昭和天皇がA級戦犯合祀にたいして、「社の性格が変わる」「禍根を残す」との懸念を表明していたことが明らかに。
昭和天皇が靖国神社へのA級戦犯合祀に賛成しなかったことは、すでに侍従長の日記などから明らかにされている。今回の資料は徳川侍従長からの伝聞ではあるが、侍従長の記録の確度がさらに高まったといえる。
大事なことは、天皇が賛成か反対かではなく、日本国民1人ひとりが、A級戦犯合祀が平和国家としての再出発を約束したこの国で本当に許されることなのかどうかを考えることだ。
A級合祀「禍根残す」 昭和天皇が懸念
[中国新聞 2007/8/4]▽「靖国の性格変わる」、元侍従長、歌人に明かす
靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に対する昭和天皇の考えとして「戦死者の霊を鎮めるという社(やしろ)の性格が変わる」「戦争に関係した国と将来、深い禍根を残すことになる」との懸念を、故徳川義寛(とくがわ・よしひろ)従長が歌人の岡野弘彦氏(おかの・ひろひこ)(83)に伝えていたことが三日、分かった。
昭和天皇がA級戦犯合祀に不快感を示していたことは、富田朝彦(とみた・ともひ)元宮内庁長官のメモなどで判明しているが、具体的な理由までは明らかになっていなかった。A級戦犯合祀をめぐる論議にあらためて一石を投じそうだ。
合祀への懸念は、昭和天皇の側近トップだった徳川元侍従長が一九八六年秋ごろ、昭和時代から皇室の和歌の指導に当たってきた岡野氏に明かした。岡野氏も昨年末にまとめた昭和天皇の和歌の解説書「四季の歌」の中で触れている。
岡野氏によると、徳川元侍従長が昭和天皇の和歌数十首について相談するため、当時岡野氏が教授を務めていた国学院大を訪れた。
持ち込んだ和歌のうち八六年の終戦記念日に合わせて詠んだ「この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし」という一首が話題になり、岡野氏が「うれひ」の内容を尋ねると、徳川元侍従長がA級戦犯合祀に言及。「お上(昭和天皇)はA級戦犯合祀に反対の考えを持っておられた。理由は二つある」と切り出した。
その上で「一つは(靖国神社は)国のために戦に臨んで戦死した人々のみ霊を鎮める社であるのにそのご祭神の性格が変わるとお思いになっておられる」と説明。さらに「戦争に関係した国と将来、深い禍根を残すことになるとのお考え」と明言したという。
元侍従長は「こうした『うれひ』をはっきりお歌になさっては差し障りがあるので少し婉曲(えんきょく)にしていただいた」と歌の背景を話したという。
靖国神社をめぐっては、前年の八五年八月十五日、中曽根康弘首相(当時)が閣僚とともに公式参拝。中国などの反発を招き、翌八六年八月の参拝を見送った経緯がある。
昭和天皇は戦後、靖国神社を八回参拝したが、A級戦犯合祀が明らかになる前の七五年十一月が最後だった。現在の天皇陛下は即位後、参拝していない。