子安宣邦氏 ((大阪大学名誉教授、日本思想史学会元会長))の新著『日本ナショナリズムの解読』(白澤社)をさっそく読み終えました。
「日本ナショナリズム」なるものを支えた言説のあり方を、本居宣長から福沢諭吉、和辻哲郎、田辺元、橘樸(たちばな・しらき)へと、フーコー流「知の考古学」的手法を用いて追跡したものです。本居宣長や幕末の水戸学は、子安氏のホームグラウンドで、『古事記』から由緒正しい「やまとことば」を訓み出す宣長の手法の分析などは、くり返し指摘されてきたところですが、この本で、面白いと思ったのは、2つ――福沢諭吉の『文明論之概略』の分析と和辻倫理学にたいする批判です。
1つめの福沢の『文明論之概略』について。子安氏は、「国体論との抗争する言説」「国体概念の脱構築」として、そこに「議論不可能な絶対的国体論を相対的国体論へと変容させる」もの、「国体論を文明論的に読み替え、組み替えていこうとする言説的作業」を読み込んでゆきますが、そのなかで、福沢が「国体論的言説を批判的に読み替え」ることによって、「護持されなければならないのは、自国と人民の独立性である」としたことに注目されています。
この論点自体は古くから議論されてきたところですが、たまたま最近、とある研究会の場で、いま明治維新の研究をする場合、たんに反封建・民主主義革命という角度からみるだけでなく、現在のアメリカにたいする国家的従属との対比で、この時期の独立の課題について注意を払う必要がある、との指摘を聞いたばかりだったので、子安氏の指摘を興味深く読みました。
2つめの和辻倫理学については、ちょうど岩波文庫で彼の『倫理学』(全4分冊)が刊行中であるだけに、これまた興味深い論点がたくさんありました。和辻哲学をどう批判したらよいか、という点では、本当に参考になります。
そのなかでも面白いと思ったのは、和辻『倫理学』の歴史性についてです。
『倫理学』は、もともと上中下の3巻で刊行されたのですが、上巻の刊行は和辻が東大文学部倫理学講座の教授に就任した直後の1937年(昭和12年)。中巻は戦中の1942年(昭和17年)に刊行され、下巻は、戦後、公職追放をまぬかれた和辻が東大を定年退職する1949年(昭和24年)に出されています。要するに、『倫理学』自体が、一時に書き上げた著作なのではなく、歴史を含んでいるという訳です。とくに、昭和初期と戦後というまったく異なる時代状況のもとでの論述が、同じ著作のなかに併存・同居しており、さらに、戦後の版では、和辻自身がかつての叙述を修正した部分もあります。したがってそれらをきちんと読み解いてゆかないと、戦前において和辻倫理学がはたした役割を理解することはできません。
付言すれば、岩波文庫版は、『和辻哲郎全集』(岩波書店、1990年、3刷)を底本としており、さらに、もとの上中下3巻構成を、章の区分とは無関係に4分冊に分割するという“離れ業”をやっているため、このような歴史的な読み方ができにくくなっています。その上、文庫版の凡例では、中巻の戦前版、戦後版の異同については、「底本で報告されているかぎりで注記した」とされているにもかかわらず、子安氏が本書184ページで紹介している部分(もちろん戦後版では修正された箇所)については、何の注記もない――そういう問題もあります。つまり、知らなければ、戦後に修正された言説を、そのまま戦中期に書かれたものだと思いこんでしまうような「構成」になっているのです。
子安氏は、このような「部分的修正だけで戦後世界にも流通しうる性格をもっている」こと自体が、「和辻倫理学の再検討を要請している」と指摘しています(186ページ)が、まったくもってその通りです。
ということで、和辻の『倫理学』も買い込んできて、これから読んでゆくことにします。
【書誌情報】著者:子安宣邦/書名:日本ナショナリズムの解読/発行:白澤社/発売:現代書館/刊行年:2007年3月/定価:本体2400円+税/ISBN978-4-7684-7920-9
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