新年の社説を読む

新年の新聞各社の社説を眺めてみました。

念頭の社説というのは、各社とも力を入れているせいか、かえって、力が入りすぎて議論が上滑りになっていることがあります。しかし、今年の念頭社説についていえば、経済格差の問題を論じたものとともに、平和や憲法9条の問題で安倍政権に批判を提起する論評が目立ちました。

社説[「憲法」で考えたい]九条の理念守ってこそ(沖縄タイムス)
07年、もっと前へ 「世界一」を増やそう 挑戦に必要な暮らしの安全(毎日新聞)
何を変え 何を守るか*1*「国とは」を問い直すとき(北海道新聞)
何を変え 何を守るか*2*格差と貧困への対策急務(北海道新聞)
社説:ことしの日本外交 「非軍事」で存在感示せ(秋田魁新聞)
「戦後体制」のよさは守り抜こう 次代に何を伝えるか(西日本新聞)
「ぼんやりした不安」/国と自分を見つめ直すとき(河北新報)

社説[「憲法」で考えたい]九条の理念守ってこそ
[沖縄タイムス 2007年1月3日朝刊]

「なし崩し」感覚が怖い

 「歴史的な大作業だが、私の在任中に憲法改正を成し遂げたい」
 就任後初の臨時国会が閉会した後、安倍晋三首相は会見でこう述べ、自らの政治理念実現に意欲を示した。
 伏線になったのは、教育基本法改正案が衆参の賛成多数で承認され、防衛庁を「省」に格上げする法案も通過したことがあるのは間違いない。
 言うまでもないが、憲法と教育基本法は不離一体といっていい。昨年11月、朝日新聞の「夕陽妄語」で評論家加藤周一氏は「憲法を根本的に改めれば教基法を改めるのが当然で、教基法を改めるには『憲法の精神』を改めることが含意される」と記した。
 「改憲について何らかの正当な合意がない今日、教基法改訂案を強行採決するのは暴挙である」とも書いている。
 この言葉が持つ意味を私たちはしっかりと検証し、国会議員の一挙手一投足に注意を払う責務がある。
 教基法は教育の「憲法」と言われる。それはまた国家百年の大計を築く礎であり、その根本法は日本の将来像を鮮明に映し出す。
 にもかかわらず衆院教基法特別委員会で目にしたのは、野党欠席の中で行われた与党による強行採決である。
 しかも、2003年12月の岐阜県岐阜市に始まる5回のタウンミーティングで内閣府の「やらせ質問」が明らかになった時期に重なる。
 論議すべき課題をなおざりにして、多数によるなし崩し的な採決に不信感を抱いた国民は多いはずだ。が、問題は国民一人一人がどれだけ疑問の声を上げたかである。
 子どもの未来、日本の将来に深くかかわる法律のタウンミーティングが、法案賛成に偏ったシナリオで進められたのだから政府の責任は極めて重い。
 一方で、内閣府の依頼に応じた多くが教育関係者だったという事実にも不安を抱かざるを得ない。
 安倍首相が唱える美しい国が、「個」よりも「国」に重きを置いたとき、平和国家の理念はどう変換されるのか。“いつか来た道”をたどらぬためにも、今なお有効な憲法の理念で現実を捉え直し、平和と民主主義にきちんと向き合うことが私たちの責務だろう。

喜ぶのは国民より米軍

 防衛省法も同じことが言える。同法案が衆院安保委で審議された時間はわずか14時間よでしかない。
 批判に対し、議員は「国民の負託を受けた私たちの採決」と述べた。だが、国民は平和主義の理念を変える動きを容認したわけではない。
 9日に発足する防衛省のために、政府・与党は、関連法である自衛隊法の改正により自衛隊の「付随的任務」とされている(1)国際緊急援助活動(2)国連平和維持活動(PKO)(3)周辺事態法に基づく後方地域支援―を「本来任務」にすることも構想している。
 意図するのは、米軍の軍事活動を後方支援しやすくし、米軍と一体化した軍事行動を可能にする動きと言っていいはずだ。
 換言すれば「戦争ができる国」への転換であり、「最も喜んでいるのは米国」と言われるゆえんである。
 集団的自衛権を認めてはならず、「平和主義」理念と「専守防衛」の範疇からの逸脱も許してはなるまい。
 国民が気づかぬうちに海外派兵に道を開いては禍根を残す。
 第九条の理念は私たちが世界に誇るべき“不戦の哲学”であり、世界が殺伐としつつある今だからこそ勇気を持って発信していく意義がある。

“翼賛”的空気を懸念

 安倍首相は、25日に開会する通常国会で憲法改正手続きを定める国民投票法案の審議に入るつもりだ。
 与党は投票権者を「原則18歳以上」(当面は20歳)とすることなどを了承し、民主党との実務者レベルで合意していた九項目について共同修正案の作成を目指している。
 野党第一党の民主党も政治理念の基本的部分が自民党と似通う点が多い。
 地方議会を含め総与党体制と映るところに“翼賛”的な空気が漂ってきているのは間違いなく、その意味では、政治に向き合う一人一人の姿勢が問われていると言わざるを得ない。
 「戦後レジーム(体制)からの脱却」(安倍晋三首相)と改憲ムードの中で右側に大きく舵が切られるのであれば、私たちは全力でその動きを正さなければなるまい。
 第2項を含む第9条はその試金石であり、国民の憲法意識が試されていることを肝に銘じたい。

社説:07年、もっと前へ 「世界一」を増やそう 挑戦に必要な暮らしの安全
[毎日新聞 2007年1月1日 東京朝刊]

 (前略)

◇市場主義のひずみ噴出

 いま、私たちの周囲では、格差問題や働いても生活保護以下の収入しか得られないワーキングプアの問題など、市場主義のひずみが噴出している。
 安倍政権は「成長」が一番の処方せんだ、と主張する。パイを大きくし分配を増やすのが問題解決の早道だ、と。一面の真理だが、時代はもっと先に進んでいる。
 安全ネットは弱者対策として必要なだけではない。冒険に踏み出す「安全基地」として不可欠なのだ。その観点から、現状は寒心に堪えない。年金制度の長期的安定性に疑問符がついているようでは話にならない。政府の成長戦略は暮らしの安全保障を先送りする口実になっていないか。
 日本はさまざまな世界一を必要としている。なかでも必要なのは、世界一国民を大事にする政府である。そして、世界一の政府を求めるならば、私たち自身が世界一啓発された有権者でなくてはならない。
 今年は春に統一地方選、夏に参院選が待っている。投票所に足を運ぶ。国民のための政治を実現するには、まず私たちが腰をあげる必要がある。それを世界一づくりの第一歩としよう。

何を変え 何を守るか*1*「国とは」を問い直すとき(1月1日)
[北海道新聞 2007年1月1日付]

 世の中が急速に右に傾いている。
 かつて保守的だと批判された評論家が、今は「左寄りだ」と糾弾される。書店には中国や韓国を敵視して排外的な機運をあおったり、国家を礼賛したりする書物が並ぶ。
 しばらく前には常識と思われた自由、平和、人権という価値は疑わしいもののように扱われている。若い世代にもこの傾向は広がる。
 そんな時代に「美しい国」「戦後体制からの脱却」を唱える安倍晋三首相が登場し、保守派の念願だった教育基本法改正、防衛庁の省昇格を実現した。政界には次は憲法改正という空気がみなぎる。
 冷戦が終結し世界は激変した。経済のグローバル化は国境をあいまいにした。テロへの恐怖も広がる。人びとは経験したことがない競争にさらされ、不安を募らせている。
 誰もが安心して暮らしたいと願う。しかし、それは首相の唱えるように国家意識を築き直せばもたらされるのだろうか。
 社会が右に傾く今、「国とは何か」を冷静に考える必要がある。

*若者はなぜ右に傾くのか

 昨年8月15日、小泉純一郎前首相が靖国神社を参拝した。その直後にNHKが番組で実施したアンケートが、若者の意識を映し出した。
 50歳代と60歳以上では賛否が拮抗(きっこう)し、20?30歳代では賛成が72%に上った。事前の各種調査では反対が賛成よりやや多かったが、首相の参拝映像が流れて支持が逆転し、中でも若い層が突出した。
 格差を生んだ小泉改革の被害者の若者が前首相を熱狂的に支持した。
 保守思想に詳しい北大公共政策大学院の中島岳志助教授は、黒人の抵抗から生まれ、いま若者たちに人気の音楽ヒップホップを例に、右に傾く若者の精神構造を説明する。
 日本のヒップホップの特徴は一部でナショナリズム肯定がうたわれていることだ。ここにはかつてのヒッピーに通じる意識があるという。
 ヒッピーは近代文明を拒み精神的価値を求めた。今も若者は体制に反発し、精神的なものを求めている。
 が、それを受け止める文化がヒッピーを生んだ左の側になく、民族や伝統など精神の尊重を唱えるナショナリズムに接近しているという。
 「右」の考えに違和感がない若者に、前首相の靖国参拝は常識に挑んだ象徴と映ったのではないか。

*それぞれで異なる郷土愛

 政権運営がまずいために安倍内閣の支持率は低下している。しかし、首相の保守的な国家観は、不安を強める社会に受け入れられやすい。
 首相は、著書「美しい国へ」で、生まれ育った国を自然に愛する気持ちをもつべきだと説き、国に対する帰属意識は郷土愛の延長線上に育つと強調している。伝統、文化、歴史の尊重が重要だとも言う。
 郷土を愛する気持ちは多くの人が自然にもっている。しかし、その感情は「国を愛すること」に一足飛びに結びつくものなのだろうか。
 「国」という言葉は幅広い。「お国なまり」は郷土を指す。近代的な国家という考え方なら明治以降に形作られた。国についてはさまざまなとらえ方があり、考え方がある。
 言えるのは、歴史と文化を同じくすることが国の条件だとは決め付けられないということだ。
 日本には沖縄の人びとやアイヌ民族、在日韓国、朝鮮人がそれぞれの歴史や文化をもって住んでいる。一つ一つの地域ですらそれは違う。郷土愛もそれぞれであり、多様な存在を含めて国があると言える。
 改正教育基本法は「伝統と文化の尊重」と、それをはぐくんだ「我が国と郷土を愛する」ことを教育目標に掲げる。伝統・文化を国が認定し国を愛せと教えることは、異なる考え方の排除につながりかねない。
 これは杞憂(きゆう)だとは言えない。靖国参拝に反対した自民党の加藤紘一氏の実家が放火され、昭和天皇発言を伝えた新聞社に火炎瓶が投げつけられた。が、当時の小泉首相、安倍官房長官には言論を脅かすテロを積極的に非難する姿勢はなかった。

*憲法をめぐる重要な岐路

 国とは何かを考えることは憲法を考えることだ。安倍首相は在任中の憲法改正を明言している。次の国会で改正のための国民投票法成立をめざす。改憲の動きは加速する。
 自民党が一昨年まとめた憲法草案は、戦争放棄を定めた九条改正と並んで国をめぐる記述が焦点だ。
 草案前文は「帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る」ことが国民の責務と記す。
 権利と義務の項では「自由と権利には責任及び義務が伴う」とし、「公益及び公の秩序に反しないよう自由を享受し、権利を行使する」ことも国民の責務だとしている。
 近代立憲主義で憲法は、歴史的にみて独断専行に陥りやすい国家に、守らなければならない人権の尊重や、してはならないことを規定し命じるものだと理解されている。
 自民党草案は現行憲法が基づくこの理念を退け、国が国民に責務を課して秩序を回復しようとしている。
 これでは、国の方針以外は認めない窮屈な日本にならないか。めざすべきは多様な考えの人びとが共に生きる国だろう。今が重要な岐路である。世代を超えて「国とは何か」を考えたい。(5回掲載します)

何を変え 何を守るか*2*格差と貧困への対策急務
[北海道新聞 2007年1月3日付]

 嫌な言葉だが「勝ち組・負け組」、「下流社会」が流行語となり、すっかり定着してしまった。
 格差は小泉純一郎前首相が進めた構造改革の「負の遺産」としてさまざまな分野で拡大した。安倍晋三政権になってもその傾向は変わらず、むしろ深刻になっている。
 かつて「マル金(金持ち)」「マルビ(貧乏)」という言葉がはやったことがある。1980年代半ば、日本経済はバブルの絶頂期に向かって突き進んでいた。
 そのころから国民の意識は変化していたのだろう。だが、当時と大きく違うのは社会のひずみが若者に集中してあらわれていることだ。
 広がる格差とどう向き合い、どう是正すればいいのか。日本社会のあり方が問われている。

*現実を直視することから

 東京都内のネットカフェは、フリーターが寝泊まりする場となっているところも少なくない。
 パソコンとリクライニングシートがあるだけの狭い部屋だが、深夜に入店すれば朝まで1000円ちょっとで過ごせる。
 住む家のない若者らが昼間は派遣やパートで働き、夜になると戻ってくる。常連も多い。
 ある民間研究機関の推計によると、フリーターの平均年収は百六万円にすぎない。
 いくら働いても生活保護水準に満たない収入しか得られない。残酷な言葉だが「ワーキングプア」(働く貧困層)だ。これでは独立して生活するのは難しいだろう。
 格差問題はいまや高所得者と低所得者の階層分化ではすまず、貧困問題としてとらえなければならないところまできている。
 この現実をしっかりと直視することが、格差是正に向けた議論の出発点になるのではないか。
 フリーターの多くは、90年代後半の就職氷河期に定職に就けなかった人たちだ。
 能力が十分あるのに正規雇用されなかった人もいて、企業にとっては都合のいいときだけ使える雇用の緩衝材となっている。
 戦後最長といわれる景気拡大で、一部の大学では「バブル期並み」の売り手市場となっている。だが、企業は新卒の採用には意欲的でも、フリーターなどの正社員化には極めて消極的だ。
 400万人ともいわれるフリーターがこのまま40代、50代を迎えたら、日本はいったいどんな社会になるのだろう。
 大企業はここ数年、空前の好決算に沸いている。企業の社会的責任として、雇用システムの見直しを真剣に検討すべきときだ。

*問われるべき政府の姿勢

 「格差が出ることは悪いことではない」。小泉前首相は国会で、格差を容認する発言を繰り返した。経済効率を高めるために所得格差の拡大はやむを得ない、という信念からだったのだろう。
 ライブドア前社長の堀江貴文被告も同じようなことをいっている。「それで将来格差がひらいたっていいじゃありませんか。みんなエリートに食べさせてもらえば」。その著書「儲(もう)け方入門」での発言だ。
 ニートやフリーターが社会問題となる一方で、東京・六本木の高層ビルにオフィスを構えた堀江被告らはヒルズ族と呼ばれ、派手な生活が一部でもてはやされた。
 小泉政権ではこうした人たちが持ち上げられ、格差を助長するような政策がとられてきた。
 確かに経済の活性化には一定の競争は必要だが、だからといって格差拡大を放置していいということにはならない。社会から貧困をなくすことは政府の役割のはずだ。
 安倍首相になって所信表明演説で「格差を感じる人に光を当てるのが政治の役割だ」と述べるなど、方向転換したかにみえた。
 だが、新年度予算案に盛り込まれた再チャレンジ支援策は、相談窓口の増設など既存の政策の焼き直しばかりだ。そこには格差問題を真正面から受け止めようという姿勢はまったくみられない。

*「機会の平等」をどう確保

 昨年末の政府税制調査会総会でのことだ。
 一部の委員から格差問題への対応が提起されたが、結局は成長重視の声にかき消され、答申にはほとんど反映されなかった。
 税を通じた高所得者から低所得者への所得再配分が、格差是正への有効な手段であることは間違いない。
 ところが日本ではこの20年間で所得税の最高税率が大幅に引き下げられ、高所得者が優遇される一方で低所得者には不利な税制に移行している。再配分機能は低下しており、見直しは必要だ。
 政府の役割でもう1つ重要なのは「機会の平等」の確保だ。
 高所得者の子供しかいい教育を受けられないのでは、格差は固定化してしまう。努力や能力次第で進学できるよう、公立学校や奨学金制度の充実が急がれる。
 格差を完全になくすことは難しいだろう。だが、低所得でも安心して働き暮らせるような社会をつくることは、緊急の課題だ。
 政府は自らに課せられた責任の重さを自覚してほしい。

年のはじめに考える 新しい人間中心主義
[東京新聞 2007年1月1日付]

 「戦後最長の景気拡大」と「企業空前の高収益」がよそごとのような年明けです。この国は未来を取り戻さなければなりません。新しい人間中心主義によってです。
 ことし満60歳。順次、定年を迎える団塊世代680万人の第一陣に属する身として、昨年暮れに発表された「東大生の学生生活実態調査」の囲み記事を興味深く、また、多少の同情をこめて読みました。
 東大生といえば同世代の中の「勝ち組」で、社会に出るにも最も恵まれた立場にある若者たちでしょう。
 その東大生でさえ7割が就職に不安を感じ、3割近くが「自分がニートやフリーターになるかもしれない」と回答していたからです。

■若者には未来がある

 人はだれも未来に一抹の不安を抱くものでしょうが、東大生たちの回答には怯(ひる)みが感じられます。徹底した市場原理主義と競争社会が緊張を強いるのでしょう。
 それに比べ、団塊の世代が社会に出るころは幸せな時代でした。高度経済成長のただなかで、明日は今日より豊かだという確かな未来がありました。
 企業組織にあって、「努力」や「勤勉」「律義」や「誠実」は、なお大切な徳目で、何より労働は喜びであったり、自己表現であったり、生を充実させるものでもありました。
 若者をめぐる境遇は、いま、一変しています。
 バブル崩壊後の長く絶望的な不況からの脱出のためにはそれしか方法がなかったのかどうか。
 企業の大幅な人件費の削減と組織の中核を形成する社員以外は非正社員化することを打ち出した「新時代の日本的経営」(一九九五年・旧日経連報告書)。それに直撃されたのが、団塊ジュニアともいえるべき世代でした。
 企業にとって、パートやアルバイト、派遣労働などの非正規雇用は、安価で、必要な時に必要な量だけ調達できるこのうえなく効率的なものでした。打ち切りも容易で、非正規雇用は一気に広がっていきますが、ことに不遇だったのは、永く厚い就職氷河期下にあった若者でした。
 2005年現在で、15?34歳の男女でパート、アルバイト労働に従事すると定義されるフリーターは201万人を数えます。平均年収は140万円です。

■国の基盤が壊れてしまう

 七割が正社員を希望しながら脱出できず年長フリーターとなっていきます。結婚し、子供をもち、家庭を築きたい、というごく当たり前の願いが叶(かな)いません。そんな国に未来はあるのでしょうか。
 小泉前政権で加速された市場原理主義と新自由主義による構造改革で貧富と格差はさらに拡大しました。
 働く者の3人に1人、1600万人までになった非正規雇用。生活保護受給はかつての60万世帯から105万世帯に、その生活保護世帯よりさらに所得の低いワーキングプア層まで生まれてきました。
 景気は「いざなぎ」を超えて59カ月連続の拡大、東証一部上場企業はこの3月期には4年連続で過去最高益を達成する見込みですが、企業に、収益を雇用や賃金に振り向けようとする動きはみられません。
 企業間競争のグローバル化、高コスト体質に逆戻りすることを恐れるからなのだそうですが、すでに出生率は1.26まで低下しています。産みたくても産めない社会では、一企業の消長どころではなく、国の基盤そのものが壊れてしまいます。早急に立て直しが必要です。
 国の財政配分は再建のカギのひとつですが、「雇用政策費」も「教育費」も医療・年金などの「社会保障給付費」のいずれも対GDP(国内総生産)比支出は先進国中の最下位グループです。いかに道路、河川、ダムなどの公共事業中心だったか。
 財政事情は厳しく有限です。公正な配分や負担がどうあるべきか、徹底した議論が必要でしょう。
 が、若い世代が希望をもてない国に未来があるとは思えません。
 行き過ぎの市場原理主義に否定されてしまった人間性が復活し、資本やカネでなく新しいヒューマニズムが息づく社会?そんな選択であるべきです。

■受け継がれる格差

 格差はいまや世代を超えて引き継がれ、固定化しつつある、というのが社会学者たちの報告です。
 確かに政界では、安倍晋三首相も小泉純一郎前首相も、自民党の有力議員の多くが二世、三世議員です。生まれながらにして統治権力の側に就くことが約束されているかのような新階級の出現にさえみえます。
 勝ち組世襲議員に敗者の現実がみえ、心情が理解できるかどうか。
 悲願の改定教育基本法を成立させた安倍政権の次なる目標が改憲ですが、そこに盛り込まれている権力拘束規範から国民の行動拘束規範への転換こそ、勝ち組世襲集団の発想に思えるのです。
 国民の内にある庶民感覚と感情のずれ。改憲に簡単にうなずけない理由のひとつです。

社説:ことしの日本外交 「非軍事」で存在感示せ
[秋田魁新聞 2007/01/04 09:07 更新]

 資源の乏しい日本は、貿易なくして存在し得ない。その分、他国との関係をどう保つかが極めて重要になる。
 他国との良好な関係は安全保障上、つまり平和を維持するためにも不可欠だ。外交が何より大切なゆえんである。
 日本はかねてより外交下手といわれてきた。しかし、今後、それでは到底済まされない。
 中東をはじめ国際情勢が一層複雑化。中でも北朝鮮問題がのど元に突きつけられたナイフのように、差し迫る課題として残ったままだからである。
 北朝鮮問題は日本にとって二重の意味で厄介だ。世界にとって脅威である核に加え、拉致問題も絡むからだ。
 どちらも全く言語道断の問題だ。しかし、確かに日本海の対岸にそんな国が厳然と存在するのである。現実から目をそらすわけにはいかない。
 恐らく北朝鮮はことしも身勝手で無謀な要求を繰り返し仕かけてくることだろう。しかし、ひるむ必要は毛頭ない。
 安倍政権が経済制裁をはじめ毅然(きぜん)とした態度で臨んでいることは基本的に間違っていない。
 気になるのは米国と中国の動向だ。米中間選挙の共和党敗北は、ブッシュ政権の対北朝鮮政策に影響を与えかねない。中国の対北朝鮮政策もいまひとつはっきりしないのだ。
 強硬姿勢の安倍政権は途中ではしごを外されないように、米中をいかに日本側に引き寄せるかが課題となるだろう。
 米中との関係をどうするかは北朝鮮問題にとどまらない。
 日米同盟を基軸にするにしても、米国一辺倒とも受け取れる外交で、日本は国際社会に押し寄せる荒波を果たして乗り越えられるのか。
 安倍晋三首相が政権発足直後に中国を訪問。冷えた日中関係の修復を図ったことは評価できる。しかし、良好な関係を築くまでには至っていない。
 日米同盟を維持しながら、中国や韓国、さらにアジア諸国との関係を緊密化する。それこそが平和を保ち、一層の発展の礎となることは間違いない。
 イラク情勢の泥沼化は陸上自衛隊の撤退後、遠い問題になったようにも見える。
 しかし、戦争に踏み切った米国はもちろん、米国を支持した以上、日本も責任を免れない。
 ブッシュ政権は近く対イラク政策の見直しを公表する予定だが、日本として何ができるか検討する必要がある。
 イラクでは毎日のように多くの人命が失われ、事実上の内戦は、隣国イランの核問題を含めて複雑極まりない中東情勢を一層混迷させかねないのだ。
 憲法の改正論議にも触れておかなければならない。憲法改正、特に9条の改正は国内問題であると同時に、優れて外交上の問題でもあるからである。
 世界、中でもアジア各国が、防衛庁の防衛省昇格と併せ、現行の戦力不保持から自衛軍保持への改正をどう受け取るかを熟慮しなければならない。
 軍事力に頼るのではなく、あくまで外交で問題解決を図ろうとする。それがいまだ核の脅威が消えない国際社会で、唯一の被爆国・日本が存在感を示し得る対外政策ではないのか。

「戦後体制」のよさは守り抜こう 次代に何を伝えるか
[2007/01/03付 西日本新聞朝刊]

 この国は今、大きな変化の渦中にある。
 自由経済が世界を席巻して地球が単一市場と化し、私たちはいや応なく、国境を超えた激しい経済的競争に巻き込まれていく。
 情報技術(IT)を中心とする急速な技術革新は、産業構造だけでなく、人々の生活様式まで変えつつある。
 ある意味では、ダイナミズムに満ちあふれた時代だ。人々は懸命に知恵を絞り、競争に挑み、この変化の時代を生き抜こうとしている。
 その一方で多くの人が、心の中に漠然とした不安を抱えている。
 変化の先に、一体どんな世界が待ち受けているのか、この国がどこに行こうとしているのか、だれも明確な展望を示せない。
 古い技術があっという間に無用の長物と化し、大切に守り続けるべきだと思っていた理想までもが「時代遅れ」と否定される。
 変化の渦中で、戦後培われてきた価値体系まで揺らいでいることが、人々の不安を増幅しているのではないだろうか。
 昨年9月、変化の時代の申し子とも言うべき小泉純一郎前首相の後を受けて政権を担った安倍晋三首相は、「美しい国 日本」をつくるために「戦後レジーム(体制)からの脱却」を目指すという。

着々と打たれる布石

 戦後体制とは、一体何だろう。
 私たちがまず思い浮かべるのは、日本国憲法に示された平和主義や国民主権、基本的人権の尊重といった概念であり、この国に初めて根付いた民主主義という政治システムであり、自立した個人としての「私」を重んじる思想潮流だ。
 それは今や、普遍的価値としてこの国に定着していると言っていい。
 だが、安倍首相は昨年12月、戦後民主教育の理念的支柱となってきた教育基本法の改正を果たし、首相在任中の憲法改正にも意欲を示している。まさに、着々と「戦後体制からの脱却」への布石が打たれているのだ。
 首相に近い識者らは、戦後体制のひずみを指摘し、警鐘を鳴らす。
 いわく「個人主義が行き過ぎて利己主義と化し、規範意識が希薄化している」
 いわく「権利ばかりを声高に主張する風潮が目立ち、『公』に対する『義務感』や、他者への奉仕の精神が忘れられている」
 うなずける面も多々ある。安倍首相が言う「戦後体制からの脱却」は、変化の時代の先にある国の姿や、新しい秩序を探ろうとする試みなのだろう。
 だが、私たちは、それによって戦後の「よさ」までもが否定される懸念を捨てきれない。
 安倍首相は以前から、「占領時代の残滓(ざんし)を払拭(ふっしょく)するべきだ」と主張していた。憲法改正に関しては「戦後生まれの私たちの手で新しい憲法をつくることが大切」という。
 そこには、「戦後体制」を米国の占領政策によって押しつけられた体制とみなす思想がうかがえる。
 首相が伝統文化や家族の大切さを訴え続けているのも、占領体制のくびきを脱し、占領政策で破壊された古きよき日本の伝統を回復しない限り、真の国家の自立はないと考えているからだろう。
 推測するに、首相が言う「美しい国」とは、「公」への義務を重んじる規律正しい国民が暮らし、普通の軍隊をもつ普通の国なのだろう。

根を下ろした価値観

 だが、民主主義を含む戦後体制が上から与えられた体制であるにせよ、その「いい面」まで否定する必要はあるまい。
 現代の日本人の精神風土が、一部識者が警鐘を鳴らすほどに荒廃しているとも思いたくはない。
 1995年1月、阪神地方を襲った阪神淡路大震災を思い起こしてほしい。6000人を超す人命が失われる大惨事の中でも略奪や暴動が起こることはなく、被災者たちが悲しみに耐えながら互いに助け合う姿は、海外のメディアに称賛された。
 2004年10月の新潟県中越地震では、「何か役に立ちたい」というボランティアが全国から、まさに自発的に被災地に集まった。
 惨事や危機に際して現代日本人が示した高い規律や他者への思いやりの実例として、私たちに鮮烈な記憶を残している。
 「戦後のひずみ」は確かにあるが、日本人の心から、自分が帰属する集団への愛や規範意識が失われたわけではないのだ。改めるべきひずみをあげつらうあまりに、私たちが謳歌(おうか)してきた「個」の自由や「平和」の大切さまでかすんでしまうようでは困る。
 そうした戦後的価値体系は、既にこの国にすっかり根を下ろし、安倍首相が言う「伝統」とは違った意味で、伝統となっているのではないだろうか。
 それを守り、次世代に確実にひきついでいくことが、この変化の時代に生きる私たちの責務だ。

「ぼんやりした不安」/国と自分を見つめ直すとき
[河北新報 2007年01月01日月曜日]

 自殺した作家芥川竜之介の言を借りれば、「ぼんやりした不安」を抱きながら、年を越した。
 芥川の死は1927(昭和2)年。それは芸術上の問題であったかもしれない。しかし、世間はこの言葉に共感を抱いた。時代のにおいをかぎ取った。翌年には中国東北部で張作霖の爆殺事件が起きる。その3年後に満州事変の勃発(ぼっぱつ)。後から思えば当時既に、ファシズムの道を歩んでいた。
 昨今の不安は何に由来するのか。1つは「いつか来た道」へのおののきか。そこまでは杞憂(きゆう)―という声は多い。が例えば、言論の規制、国家への忠誠を問うなどの権力の横暴は本当に大丈夫なのか。
 安倍晋三首相は憲法改正に意欲を示す。「歴史的大作業だが、在任中に成し遂げたい」。最大の眼目は憲法9条。これまで政府自らが縄を打ってきた集団的自衛権行使を解き放とうとする。
 国内で実験すらできない核開発問題が論議になるのか。近隣の独裁国家の暴発を想定した先制攻撃論も取りざたされる。
 防衛庁は近々「省」に昇格する。自衛隊の海外派遣も本来任務化する。「我が国と郷土を愛する態度」を掲げる新教育基本法も施行された。国家は国民の心に入っていいのか。
 日本は「戦争をしない国」から「戦争ができる国」に形を変えつつあるように見える。戦争は人の心の中に生じる。戦争への恐れが薄れたら危ない。
 日清戦争以降、先の大戦までの50年に300万人以上が犠牲になった。戦後の60年余は一人の死者もない。平和憲法の加護だろう。「戦争をしない国」の看板はいつまでも高く掲げていたい。
 暮れ、将来推計人口が発表された。50年後は約9000万人。現在より約4000万人減る。下ぶれすれば、8000万人台半ばまで縮む。これは戦後間もなくの人口に当たる。1億3000万人近くまで増えた人口の3分の1が消える。
 人口減には高齢化が伴う。働き盛り3人余で1人の高齢者を支える現状がある。50年後、それは1.3人で肩代わりする。そんなに遠くなくとも、20年後は2人で1人の高齢者を背負う。子や孫のあえぎが聞こえてこよう。税と社会保障制度の再設計が急がれる。先送りは許されない。
 敗戦で再誕生した日本。成長期をとうに過ぎていることは大方は認めよう。今、成熟期にあるのか。それともそれも通過し、停滞、衰退期に向かっているのか。
 戦後最長のいざなぎ景気を超えた今回の経済成長。しかし、中身を点検すれば心もとない。年平均2.4%の成長率は、いざなぎに比べれば5分の1。特に地方において実感は乏しい。勢いが違う。
 格差社会が進行する。強い者が利を占めるジャングルのような社会であれば、それも仕方ない。しかし民主主義に似合わない。競争があれば敗者が出る。救済のネットの目をより細かくしたい。
 非正規雇用が下支えする企業社会は、やはり異様だ。ワーキングプアという、働いても働いても報いの乏しい層の存在も問題が大きい。富の再配分を急ぎたい。
 中国、米国頼みの経済力。アジアなど後発国の成長も侮れない。産業空洞化は日本の競争力を奪う。労働力が減ったうえ、質の低下も避けて通れない。団塊の世代のリタイアが始まった。
 成長から成熟へ。渇きから豊かさへ。この流れの中、日本人の暮らしは格段に向上した。しかし心の内は? 若者の知的向上心は薄れ、変化を嫌う。忍耐も失われる。学力低下、いじめの横行もあながち無関係であるまい。大人だって中央と地方、官と民を問わず、モラルの退廃は嘆かわしい。
 成長期を終えれば時代は一面、落ち着く。そんな時こそ、国と自分を見つめ直したい。ぼんやりした不安とじっくり付き合いたい。その先に未来は見えてこよう。
 7月、参院選挙がある。

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