着してきただけに、審議を尽くし合意へ努力を重ねるべきだった。それが衆院で野党欠席のまま採決したのに続いての強引な手法である。子どもたちの未来に責任は持てるのだろうか。
 改正教基法は「公共の精神」を前面に打ち出し、教育の目標に「我が国と郷土を愛する態度を養う」と明示した。国の関与を強める表現も盛り込まれた。能力対応の教育、家庭の責任、教員の養成と研修の充実も並ぶ。心の中まで踏み込み、運用次第では圧力が家庭にまで及ぶ可能性さえある。
 これで教育現場はどうなるか。学校のランク付けが進み、家庭は子育て状況をチェックされ、教員は「教師塾」へ通わざるを得なくなる…。そんな背筋が寒くなるような未来像が描かれるほどだ。
 教育再生に必要なのは、管理強化と競争原理の導入で、現場のストレスをさらに高めることではない。子どもたちの自立心を育てることだ。改正教基法により政府がつくる教育振興基本計画の成立過程を監視しなければならない。国の思惑を地域と自治体ではね返す力を蓄える方法を考えたい。
 改正へ向けた実質審議は十月末から始まった。これに合わせるかのように、いじめに絡む子どもや先生の自殺が相次ぎ、高校で必修科目の履修漏れが明るみに出た。教育改革タウンミーティングの「やらせ」質問まで発覚した。荒廃は政府から教育現場まで及んでいることが目の当たりになった。
 対応策をめぐり審議は多くの時間をかけた。だが解決する道が教基法改正にどうつながるかは見えなかった。改正の必要性についても十分な説明はないままだ。
 臨時国会が会期末を迎え、きのうは与野党が激しい攻防を繰り広げた。選挙対策と絡めた野党の戦術を自民首脳が「邪道」と批判する場面もあった。対立の構図からは、教基法が政争の具におとしめられた姿が浮き彫りになった。
 教基法に合わせて「防衛省」昇格関連法も成立した。「戦後レジーム(体制)からの脱却」を掲げる安倍晋三首相は、次は憲法改正へ向けて走りそうな勢いである。同じような事態を繰り返してはならない。

論説:教基法改正案成立へ 結局最後には「力業」か
[岩手日報 12/15]

 教育基本法改正案が、参院特別委員会で可決され、今国会での成立が確実となった。現行法に比べ「公共」に重きを置いた新教基法が誕生する。
 先の通常国会からの継続審議だが、10月下旬に衆院で審議入りして以降、深刻の度を増すいじめ問題や高校必修科目の履修逃れ、さらには当の教基法改正問題を含む政府主催の各種タウンミーティング(TM)で、政府側の意をくむ「やらせ」が発覚するなど、法案に集中して審議できたとはとても言えまい。
 直面する課題への対応も中途半端なまま、ひたすら理念法である教基法の改正を急いだのは安倍晋三首相の強い意向だ。
 安倍政権の最重要課題は「教育再生」。教基法改正は、首相が目指す「再生」の要であるには違いない。しかし、その意図するところが一般国民に十分伝わったかとなると、はなはだ心もとない。
 安倍首相が官房長官時代に端を発するTMでの「やらせ」では、給与返納という「けじめ」を言明したが、それで世論誘導の既成事実が消え去るわけではあるまい。何とも後味のスッキリしない改正劇だ。
 「やらせ」は置き去り
 後味の悪さは、政府案の大本となった与党の教育基本法改正検討会にさかのぼる。2003年6月に始まる検討会は、当初から非公開で行われた。
 与党側は「自公の隔たりを報道で強調されることを避ける」と説明したが、毎回の討議資料も回収する徹底した密室協議に対しては、当の与党内からも批判の声があった。
 議論の「隔たり」を公にしてこそ、改正への国民的関心が高まるものを、優先したのは与党内の対立回避。与党案は、ほぼ政府案に反映されが、さらにさかのぼれば3年前の中央教育審議会の答申が根底にある。
 中教審は文科省が事務局を取り仕切る。議員主導というには与党内の議論が淡泊で、官の意向が働いた形跡も色濃いのは、スッキリしない点の一つだ。
 そこに降ってわいたTMでの「やらせ」問題は、世論誘導というより、世論軽視といった方がいいだろう。
 政府の調査委は、過剰な人員配置などによる税金の無駄遣いも厳しく指摘。首相は自らの責任を含めたけじめでみそぎをする考えだが、「国民の声」をねつ造したという問題の本質から目をそらし、かつ改正を急ぐ姿勢は絶対多数を背景とした「力業」の印象がぬぐえない。
 中身より時間を優先
 現憲法が議論された1946年6月の第90回帝国議会で、憲法に教育の根本方針を盛り込むべき―と問われた田中耕太郎文部相は、憲法とは別に「教育根本法の制定を考慮している」旨を答弁。これが翌年の教基法成立に至る発端だ。
 現行法は、憲法の理念を骨として、教育にかかわる部分を組み立てたものであり、その改正は本来、憲法改正に連動して論じられるべき筋のものだろう。
 政府案は現憲法、さらには自民党新憲法草案との整合性も意識されているという。しかし与党協議の過程では、自民側が現行法の前文にある「日本国憲法の精神にのっとり」という部分の削除を求めたことに公明が反発し、改正案に残されたという経緯が伝えられている。
 「憲法の精神」の何が削除の理由とされたのか、密室協議の常で詳細は不明だが、戦後憲法との不可分な関係から見直す機運があった節をうかがわせる。
 TMの「やらせ」という、およそ「憲法の精神」に反する事態をそのままに、中身より時間で審議が区切られた改正案で、教育の未来を明るく照らすことはできるのだろうか。その姿勢に不安がある。
遠藤泉(2006.12.15)

教育基本法/改正に懸念を残したまま
[神戸新聞 2006/12/15]

 国民教育の根本理念をうたった教育基本法の改正案が、参院特別委員会で可決された。今国会での成立は確実な見通しとなった。改定されれば、法制定以来、約六十年ぶりとなる。
 教育基本法は「教育の憲法」ともいわれる重要な法律である。現行法は前文と十一条から成るが、改正案は「生涯学習の理念」「家庭教育」の条項などが新設され、十八条に膨らんでいる。
 最大の特徴は「教育の目標」の条項で「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度を養う」と記述し、初めて愛国心に触れたことだ。愛国心重視にこだわる自民党の姿勢を示したといってよい。
 改正の是非を問う論議でも、最大の論点はここだった。「国を愛するのは自然な心で、法律の枠で縛る必要があるのか」との声が少なくなかった。戦前、教育勅語を掲げて軍国主義教育に走った苦い歴史がぬぐいきれないからだ。こうした懸念への配慮を決して怠ってはならない。
 もう一つの特色は、前文に「公共の精神を尊び」の文言を掲げたことだろう。昨今の世相を見ても、公共心にもとる言動が以前より目立ってきたことは否定できないが、道徳の押しつけにならないよう教育をどう進めていくかが問われる。
 改正までには多くの曲折があった。三年前の中央教育審議会の「改正答申」。愛国心をめぐる与党内論議でたどった平行線。改正法案は今年の通常国会に提出され、秋の臨時国会へ継続審議となった。
 会期中、高校必修科目の未履修や、いじめ自殺の問題が焦点になり、審議に多くの時間を割いた。しかし、教育論議を尽くしたという実感が伝わって来ないのは肝心要の議論が不十分だったからだろう。なぜ改正を急ぐのか、直面する課題の解決につながるのか、という声も消えていない。
 参院特別委が今月初旬、神戸で開いた地方公聴会でも、四人の公述人が審議不足を厳しく批判した。さらに、「教育への国家介入が濃厚だ」「復古的な人間観を感じる」などの声が相次いだ。
 こうした懸念、疑問が少なくないことを政府は忘れてはならない。
 改正法が成立すると、教育現場にどう具体的に波及するのか。条項で規定されている「教育振興基本計画」の策定を進めることになり、改正法の精神を反映した施策が示されるはずだ。
 今後、その策定過程や、それがもたらす影響を注視していく必要がある。

改正教育基本法成立 「原点」を見失うな
[徳島新聞 12/16]

 教育基本法改正案が参院本会議で成立した。一九四七年の制定以来、初めて全面改定される。反対する野党は、内閣不信任決議案などを提出して対抗したが、与党が採決に踏み切った。
 現行基本法は、個人を犠牲にして戦争に突き進んだ戦前の教育の反省に立ち、戦後教育の理念を定めた「教育の憲法」である。それだけに、多数の国民が改正に慎重審議を求めていた。私たちも「国民的議論として熟していない。今国会にこだわらずに審議を尽くすべきだ」と主張してきた。
 政府主催の教育改革タウンミーティングでは「やらせ質問」も判明、不信や反発が広がった。タウンミーティングを一からやり直すなど、じっくり議論を深めるべきだった。「見切り採決」は、極めて遺憾である。
 今後、改正基本法に基づく教育振興基本計画が策定され、学校教育法や学習指導要領などの見直しも動き出す。教育の現場が、どう変わるのか。しっかり見据えなければならない。
 改正基本法は、前文に「公共の精神」「伝統の継承」を明記。教育の目標として「我が国と郷土を愛する態度を養う」ことを掲げ、「愛国心」を重視する姿勢を打ち出している。現行基本法の前文にある「個性」の文字は消えた。
 教育の基軸が「個の尊重」から「公の重視」へと動くことになりそうだ。
 「家庭や地域、国を愛する心を教えてこなかったことが教育の荒廃を生んだ」。安倍晋三首相らは、そう考えているようだ。しかし、いじめや不登校などの原因が現行基本法にあるとするのは、あまりにも短絡的だ。改正がどう問題解決に結びつくのか。最後まで納得のいく説明は聞けなかった。
 改正によって、国が愛国心や公の精神を学校現場に押し付けることにならないか、気がかりだ。愛国心について、安倍首相は「個人の内面には立ち入らない」と述べているが、評価の対象になったり、指導が強制されたりすることはないと言い切れるだろうか。
 大人が家族や地域を大切にし、善悪のけじめを行動で示せば、おのずと子どもの心に愛国心や公共心ははぐくまれるはずだ。押し付けは逆効果でしかない。
 教育の原点は「人間教育」である。
 「いまの教育を何とかしなければ」と多くの国民が思っている。私たちも同感だ。伝統や規律を教えること、基礎学力を引き上げること、いずれも大切である。しかし、その根っこに人間としてのあり方や生き方をしっかり教える「人間教育」の土台がなくてはならない。
 子どもたち一人一人が大切にされ、尊重し合いながら、それぞれの能力を引き出す教育がないがしろにされてはならない。そうした教育は現行基本法の理念でもあった。
 教師の役割は一層大きくなる。教師との出会いが、子どもの生き方を変えたという例は数え切れない。
 「兎(うさぎ)の眼」などの作品で知られ、先月亡くなった児童文学作家の灰谷健次郎さんは、子どもの心を見つめ続けた。「子どもの心の痛みや涙が分かる先生であってほしい」。度々そう語っていた。
 「教育の憲法」が変わる大きな節目にあって、教育の原点をあらためてかみしめたい。そして、教育が真の「再生」に向かうかどうか、見守っていきたい。

社説:教育基本法改正 議論は尽くされたのか
[2006/12/17 10:54 更新]

 暗然とした気持ちにさせられる。改正教育基本法が、過去の教育行政や現在の実態についてさしたる検証、反省もなく、与党の力ずくで成立した。
 安倍晋三首相は「改正は新しい時代の教育の基本理念を明示する歴史的意義を有する」と自賛する談話を発表したが、未来を展望した議論があったというのだろうか。政治家が教育を主導していくという、自己満足にすぎないのではないか。
 安倍内閣は改正教育基本法を最重要法案と位置付けていた。数を頼んで強引に成立を図る手法は、郵政民営化関連法案を成立させた小泉前内閣をほうふつさせる。「郵政」の時、自民党は異論を唱える議員を党から締め出した。その後の対応には首をかしげざるを得ないが、極めて強権的な同党の政治姿勢が教育に及ぶことを危惧(きぐ)する。
 与党の中に「郵政」の混乱を思い起こし、教育にかかわる自説を封印して内閣の方針に従った議員がいたとすれば、政治にとっても教育にとっても不幸なことだ。現在の自民党には、そんな危うい面がある。
 教育は基本的に、一人一人を手塩にかけてはぐくむ営みであるはず。それが「国を愛する態度」などを身につけた国民の育成に重点を置くことになった。教育の目標として、新たに「公共の精神」「伝統と文化の尊重」などの理念が掲げられた。そうした精神の涵養(かんよう)にかかわる部分は、強制されて身につくとは思えない。そう思うのは政治的自己満足だろう。
 改正に伴い学習指導要領も改定されるが、一人一人が国や地域に対して抱く思いは異なる。それを法の理念に従って強制しても、表面的な「教育行為」にすぎないだろう。
 ひとことで言えば、改正法は「建前」の教育を上塗りしたようなものではないか。理念を掲げても子どもたちが抱えている競争、いじめ、将来への不安などの問題解決にはつながらない。文部科学省は「ゆとり教育」を唱える一方で受験競争にさらされる子どもたちの実態には目を閉じ、いじめ問題にも手をこまねいてきた。タウンミーティングにも示されたように、行政も現場も建前の教育を続けてきたといえる。噴出した未履修問題などは、その最たるものではなかろうか。
 大切なのは、どのように子どもたちが育つ土壌を豊かにするか、のびのびとした教育環境をつくるか、個性に応じた教育を行うかということだ。その意味では、ゆとり教育の考え方に同意できる面もあるが、実際には行政の建前であり、それは再三現場を混乱させてきた文科省の方針のぶれに示された。
 今度は政治が教育内容に踏み込む道が開かれた。改正法には政府が振興基本計画を定めるという条文がある。国と地方の役割分担と協力もうたう。しかし、政権が変われば教育内容も変わる恐れがある。地方は常に政府の意向を気にしながら、振興基本計画に沿った教育の実施に努めるとなれば、分権の流れに逆行する国家のための教育になりかねない。それは子ども本位の教育ではない。法は改正されても教育の在り方を考えていくのはこれから、の感が強い。

教育基本法可決/管理強めず、現場の支援を
[河北新報 2006年12月15日金曜日]

 これで教育をめぐる諸問題にどんな効果があるのか分からない。逆に、国の管理が強まって学校現場が委縮したり、子どもたちが形にばかりこだわったりしないかどうか心配になる。
 政府、与党が今国会の最重要法案と位置づける教育基本法改正案が参院特別委員会で採決され、可決された。きょうの参院本会議で成立する見通しだ。1947年制定以来、59年ぶりの初めての改正であり、一大転機となる。
 今国会で、未来を担う子どもたちを育てる理念や原則を定める教育基本法の審議が尽くされたと思っている国民はどれほどいるだろうか。
 いじめによる子どもの自殺、高校での必修科目の未履修問題、タウンミーティングでの教育基本法についての「やらせ質問」など、教育現場で次々に起きた重い現実を前に、改正案は陰に隠れてしまったからだ。
 理念法とはいえ、現場の事実に立脚しないと空念仏にもなりかねない。優先課題は、起きている一つ一つ問題を解決することであり、法案成立を急ぐ必要はないと、社説で繰り返し述べてきた。
 改正案は前文と本則十八条で構成。「個」を重視した現行法に対し、改正案は「公」に重きを置いているのが特徴だ。
 第二条は、五つの教育目標として、「豊かな情操と道徳心を培う」「公共の精神に基づき、社会発展に寄与する態度を養う」「伝統と文化を尊重し、それをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度を養う」―と、公共の精神、愛国心、道徳心など数多くの徳目を掲げた。
 懸念されるのは、目標が定まると、おのずと評価項目が決まり、子どもたちが競争を強いられるのではないかという点だ。例えば、地域や郷土、その延長としての国を愛する心は、生活の場や人々との交流を通じて、自然ににじみ出るもので、学校が基準を作って、点数をつけるたぐいのものではあるまい。
 良く評価してもらうために、子どもたちが対応したとしても、肝心の心の形成はかけ離れていたり、逆の方向を向いていたりする恐れさえある。決して、愛国心を押しつけ、競わせるようなことをしてはならない。
 第一六条(教育行政)には、現行法の「教育は、不当な支配に服することなく」の文言に続けて、「この法律及び法律の定めるところにより行われる」と付け加えられた。行政側が、教育内容を決めるなど大きな権限を持つことになるのだろう。
 しかし、管理主義が前面に出ると、現場は生き生きとしなくなる。管理より、学校、教員への支援の姿勢を保ってほしい。
 「教育振興基本計画」を策定し、今後5カ年の政策目標を定めるとした第一七条。財政的な裏付けも得られ、一歩進んだ面もある。地方も計画を作る努力をすることが盛り込まれた。
 注意を要するのは、国の基本計画策定で教育の画一化が進むことだ。地域や学校の創意、工夫を阻害してはならない。地方分権の時代は、教育分野にも当てはまる。

「禍根を残す」は杞憂だろうか 教育基本法の改正
[2006/12/15付 西日本新聞朝刊]

 「戦後」という時代の1つの転換点となるのだろうか。
 「教育の憲法」と呼ばれ、戦後教育を理念的に支えてきた教育基本法の改正案が、14日の参院特別委員会で可決された。参院本会議で採決され、成立する運びだ。
 1955年に保守合同で誕生した自民党は、この法律の改正を結党以来の悲願としてきた。歴代の首相が改正を志し、模索しては挫折してきた経緯を考えると、大願成就といえるだろう。
 「戦後レジーム(体制)からの脱却」を唱え、「戦後生まれの初の総理」を自任する安倍晋三首相の政権下で改正が実現することに、政治的な潮目の変化を読み取ることも、あるいは可能なのかもしれない。
 しかし、戦後のわが国にとって「歴史的な」という形容すら過言ではない法律の改正であるはずなのに、国民が沸き立つような期待感や高揚感を一向に共有できないのは、なぜだろう。
 「今なぜ、基本法を改正する必要があるのか」「改正すれば、わが国の教育はどう変わるのか」。こうした国民の切実な疑問が、残念ながら最後まで解消されなかったからではないか。
 政府や与党は、過去の重要法案に要した審議時間に照らして「審議は尽くした」と主張する。だが、ことは憲法に準じる教育基本法の改正である。
 幅広い国民的な合意の形成こそ、不可欠な前提だったはずだ。私たちは、そのことを何度も繰り返し主張してきた。国民の間で改正の賛否はなお分かれている。政府・与党が説明責任を十分に果たしたとも言い難い。
 教育は「国家100年の大計」である。その基本法を改めるのに「拙速ではなかったか」という疑義が国民にわだかまるようでは、将来に禍根を残さないか。改正が現実となる今、それが何よりも心配でならない。
 現行法は終戦間もない1947年3月に施行された。「われらは、さきに、日本国憲法を確定し」という書き出しの前文で始まり、憲法で定める理想の実現は「根本において教育の力にまつべきものである」と宣言した。
 教育勅語に基づく戦前の軍国主義教育に対する痛切な反省と断固たる決別の意識があったことは明らかだ。
 だが、「個人の尊厳」や「個人の価値」を重視するあまり、社会規範として身に付けるべき道徳の観念や公共心が軽視され、結果的に自己中心的な考えが広まり、ひいては教育や社会の荒廃を招いたのではないか。そんな改正論者の批判にもさらされてきた。
 改正教育基本法は、現行法にない「愛国心」を盛り込み、「公共の精神」に力点を置く。「個」から「公」へ軸足を移す全面改正ともいわれる。
 愛国心が大切だという考えは否定しない。公共の精神も大事にしたい。しかし、それらが教育基本法に条文として書き込まれると、国による教育の管理や統制が過度に強まることはないのか。時の政府に都合がいいように拡大解釈される恐れは本当にないのか。
 「それは杞憂(きゆう)だ」というのであれば、政府は、もっと丁寧に分かりやすく国民に語りかけ、国会も審議を尽くしてもらいたかった。
 折しも改正案の国会審議中に、いじめを苦にした子どもの自殺が相次ぎ、高校必修科目の未履修や政府主催の教育改革タウンミーティングで改正論を誘導する「やらせ質問」も発覚した。
 一体、何のための教育改革であり、教育基本法の改正なのか。論議の手掛かりには事欠かなかったはずだ。
 にもかかわらず、「100年の大計」を見直す国民的な論議は広がらず、深まりもしなかった。
 むしろ、教育基本法よりも改めるのに急を要するのは、文部科学省や教育委員会の隠ぺい体質や事なかれ主義であり、目的のためには手段を選ばないような政府の姑息(こそく)な世論誘導の欺まんだった―といえるのではないか。
 現行法は国を愛する心や態度には触れていないが、第1条「教育の目的」で「真理と正義」を愛する国民の育成を掲げている。政府や文科省、教育委員会は、そもそも基本法のこうした普遍的な理念を理解し、率先して体現する不断の努力をしてきたのか、とさえ疑いたくなる。
 教育基本法の改正は、安倍首相が公言する憲法改正の一里塚とも、布石ともいわれる。
 「連合国軍総司令部の占領統治下で制定された」「制定から約60年も経過し、時代の変化に応じて見直す時期にきた」といった論拠でも共通点が少なくない。
 しかし、法律の本体よりむしろ、占領下の制定という過程や背景を問題視するのであれば、最終的に反対論や慎重論を多数決で押し切ろうとする今回の改正もまた、「不幸な生い立ち」を背負うことにはならないのか。
 永い歳月が経過して環境も変わったから‐という論法にしても、「100年の大計」という教育の根本法に込められた魂に照らせば、「まだ約60年にすぎない」という別の見方もまた、成り立つのではないか。
 教育基本法の改正が性急な憲法改正論議の新たな突破口となることには、強い危惧(きぐ)の念を抱かざるを得ない。
 「教育の憲法」の改正は、本当に脱却すべき戦後とは何か―という重い問いを私たち国民に突きつけてもいる。

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