懐かしい…

「朝日新聞」のサイトにこんな記事がでているのを教えていただきました。

松蔭の制服も懐かしいですが(といっても、僕が松蔭に通っていた訳ではありませんが)、この駅は、中学・高校の6年間、毎日、朝と夕方に「通過」していました。乗り降りしたことは、ほんの数回。隣の駅は、さっさと高架になってしまいました。さらに隣の駅も、モノレールとの乗換駅として、すっかり変わってしまいました。そんななかで、30年以上前のまま、木造の駅舎、アーチの飾り窓も残っていたんですね。乗降客が上り下りする度に、ごとごとと足音が響く古びた跨線橋も記憶に残っています。

たしか阪神大震災のときは、この駅前に大きなテント村ができていました。

老駅舎 万感の「定年」 JR神戸線・灘駅(朝日新聞)

老駅舎 万感の「定年」 JR神戸線・灘駅
ぷらっと沿線紀行(14)
[asahi.com 2007/07/14]

 2階分はあろうかという高い天井。改札口上の美しいアーチ形の飾り窓から、柔らかな外光が降り注ぐ。振り返ると、入り口の上にも同じ窓。19世紀末に欧州で流行したモダンなデザインだという。小さなコンコースでは、白い夏服の女子高校生たちが、楽しげにおしゃべりをしていた。
 JR神戸線、灘駅の北口駅舎は、1923(大正12)年に完成した、阪神間ではJR最古の現役木造駅舎だ。
 「奇跡の駅舎」でもある。
 「ほんまに何にもなくなってたわ」。地元の自治会長で萩原珈琲相談役の萩原恒雄さん(80)は1945(昭和20)年10月、復員して灘駅に降り立った。この年、たび重なる米軍の空襲で駅前の商店街は壊滅し、萩原さんの自宅兼店舗や浜側の駅舎も焼け落ちた。
 だが、山側の北口駅舎は無事だった。「(38年の)阪神大水害の時も無傷やった。今から考えても奇跡的やなあ」
 95年の阪神大震災でも、激震に耐えた。駅前商店街で骨董(こっとう)店を営む新井みきさん(60)は駅前の駐輪場で5カ月間テント暮らしをした。「照明の電源は駅舎から。炊き出し用炊飯器のコードも改札口のコンセントを使わせてもらった。駅舎には随分と世話になりました」
 地元の人たちに愛されてきた駅舎が、ほかならぬ地元の人たちの要望で間もなく姿を消す。

■84年間「いつもそこに」

 古い駅は、南北の街を隔てる障壁でもあった。
 南側は「神鋼のまち」だった。1960年代、南に延びる道路の先に工作機械などを生産する岩屋工場があった。神戸製鋼所の役員も務めた加集慎二さん(67)は「出勤時は駅から会社まで従業員で数珠つなぎでした。小さな改札口を抜けるのにいつも行列ができた」と懐かしむ。
 駅前ですし店を営む竹内哲彦さん(64)は60年代後半の忙しさが忘れられない。本社や工場に1日100件以上の出前をこなした。「神鋼さんが風邪をひいたらウチらは肺炎になる、いうてました」
 93年に閉鎖された岩屋工場の跡地には、1万5千人が住む「HAT神戸」と呼ばれる新しい街ができた。阪神大震災の経験の承継を目指す防災施設「人と防災未来センター」や県立美術館のほか、大型商業施設などがオープンし、活況を見せる。
 一方、山側は兵庫県立神戸高校や松蔭中学・高校などが点在する文教地区。動物園もある王子公園も近く、平日は学生や生徒たちで、休日は親子連れらでにぎわう。
 二つの地区は、地上駅の灘駅で南北に分断されている。駅を中心に数百メートルは人も車も行き来できない。
 「橋上駅にして自由通路ができれば、便利になるし駅前もにぎわう」。地元自治会が10年ほど前から集め始めた署名は3万5千人分に上り、昨年3月に建て替えが決まった。

    ◇

 「震災の時のリュックサック。真っ暗な夜を忘れはしない。駅舎はいつもそこにあった」
 昨年9月24日、地元出身のシンガー・ソングライター、下村明彦さん(54)の歌声が広場にこだました。灘駅のためにつくった「駅舎」だ。
 自治会や若手建築家らのグループなどが手弁当で開いた「お別れ会」。約1500人が集まった。駅舎ツアー、朗読会、撮影会……。午後3時半に始まり、午後8時を過ぎても立ち去る人は少なかった。
 仕掛け人の一人、慈(うつみ)憲一さん(41)は震災を機に東京から戻った。区主催の観光振興キャンペーン「灘百選」の事務局長を引き受けるなど、地震で痛めつけられたふるさとを元気にしようと取り組むうち、灘駅の価値に気づいた。「保存を……」と言いたかったが、地元の人たちの願いもまた、よくわかった。
 「お別れ会は、駅舎をみんなの記憶に残す手だてやったんです」
 15日午前1時、駅舎は84年間の役目を終える。西明石行き下り最終列車の改札が最後の仕事になるはずだ。2年後には近代的な橋上駅に生まれ変わる。

    ◇

 もう一度、駅の中を歩いてみた。上下線のホームを結ぶ木造の跨線(こせん)橋の骨組みや、ホームの屋根を支える柱は、古いレールを再利用したものだ。下りホームの階段裏の「元レール」には、製造年を表す「1897」の刻印があった。1世紀を超えてなお支え続けている。歩くたびにギシギシとなる階段さえ、懐かしく、いとおしい。
 新しい駅は、どんな記憶を人々の胸に刻むのだろうか。

鉄っちゃんの聞きかじり<臨港線廃線跡>

 JR灘駅の東側に、線路の敷地の幅が大きくふくらんだ東灘信号場がある。かつて貨物駅があった場所だ。1907年の開業当初は灘駅と称していたが、現在の灘駅ができたため、東灘駅に改称された。ここから神戸港の小野浜駅(39年に統合されて神戸港駅)に延びていた貨物専用線が神戸港臨港線。28年には湊川貨物駅まで延伸された。
 だが、物流の主役はトラックやトレーラーに移り、鉄道による貨物輸送は減少。湊川貨物駅は再開発されて「神戸ハーバーランド」になった。臨港線はJR貨物の路線となったが、2003年12月に廃線となった。今でも灘駅南側で、レールが残されたままの線路跡を見ることができる。
 神戸市は臨港線跡を遊歩道にする計画を進めている。第1期工事は灘駅南側から阪神電鉄春日野道駅付近までの1キロを整備し、08年度中の完成を目指す。

探索コース

 JR灘駅から山側に約500メートル歩くと、かつて「原田の森」と呼ばれた王子公園。この地にあった関西学院のチャペルを改装し、神戸ゆかりの文学作品、作家の遺品を集めた神戸文学館が昨年開館した。21日から企画展「灰谷健次郎の世界」を開く。無料。水曜休館。王子公園南東にある7商店街3市場の計450店が軒を連ねる通称「水道筋商店街」を巡るのも楽しい。

小学校へ上がったばかりの頃、西宮市に住んでいる従兄弟の家に泊まりにゆくため、兄弟だけで電車に乗って行き、途中、この駅で止まったときに、ひどく古ぼけた駅だったのでちょっと怖かったことも覚えています。

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