大阪・高槻の今城塚(いましろづか)古墳で、横穴式石室を支えたであろう基礎にあたる石組み遺構が見つかりました。
宮内庁によって陵墓に指定された古墳は発掘調査ができないため、これまで大王クラスの墳墓がどうなっているのかあまりよく分かっていませんでした。そのことを考えると、今回の発掘調査は大事。
天皇陵級に横穴式石室、高槻・今城塚古墳で基礎確認(読売新聞)
大阪・今城塚古墳/石室 なぞの消失(読売新聞)
大王の石室支えた基盤発見 大阪・高槻の今城塚古墳(朝日新聞)
宮内庁は、継体天皇の陵墓を別の古墳に比定。そのため、今回の発掘調査が可能になったというのは皮肉です。しかし、3段になっていたといわれる墳丘の最上段が失われているのが残念。
天皇陵級に横穴式石室、高槻・今城塚古墳で基礎確認
[2007年3月2日 読売新聞]真の継体天皇陵とされる大阪府高槻市の前方後円墳、今城塚(いましろづか)古墳(6世紀前半)で、横穴式石室の基礎となるコの字形の大規模な石組み遺構(基盤工)が見つかり、1日、市教委が発表した。石室自体は解体されて失われていたが、その存在が裏付けられた。天皇陵(大王墓)級の古墳で横穴式石室の基礎部分が確認されたのは初めて。宮内庁が陵墓指定し、原則として調査を認めていない天皇陵級古墳の構造や築造方法の解明にもつながる画期的な成果となりそうだ。
遺構は後円部中央北側の上部で出土し、東西17.7メートル、南北は11.2メートル。石材の平面をそろえて石垣のように高さ約80センチまで積み上げ、内側に20?40センチ大の石が敷き詰められていた。石を積むたびに土を盛って固めており、石室の基礎部分を強化して盛り土の沈下や崩壊を防ぐ地盤改良工事が施されたとみられる。
遺構のゆがんだ形状などから、大阪北部付近が震源とされる1596年(文禄5年)の伏見地震によって元の位置から4メートル程度下に滑落したと考えられる。横穴式石室の石材は出土しなかったが、材質が異なる3種類の家形石棺の破片や金銅装馬具など副葬品の小片約620点が見つかった。
これらの結果から、市教委は、3段構造の墳丘の最上段に三つの石棺を収めた横穴式石室が存在していたと判断した。鎌倉時代の文献などから、13世紀後半の盗掘後、同地震までの間に解体されたとみられる。
また、2004年2月に出土し、埋葬施設の一部とされた石組みの排水溝は石室の関連設備ではなかったことも今回確認された。
現地説明会は4日午前10時?午後3時に行われる。
和田晴吾・立命館大教授(考古学)の話 「驚くべき発見だ。横穴式石室をいち早く取り入れ、最高級の土木技術を使って施工したことがわかる。今城塚古墳の全体像が見えてきた」■今城塚古墳■ 全長190メートルの墳丘に二重の周濠(しゅうごう)が巡る。1997年度から高槻市教委が発掘。内堤北側では多数埴輪(はにわ)が並ぶ祭祀(さいし)場が出土した。宮内庁は大阪府茨木市の太田茶臼山古墳(5世紀中ごろ)を継体天皇陵に指定しているが、531年に没した継体天皇と時期が合わず、今城塚を真の継体陵とするのが定説となっている。
大阪・今城塚古墳 石室 なぞの消失/盗掘か築城資材か
[2007年03月02日 読売新聞]大阪府高槻市の今城塚(いましろづか)古墳(6世紀前半)で、横穴式石室の基礎となる石組み遺構が初めて見つかった。真の継体天皇陵とされる古墳の全体像解明に向けて前進したが、石室そのものは盛り土ごとなくなっていた。盗掘説の一方で、築城の資材に用いられたとみる専門家もいる。石室はどこへ消えたのか。
「失われた時期は13世紀後半から約300年の間だろう」。調査にあたった同市教委の森田克行・文化財担当参事はそう語る。
鎌倉時代の貴族の日記「公衡公記(きんひらこうき)」には、1288年、古墳から鏡などが盗掘され、犯人が捕まったとの記録が残り、その時期までは石室が存在していたとみられる。しかし今回、1596年の伏見地震で崩れた辺りから石棺の破片が出土しながら石室の石材は全くなく、地震までに失われていたことがわかった。
「盗掘で徹底的に破壊された」。森田参事はそう推測したうえで、古墳から持ち帰った石が泣くので元に戻したという「夜泣き石伝説」が地元に残ることを挙げて、盗掘後に少しずつ持ち出され、庭石などに使われた可能性を指摘する。
だが、石室があり、3段構造と判明した墳丘の最上段は推定で直径約30メートル、高さ約7メートル。盛り土だけで5000立方メートル近く、10トンダンプ約700台分にもなる計算だ。これに石材を加えた量の搬出は一大事業。個人による盗掘だけでは説明がつかない部分が残る。
「今城塚」という名称の由来となった城に着目するのは白石太一郎・奈良大教授(考古学)。城が実在したかどうか不明だが、「戦国時代、古墳の上に城が造営されたため、墳丘が平らにされ、石室も解体された」とみている。
奈良県立橿原考古学研究所の今尾文昭・総括研究員は「従来の秩序の破壊者が石室を解体し、城の石垣に使った」との説を唱え、「寺社を焼き打ちした織田信長や三好三人衆が候補にふさわしい」と語った。<解説> 荷重を拡散洗練の技術
陵墓級古墳として国内で初めて横穴式石室の基礎部分(基盤工)が見つかったことで、今城塚古墳がこの石室を取り入れた初の天皇陵との見方が強まった。使われた築造手法は数百トンとみられる石室を支え、現代の土木技術につながる。
大王の埋葬施設は、古墳時代中期(5世紀)まで墳丘上部に穴を掘る竪穴式石室だった。6世紀に入って百済由来の横穴式石室が近畿に伝わったが、今城塚以前の大型前方後円墳では確認例がない。
新施設導入に伴い、広範囲に石を敷く基盤工という手法が編み出されたとみられ、西田一彦・関西大名誉教授(土木史・地盤工学)は「荷重を拡散させる効果がある。今も軟弱地盤の改良に使われ、土木の常識となっている」と話す。
「日本書紀」によると継体天皇は後継者のいない武烈天皇の死後、今の福井県から迎えられた応神天皇の「五世孫」とされる。樟葉宮(大阪府枚方市)で即位したが、大和入りに長い年月を要し、新しい王朝を開いたとする説が有力だ。
雨水を抜く排水溝なども備え、洗練された技術で築かれた古墳は、新時代を担ったであろう大王の葬送にふさわしい。(関口和哉)
大王の石室支えた基盤発見 大阪・高槻の今城塚古墳
[asahi.com 2007年03月01日21時16分]「真の継体(けいたい)天皇陵」とされる大阪府高槻市の前方後円墳・今城塚古墳(6世紀前半、全長約190メートル)で、横穴式石室の基盤とみられる大規模な石組み遺構が見つかったと、同市教委が1日、発表した。石室は失われていたが、古墳は完成時に3段、高さは18メートル前後だったと推定される。これだけの規模は大王(天皇)墓以外に考えられず、同古墳が継体天皇墓であることがより確実になったとしている。天皇陵級の古墳で石室の基礎など、墳丘の内部構造が確認されたのは初めて。
見つかった石組みは、地滑りなどで落ち込んだ状態で、後円部北側から出土した。基盤の一部で、1596年の慶長伏見地震の際、崩れたらしい。東西17.7メートル、南北11.2メートルのコの字形に方形の石が3段積まれていた。
こうした構造、規模から「基盤の上に横穴式石室があったことは確実」と同市教委。古墳の後円部頂上(高さ約11メートル)のさらに上に石室があり、築造当時は3段だったとみられる。
仁徳天皇陵(堺市)など5世紀以前の大王墓に一般的だった竪穴式石室に比べ、横穴式石室は巨大な天井石を持つなど重量が大きい。今城塚古墳では石棺の破片が3種類見つかっており、縁者らも含め、石室に三つ以上の石棺が収められると総重量は100トンになると推定される。
日本書紀には、継体天皇は先代に後継ぎがなく、現在の福井県から迎えられたとある。高槻市教委の森田克行・文化財担当参事は「3段の前方後円墳という大王墓の伝統的な形を継承しつつ、横穴式石室という最新技術も採用している。継体天皇は生前から新しい大王としての強大な権力と高い技術力をアピールしたかったのでは」と話している。
現地説明会は4日午前10時?午後3時。雨天決行。現地に駐車場はなく、JR京都線摂津富田駅から臨時バスを運行する。〈今城塚古墳〉 01年からの調査では、大王の葬送の儀式を再現した高さ約170センチの国内最大級の家形埴輪(はにわ)、巫女(みこ)や武人などをかたどった埴輪100点以上が出土した。継体天皇陵について宮内庁は、今城塚古墳の南西1.5キロにある大阪府茨木市の太田茶臼山古墳を指定しているが、研究者らの立ち入りを許可していない。一方、10世紀の「延喜式」の記述などから研究者らは今城塚古墳こそ真の継体天皇陵だと推定。発掘調査を続けている。
今城塚古墳については、こちらをどうぞ。
史跡今城塚古墳 :高槻市インターネット歴史館
調査・研究 今城塚古墳に関する調査:高槻市インターネット歴史館
なお「今城」という地名は、いまは「いましろ」と読みますが、中世・近世には「いまき」と読まれていたようです。
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