宮地正人『幕末維新期の社会的政治史研究』

宮地正人氏の『幕末維新期の社会的政治史研究』から、とりあえず主だった論文を読み終えました。

宮地氏の明治維新史研究は、あとがきで「それまでの明治維新史研究では、私としては理解困難だった諸点の解明を通じての、自分なりの政治過程の論理的把握」と書かれているように、いわゆるオーソドックスな明治維新史からみると、かなりユニークです。しかも、過激なほどに「社会的政治史」に絞り込んで、明治維新の政治過程を描かれています。

本書に収められている論文でも、そうした圧縮された宮地流明治維新論が展開されています。

第1章 幕末維新期の政治過程(初出「幕末維新期の国家と外交」、『講座日本歴史 近代1』東大出版会、1985年)
第2章 幕末維新期の若干の理論的諸問題(「維新変革と近代日本」、『シリーズ日本近現代史1』岩波書店、1993年)
第7章 維新政権論(『岩波講座 日本通史』)
第8章 廃藩置県の政治過程――維新政府の崩壊と藩閥権力の成立(『日本近代史における転換期の研究』山和香出版社、1985年)

で、これらに書かれた宮地流明治維新論をまとめたいのですが、まともに近代史を勉強したことのない僕には、かなり荷が重い作業です。

第1章 幕末維新期の政治過程

問題設定

 維新変革とは、きわめて単純化していえば、1853年ペリー来航以降、急速に全国民の前にその軍事的・政治的な無能力さが暴露されていった幕藩制国家(その中核には強力な「将軍=譜代結合」の政権が存在していた)にかわり、どのような諸勢力・諸集団の政治的編成(=政権)のみが、欧米諸列強の軍事的・政治的・経済的な圧力に耐え、国家として対等なかたちできまわて権力政治的構造をもつ東アジア国際政治の渦中で伍していけるのかをめぐっての、諸政治集団間の激しい諸闘争の総過程にほかならない。そして、このような力量を有するようになった政権のみが、国内的に国民を支配する国家的権威を確実につかみとることができるのである。(同書、27ページ)

 欧米諸列強が迫ってきた1850年代の日本の特徴。(27ページ?)

  1. 全国市場を前提とする光度に発達した封建国家・社会。異文明との接触・反発を直接的契機とした国学的・国体論的な民族・国家意識の成立。
  2. 幕藩制国家の被支配階級である農民階級の強烈な土地保有意識と、非法な支配をはねのける社会的力量。支配階級の軍事的弱体化・国家統治の無能力さにたいする批判と、支配階級による負担転化を許容せず。「歴史の交代作用」への「歯止め」。上層部分である豪農層の積極的参加。新しい国家形成のファクターに。
  3. 幕藩制国家=軍役体制を根幹とした常備軍制度を前提として成立する国家。したがって幕府の軍事的無能力さの露呈は致命的なものに。支配階級としてのサムライ階級の自己意識。「外圧→国内体制の弱体化→外国の要求の全面受容」を受け入れることは自己否定になる→武士意識の異常な高揚、新しい軍事体制確立への必死の摸索、軍事改革派へのダイナミックな党派形成。

1858(安政5)年6月 軍事的敗北の恐怖から、幕府が勅許を得ずに条約調印。
→「公儀」の力量の実態を天下に暴露。翌59年の3港開港、貨幣投機、幕府の貨幣改悪、物価騰貴。1861年のロシアの対馬占領など、幕府の国家的無能力さ。
→政治的テロリズムによる切り抜け(「安政の大獄」)。
→桜田門外の変(60年3月)、東禅寺事件(61年5月)、坂下門外事件(62年1月)。

封建支配階級の内面的合意が存在せず、内部対立が激化。「将軍=譜代結合」による正面突破政策の挫折と破綻。
条約勅許拒否をつらぬいた孝明天皇の政治的地位の急浮上。朝廷を軸とした外圧に抗しうる「強力国家」構想の登場。

→1862年4月、島津久光の挙兵上京、勅命を得ての国事周旋(←幕府側からみれば、明瞭な国家的反逆行為)。

久光のねらい→「将軍=譜代結合」を、朝廷の権威を擁して破壊すること。強力な朝権の確立、朝廷の圧力による一橋慶昭の将軍後見職への就任、政事総裁職の新設と同職への松平春嶽の就任、国持大名勢力の新政権への積極的参画。

しかし、久光の意図に反して、大名制の枠を取り払った武士階級および草莽層と朝廷との直接結合。
長州藩に典型的なかたちでみられる武士階級・草莽勢力の軍事改革派としての台頭。幕府的「武備充実」論との決別。それにかわって、破約攘夷→臨戦体制の設定→敗戦をふくむ軍事的激変の惹起→国内政治体制の変改→朝廷を中軸とする新たな政治的・軍事的支配体制の摸索という見通しの提起(31ページ)。全面的対外臨戦体制の発動→奉勅攘夷、軍役動員権能。そのための京都での策動。

1962年段階での幕府の選択肢

  1. 奉勅攘夷体制を強化し、上洛・財政等で朝廷尊崇の諸手段をとることにより、朝廷との結合を深め、朝廷と大名・武士階級とのあいだにおいて、征夷大将軍という軍事統帥権をあくまで確保しつづけるか
  2. 征夷大将軍職を辞し、他の大名と同等の資格の大名となって(ただし800万石の最大の大名として)、朝廷を中軸とし、公的意志を創出しうる新政治体制をつくるか
  3. 幕政改革そのものに反対し、「将軍=譜代結合」の復元力によって、もう一度みずからの意志を「公儀」として朝廷に押しつけることができるかどうか。

 幕府内部での激しい対立をへつつ、結果的には<1>の線が実現されてゆく。(31ページ)

1862年閏8月の京都守護職の創設。京都守護職は、たんなる京都所司代の補強物ではない。強力な軍事力をもつとともに、所司代・京町奉行をはじめとする畿内幕府諸機関と諸大名に独自の命令権と非常時大権を有し、また老中の指揮下に入らない、半ば自立して幕府権能の主要部分を京地に分有する特異な期間。幕府を介さない朝廷との直接的結合、朝廷からの頻繁な指揮・命令受領。幕府との関係を保持したままの、「朝臣」化のケース。

しかし、幕府責任者たちは、軍事的責任をすべて負わされることへの恐怖から、1863年5月、総辞職。そこで、一橋慶喜は、破約攘夷は無理だが、横浜鎖港なら努力するという方向に幕政を誘導。

1863年8・18クーデター。孝明天皇が、長州派の武士と公卿を追放。

日本は、三条らを擁立する長州藩を半独立的存在とする「分裂国家」のかたちをとることになる。(33ページ)

同年12月、国事集会所を設置。久光、春嶽、山内容堂、伊達宗城らが参与に。有志大名層の動き。
これにたいして、一橋慶喜の課題。

  1. 有志大名層の天皇・調停を中軸とした国家構想を破産させること。
  2. その一方で朝廷により接近し、「将軍=譜代連合」から距離を置きつつ、自らの自由な行動半径を拡大する。一種の「朝幕京都政権」の樹立。より完成したかたちでの「朝臣」化。「一・会・桑」政権の形成。
  3. 対外強硬姿勢を横浜鎖港政策に結びつけること。全国的な奉勅攘夷は無理だが、幕府だけが関与できて、なおかつ江戸周辺の天領である横浜鎖港ならおこないうる。ただしあくまでも外交交渉での解決。

1864(元治1)年4月の勅命。<1>幕府に委任、<2>横浜鎖港、<3>代替わりごとの将軍上洛。

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