全国各地の「九条の会」の活動をつたえるニュースをインターネットから拾い集めました。
写真=いしがき女性9条の会のメンバーが「八重山における従軍慰安婦の歴史」を学習(八重山毎日新聞)
- 8月14日の「難死」:編集局デスク(中日新聞 8/11)
- 東伊那の小池勤さん(伊那毎日新聞 8/13)
- 従軍慰安婦の歴史学ぶ 女性9条の会(八重山毎日新聞 8/14)
- 平和に願い込め灯ろう流し 越谷・葛西用水に400個(埼玉新聞 8/14)
- 金沢の寺院で平和を願っての鐘つき(北陸朝日放送 8/15)
- 戦争体験を学ぶ会:対馬丸児童引率の元教諭、切々と体験語る――小山/栃木(毎日新聞 8/15)
- 終戦の日 静岡県民、思い交錯(静岡新聞 8/15)
- 終戦記念日:湯沢市、新市の「非核・平和都市宣言」/秋田(毎日新聞 8/16)
- 終戦記念日:金沢・10寺院、祈り込め「平和の鐘撞き」/石川(毎日新聞 8/16)
- 戦争を語りつぐつどい:87歳矢野さん、戦地に出向いた教え子について語る/高知(毎日新聞 8/16)
それから、「北海道新聞」が8月15日付で、「九条の会」が全国で7000を超えて結成されていることに注目した社説を掲載しています。
【編集局デスク】8月14日の「難死」
[中日新聞 2007年8月11日]その訃(ふ)報は、参院選で自民党が惨敗に沈んだ未明に飛び込んできた。私の胸に浮かんだのは、彼の人なつっこい笑顔と口癖の言葉だった。
「人間は、みんなチョボチョボや」
小田実(まこと)さん。『何でも見てやろう』で一躍、ベストセラー作家となり、ベ平連を結成してベトナム反戦運動の先頭に立った。最近も、改憲に反対する「九条の会」をつくるなど、一貫して反戦・護憲の立場から行動し続けた。
作家の枠を超えた、エネルギッシュな行動力。その底には常に、チョボチョボ精神が流れていた。人間には上も下もない。誰かて同じようなもんやで。一人の庶民に徹した視線は、生涯揺らぐことがなかった。だからこそ、あれほど共感を呼んだのだろう。
こうした小田さんの原点は「昭和20年8月14日」にある。終戦記念日の15日ではなく、その前日なのだ、と彼自身繰り返し語っていた。
14日午後、大阪は最大規模の空襲を受け、多数の人々が殺された。黒焦げの死体の間を逃げ惑い、九死に一生を得た中学1年の小田少年は、B29爆撃機がまいたビラを拾う。「お国は降伏し、戦争は終わりました」。20時間後に玉音放送があった。
戦争が既に終わっていたなら、人々は一体何のために死んだのか。美しい「散華(さんげ)」とは対極の、無残な虫ケラの死ではないか。皇国少年だった彼は、怒りにうち震えた。
この一方的に殺された、おびただしい無意味な死を、彼は「難死」と名付け、ここから「人間は殺されてはならない」と訴え続けたのだった。
「『難死』は私の胸に突き刺さる。戦後、私はその意味を問いつづけ、その問いかけの上に自分の世界をかたちづくって来た」と彼は述べている(『難死の思想』)。
訃報は、居座りを決め込んだ安倍首相への警鐘だったのかもしれない。「戦後レジームからの脱却」という野望には、戦前回帰の危うさがこびりついているからだ。
また「8月14日」がやって来る。小田さんが私たちに残してくれたメッセージを、チョボチョボの人間として、あらためてかみしめたい。
(名古屋本社編集局長・加藤 幹敏)
東伊那の小池勤さん シベリア強制抑留体験から、9条の会で活動
[伊那毎日新聞 2007/8/13]「カラカラーン。冷凍になった同朋の遺体を仮設の屍室に投げこむ時の音。あれから60有余年経った今でも、その時の夢にうなされる」と、語るのは駒ケ根市東伊那の小池勤さん(84)
小池さんは1923年東伊那に生まれ、尋常高等小学校卒業後、8年間、大工の修業をし、召集され、満州に渡った。
45年8月ソ連戦車隊の爆撃に遭い、陣地は破壊され軍はバラバラ、食糧の補給は途絶え、ボーフラの湧いた水溜まりの水をすすり、サルノコシカケで命をつないで、本部を目指して後方に移動した。
大けがをし傷口からウジがわいている同胞や、ぼろ布のように路傍でうずくまり、救いを求める人も置き去りにして「今度はおれの番か」と何度も思いながら、死の行軍の果て、ソ連兵に投降し、捕虜になり、平安の格納庫に収容された。
張り詰めていた糸がプツンと切れるように、栄養失調や赤痢で多くの同朋がバタバタと亡くなった。
平安を後に、ソ連兵に追いたてられ、アムール河を渡り、ブエゴエスチンクスに着いたのは11月の初め、シベリアはすでに厳寒期だった。
病気と栄養失調の体で、シベリアの極寒に耐えられるはずもなく、毎日、何10人かが亡くなった。衣類は剥ぎとられ、カチカチに凍り、白蝋のように変わり果てた屍は、木材でも扱うように無造作に仮設屍室に放りこまれた。カラカラーン、カラカラーンと異様な響きが耳に突き刺した。
さらに貨物列車に乗せられ、46年1月にシベリアの最奥地ヤクドニヤの捕虜収容所に移され、毎日、「ダワイ、ダワイ(早く、早く)」と苛酷な強制労働に駆り出される抑留生活が始まった。
使役は2人引きのノコギリで薪の伐採作業、ふらつく体での重労働、少しでも休むと、銃をつき付けられた。体感温度は零下50?60度、気を付けないと、顔や鼻、足の先はすぐに凍傷になってしまう。
2カ月ほどで、大工の腕が見込まれ、ウルガル方面に移動、建物の建設や橋の架橋工事に従事し、作業中、足を滑らし、大けがをし、病院に入院した。回復すると病院勤務を命ぜられた。病院に日本人の入院患者がいなくなると同時に、4年間の抑留生活から開放され、49年8月28日に大郁丸で帰国した。
現在、小池さんは「駒ケ根9条の会」の会員であり、機会あるごとにシベリア抑留体験を語っている。「今もシベリアの永久凍土の下に放置されている同朋のことを思う時、2度と戦争を起してはならない、戦争の悲惨さを語ることが、体験者の責務。生きている限り、語り継ぎ、平和憲法を護る活動をしたい」と話す。
従軍慰安婦の歴史学ぶ 女性9条の会
[八重山毎日新聞 2007-08-14 09:39:24]慰安所跡や戦跡訪ねる
「いしがき女性9条の会」主催の「見て、学ぼう八重山における従軍慰安婦の歴史めぐり」が12日午前9時から行われ、会員ら約30人が参加して市内数カ所の慰安所跡や戦跡を訪ねた。
「従軍慰安婦問題」をめぐっては、先月30日に米下院本会議が日本政府に公式謝罪を求める決議案を可決するなど、歴史の事実がゆがめられる動きもあることから、事実を見過ごすことのないよう歴史や背景の知識を深めようと行われた。
長年、八重山の戦争について調査している大田静男氏(石垣市教育委員会文化課課長)が講師を務め、戦時中の八重山での慰安所や慰安婦の実態や背景について説明した。
1942年ごろから八重山でも軍隊の進駐とともに、石垣島や離島に慰安所が設置されたようで、大田氏は「聞き取りをもとに調査を継続しているが、八重山の慰安婦の数や慰安所の設置、管理、国籍など資料は不明。生存者の証言も無視され、国家権力の都合で右往左往させられる。事実を見極める目を養わないと今に大変なことになる」と話していた。
このあと、市内石垣や川平、平得山根牧場北側、白水などの慰安所のあった場所をバスで巡った。
平和に願い込め灯ろう流し 越谷・葛西用水に400個
[埼玉新聞 2007年8月14日(火)]越谷市の市役所前を流れる葛西用水の水辺で11日、市民団体による「平和を願う音楽と灯ろう流しの夕べ」が行われ、市民約1200人(主催者発表)が参加した。
午後4時過ぎから、アマチュア楽団による演奏が始まり、日暮れとともに約400個の灯ろうが流された。願い事など思い思いのことを書いた灯ろうが夜の水辺に静かに流れていった。
春日部市の武里団地から来た佐々木さやかさんは「平和憲法に守られた私は幸せです」と書いた。越谷市南荻島の木村桃子さんは「みんなが平和でにこにこ笑って暮らせますように」。
2人は、市内の幼稚園のプールで障害のある人たちのために水泳のインストラクターをしているという。杉戸農高で野菜のバイオ技術を学ぶ木村さんは「このイベントが九条の危機を考えるきっかけになりました」。
主催は、いまの平和憲法を守りたいと願う超党派の人々の「越谷九条の会」の人たちが呼びかけた実行委員会(代表は石河秀夫弁護士)。
昨年8月に第1回が行われ、今年で2回目。実行委員会の1人、東越谷の元中学校教師、島根皓夫さん(64)は「隣近所で誘い合って来てくれた人もいた。地域に根付いたイベントになったと思う。大成功です」と話していた。
金沢の寺院で平和を願っての鐘つき
[北陸朝日放送 2007年8月15日 17:03]62回めの終戦記念日です。金沢市内の寺院では、市民グループが平和を願って鐘をつきました。この催しは、憲法9条の存続を訴える金沢市の市民グループ「寺町台9条の会」が去年に続いて企画しました。金沢市寺町の妙法寺には近くの住民らおよそ80人が集まりました。会の代表幹事を務める宮江伸一さんは、「憲法9条は日本の宝、世界の希望であり、この大きな宝を手放してはならない」と訴えました。その後、参加者は金沢市寺町と野町の10の寺に分かれて、62年前玉音放送が流れた正午に合わせて一斉に鐘をつきました。「9条の会」では子供たちを戦場に送らないため、「平和の鐘つき」を毎年続けていきたいとしています。
戦争体験を学ぶ会:対馬丸児童引率の元教諭、切々と体験語る――小山/栃木
[8月15日12時1分配信 毎日新聞]◇「話すことで供養を」
波間に消えた教え子たち――「話すことで供養したい」。1944年8月22日に起きた「対馬丸」事件。米軍潜水艦に撃沈され、疎開児童ら約1400人が死亡した。生き残った引率教員が、戦後62回目の夏、つらい体験を語った。【佐野信夫】市民団体「小山・九条の会」が11日、小山市内で開いた「戦争体験を学ぶ会」に、引率教員だった沖縄県出身の新崎美津子さん(87)=大平町=が出席した。対馬丸事件の体験を絞り出すように語った。
魚雷攻撃の衝撃、船倉に取り残されたり波間に浮かぶ教え子たち、自身もいかだで4日間漂流した。そして奇跡的な救出。55年に医師の夫と県内に転居後も、教え子を失った自責の念からつらい体験を抱え続けた。自分が生きていることに苦しみ、慰霊祭にも出席できず、「地平線の下で生きていく思い」でいた。
10年ほど前に沖縄の新聞記者から取材を受けたのをきっかけに、「漂流して生きた」などと家族に話し始めた。
「子供たちのことを冷静に考える時代が来た。逃げ隠れして悪かった。このままでは子供たちがかわいそう。許してもらい供養に力を入れたい。多くの人に聞いてもらうことが供養になる」と、昨年から体験を語り始めた。
講演後、新崎さんは「暗かった気持ちに、少し明かりが差してきた」と話した。同席した長女の上野和子さん(60)は「六十数年間忍んで生きてきた母だが、証しを残してもらうことが家族の思い。心の氷の塊はまだ大きいが、少しずつ解けているのを感じる」と話した。■ことば
◇対馬丸事件
対馬丸記念館によると、44年のサイパン陥落により沖縄が米軍の爆撃対象になったのを受け、非戦闘員の島外への疎開が始まった。8月21日、対馬丸は疎開学童ら約1800人を乗せ長崎を目指したが、22日夜、鹿児島県・悪石島沖で米軍潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没した。ほとんどの乗客は船倉に取り残され、犠牲者数は学童775人を含め1418人。船団は5隻だったが、対馬丸は老朽貨物船で航行速度が遅く潜水艦の標的になった。
終戦記念日:湯沢市、新市の「非核・平和都市宣言」/秋田
[8月16日11時3分配信 毎日新聞]終戦記念日の15日、湯沢市が新市の「非核・平和都市宣言」をした。本庁舎正面玄関に設置した非核・平和都市宣言パネルを前に、市民らが正午の時報で黙とうし、鈴木俊夫市長が宣言文を読み上げた。湯沢生涯学習センターでは17日まで、平和写真展が開かれる。
市によると、それぞれ宣言都市に名を連ねていた湯沢雄勝地域旧4市町村が05年3月に合併し、どう継承するかを検討していた。06年6月市議会が、市民団体「九条の会ゆざわ」が提出した陳情書「平和都市宣言の標榜(ひょうぼう)について」を全会一致で採択したのを踏まえ、宣言文を調整していた。【佐藤正伸】
終戦の日 静岡県民、思い交錯
[静岡新聞 2007/08/15]小泉純一郎首相(当時)が靖国神社を参拝した昨年の8月15日から1年。今年の靖国神社は安倍晋三首相と閣僚が参拝見送りの意向を示す中で62回目の終戦記念日を迎えた。前防衛相の原爆「しょうがない」発言、A級戦犯合祀(ごうし)に対する昭和天皇の懸念を伝える証言の判明など、今年も戦争の評価に直結する出来事が相次いだ。揺らぎ続ける8月15日。県内でもさまざまな思いが交錯した。
会員約210人と全国戦没者追悼式に臨んだ鈴木和夫県遺族会会長(81)=袋井市=。「今の政治情勢の中では騒いでもどうにもならない」と安倍首相らの参拝見送りを淡々と受け止めながら、「参拝の気持ちを持っているのは分かる」と首相の心情をおもんぱかる。
静岡空襲犠牲者と墜落したB29搭乗員の日米合同慰霊祭を営み続ける医師菅野寛也さん(74)=静岡市葵区=は「信念がない」と参拝見送りでほぼ足並みをそろえた閣僚の姿勢を嘆く。一方で「戦勝国が裁く中での『A級戦犯』には異議があるが、戦争に踏み切った当時のリーダーには国民への責任がある」との持論を前提に「戦争責任者という意味での分祀」をすれば「天皇も首相も何はばかることなく参拝できる」と考える。
平和の旅として26日に靖国神社を訪ねる「奥浜名湖九条の会」の山下剛司代表(67)=浜松市北区=は参拝見送りを「平和国家を崩そうとする流れへの国民の怒りが年金など身近な問題と結びつき、参院選で自民党が惨敗したのが大きな要因となった」とみる。8月15日は「父親らの無念を確認し、平和な時代への決意を新たにする日」。今年も静かに黙とうをささげた。
「戦争に関するドラマや本に触れた直後は真剣に考える。でも日常に戻ると忘れてしまう」。静岡文化芸術大1年の伊藤菜摘さん(18)=浜松市中区=はもどかしさから「8月は戦争を身近に感じる機会に」と祖母の話に耳を澄ます。「戦争を過去にしたくない。身近な人の話、ニュースから考えたい」と心に決める。
終戦記念日:金沢・10寺院、祈り込め「平和の鐘撞き」/石川
[8月16日13時3分配信 毎日新聞]◇護国神社では戦没者追悼式、遺族ら210人参列
太平洋戦争の終戦から丸62年となる15日、金沢市内で、戦争犠牲者を追悼したり、平和を願う集会が開かれた。【高橋慶浩、泉谷由梨子】金沢市寺町4の妙法寺など近隣10寺院では、同町住民らで結成した「寺町台・九条の会」主催の「平和の鐘撞(つ)き」があった。昨年に続き2回目。賛同者約90人が妙法寺境内に集合し、同町1の吉岡東和さん(72)が「戦争はしない、子どもたちを戦場に送らないとの決意を込め平和の鐘をつきます」と宣言した。
その後、賛同者らは自分の住む地域の寺院などに再集合。正午には各寺の鐘つき堂に並び、「戦争は嫌だ」など決意を声に出して、代わる代わる鐘をついた。参加した同町2の村田和子さん(67)は「『戦争しない』という憲法ができた時、子供ながらにうれしかった。戦争を知らない人が増えていくからこそ活動を続けたい」と話した。
一方、同市石引4の石川護国神社では、首相の靖国神社公式参拝を求める「英霊にこたえる会」(東京都千代田区)石川県本部主催の県戦没者追悼平和祈願祭があり、遺族ら約210人が参列した。戊辰戦争以降の戦死者4万4888人を慰霊する祭礼で44回目。来賓には馳浩衆院議員ら自民党国会議員に交じって、民主党の前衆院議員、奥田建氏の姿もあった。
参列者は玉ぐしを拝礼後、正午の時報に合わせて黙とう。同本部の松井吉二(きちじ)会長は「62年が経過したが、生きている我々が大戦から学んだ教訓を風化させることなく、粘り強く伝えていくべきだ」とあいさつした。
馳衆院議員は「例年参加しているが、谷本正憲知事を見たことがない。県民の一人として代理でなく本人に追悼の言葉を読んでもらいたい」と注文を付けた。
戦争を語りつぐつどい:87歳矢野さん、戦地に出向いた教え子について語る/高知
[8月16日13時3分配信 毎日新聞]62回目の終戦記念日の15日、戦争体験者から話を聞く「戦争を語りつぐつどい」が、高知市の高知城ホールであった。戦時中、教師だった矢野時子さん(87)=同市若草町=が、戦地に出向いた教え子について語り「戦争を伝え、みんなで語り合っていきましょう」と、集まった約100人を前に呼びかけた。
矢野さんは、1941年に旧吾北村の小学校で教壇に立ち、夜間は青年学校で教えた。「青年学校の生徒はいずれ戦場に向かう。だから、授業は歌謡曲やゲームで楽しんだ。そうじゃないと可哀そうだった」。最後の授業の日、ある男子生徒が「どうしても死なないかんのか。嫌だ」と苦しい胸の内を明かした。これに対し、矢野さんは「震えて声も出ませんでした」と語った。
治安維持法によって言論が厳しく統制された時代。矢野さんは「ただ法を恐れ、何も正しいことを言えずに子どもを戦場へ送っていった。それが問題だったと感じている」と締めくくった。
主催した「女性『九条の会』高知」の松繁美和事務局長は「戦争体験者の生の声を聞ける体験はもう少ない。次の世代に伝えるのが私たちの使命です」と話した。【服部陽】
北海道新聞の社説は↓こちら。
【社説】終戦記念日*憲法が支える非戦の誓い
[北海道新聞 2007年8月15日]どんなにつらい体験でも、時間がたつにつれ、次第に記憶が遠のいていくのは人の常かもしれない。
だが、決して忘れられないことや忘れてはいけないことがある。それは国においても同じだろう。
日本はかつて台湾や朝鮮半島を植民地とし、多くの兵力を中国やアジアに送り、各地に膨大な犠牲を強いた。
それだけではない。国内も米軍機の空襲にさらされ、広島、長崎には原爆が投下され、多くの人々が死んだ。
きょう15日は、そうした人たちを追悼し、二度と戦争はしないとの誓いを新たにする日だ。
しかし、私たちはあの大戦から何を学んだのだろうか。昨今の世相を見るにつけ、そんな思いにかられる。戦後日本が大きな岐路に立たされている。*戦争体験の風化が心配だ
なぜそうした感覚にとらわれるのだろう。昨年9月の安倍晋三政権の発足が影響しているのではないか。
首相は「戦後レジームからの脱却」「美しい国」を掲げ、戦後日本を支えてきた教育や防衛などの枠組みに次々と手をつけた。
教育基本法の改正、防衛庁の省への昇格。専守防衛を旨とする自衛隊の本来任務に海外での活動が加わった。
国民投票法も成立した。自民党結党以来の悲願でもある改憲に道筋がついた。衆参両院に憲法審査会が設けられ改憲が現実問題となってきた。
政権内から核保有論議が飛び出し、財界からは「武器輸出三原則」の緩和を求める声が公然と出てきた。
いずれも平和国家としてのかじを大きく切ることになりかねない。
驚いたのは米国による広島、長崎への原爆投下を「しょうがない」とした久間章生防衛相(当時)発言だった。
唯一の被爆国である日本の閣僚として失言ではすまされない。罷免を拒否した首相も含めて核廃絶という国是を本当に理解しているのだろうか。
イラク派遣に反対する国民の活動を自衛隊が調査、監視していたことも明るみに出た。
前首相の靖国神社参拝を批判した加藤紘一元自民党幹事長の実家が右翼に放火されたのは一年前の今日だった。
加藤氏は何ともいえない「時代の空気」を感じるという。
戦争体験の風化が進んでいる。
戦前を知る世代から「かつての道を歩んでいるのでは」との声がしきりに聞こえてくる。語り継ぐ努力を続けることだ。あの戦争は何だったのか。家庭で学校で考える場を持ちたい。*国際貢献に軍服はいらぬ
首相のいう改憲の眼目が戦争放棄を定めた九条にあるのは論をまたない。
自民党は2005年に公表した新憲法草案で、戦力不保持と交戦権の否認を定めた9条2項を削除。代わって自衛軍の保持を明記し、海外での武力行使を認めている。
首相が意欲を見せる集団的自衛権行使の容認が加わるとどうなるだろう。
米軍と自衛隊の一体化が急速に進む現状と考えあわせると、米国の国際戦略に組み込まれた自衛隊が海外で米軍と戦闘行動を共にすることになる。
それを国際貢献のためというのなら国民感情とかけ離れてはいまいか。
国連の一員として、また平和を希求する国として医療や福祉、農業や土木建築分野などで日本が世界に貢献できる道はいくらでもあるはずだ。
九条のおかげで何度も命拾いをした?。アフガニスタンで長年、かんがい事業や医療奉仕をしてきた医師の中村哲さんがそう記している。
九条を知らなくても「戦争を仕掛けなかった平和な国・日本」のイメージが現地で定着しているというのだ。
自衛隊は戦後、海外での戦闘行動に加わらず、1人の戦死者も出さず、1人の外国人も殺さずにすんだ。
自衛隊のイラク派遣の任務が「人道復興支援」にとどまり、時の首相が「自衛隊の行く所は非戦闘地域だ」と強弁せざるを得なかったのも、9条2項が歯止めになったからだ。
戦火やまぬ国際社会で九条が持つ「非戦」の意義が増している。武装部隊を送るのではなく、この国ができる道を模索することが先決ではないか。*9条の理念を誇りにして
9条を守ろうという動きがいま全国各地に広がっている。
2004年に作家の大江健三郎さんや哲学者の梅原猛さんらが提唱した「九条の会」は7000団体を超えた。地域や家族、職場単位の多様なグループが映画会や講演会などを開いている。
このままでいいのだろうかとの危機感が子を持つ親や、あの時代を知る人たちを行動に駆り立てているという。
北海道新聞の世論調査でも九条支持が改憲容認者の中で増えている。
中国で終戦を迎えた経済同友会終身幹事の品川正治さんは月刊誌の対談で、復員船の中で憲法の草案を読み、戦友たちとともに泣いたと述べている。
「交戦権すら否定しすべての軍備を放棄すると、ここまで思いきって、これからの日本の生き方を決めている。これで自分たちはアジアで生きていける、仕事をしていけると感じた」
品川さんはその時の体験が戦後の自分の座標軸となったという。
この国は二度と戦争をしないと誓った。戦後62回目の終戦記念日。日本が歩んできた道を振り返りたい。
それから、↓これは「九条の会」の活動ではありませんが、「毎日新聞」の播磨・姫路(姫路)版が連載している「市井の歴史を刻む」の第2回。立命館大学名誉教授の岩井忠熊氏が、姫路出身と言うことで登場されています。
市井の歴史を刻む:「戦後62年」「憲法施行60年」/2 岩井忠熊さん/兵庫(毎日新聞 8/16)
市井の歴史を刻む:「戦後62年」「憲法施行60年」/2 岩井忠熊さん/兵庫
[毎日新聞 2007年8月16日播磨・姫路版]<伝えたい・残したい、世代を超えて>
◇一つの大きな流れができてしまうと、個人ではどうにもならない??岩井忠熊さん(84)=京都市右京区
(太平洋上の)サイパン島、テニアン島が占領され、マリアナ沖海戦が大敗北となった1944(昭和19)年10月、突然、武道場に学生が集められた。経験から言うと、こんな時はあまり良い話じゃない。少し緊張しながら、憂うつな気分で言葉を待ちました。
旧制姫路高等学校、京大を経て43年11月、「学徒出陣」により横須賀(神奈川県)の海兵団に入隊。新兵教育の後、海軍予備学生になった。武道場に集められたのは、航海士の養成学校で訓練を受けていた時だ。
案の定、学生隊長が「容易ならざる戦局を打開するため、このほど決死的兵器が発明された。その兵器に従事する者は申し出よ」と。「申し出よ」といっても、将来、家族の面倒を見なければならない長男や一人っ子は除く方針だったようです。それ以外で志願しなかった人の中には、殴られた人もいた。10人兄弟で10番目の私は「後顧の憂いなき者」の条件にぴったりです。志願して、即採用でした。
このまま航海士になっても一番危険な船橋での任務だし、同じ死ぬのなら体当たりして、確実に敵に打撃を与える方が良いという考えに取り付かれていました。
その時は「決死的兵器」と言われても分からず、後で人間魚雷「回天」や体当たり高速艇の「震洋」と知りました。軍隊は秘密主義で、人選の時は何の説明もない。大村湾に面した長崎県の川棚で、兄の忠正が「回天」、私は「震洋」の訓練を受けました。兄とは心のどこかで「これが最後か」という思いがあり、記念写真も撮りました。「回天」は小型潜水艦を操縦して敵艦に体当たりする。また、ベニヤ板製高速ボートの艇首に爆弾を装着し、敵艦に体当たりする特攻兵器が「震洋」だ。当時の様子は兄の忠正さん(87)と02年、共著「特攻」(新日本出版社)に記した。
「震洋」隊員として45年3月、沖縄本島経由で石垣島へ出撃するよう命じられ、輸送船「道了丸」で佐世保(長崎県)を出港した。
低気圧の影響で海は大しけ。ただ、緊張のせいか、それまでの訓練のせいか、船酔いは感じなかった。
しかし、奄美大島西方を航海中、米軍潜水艦の魚雷攻撃を受け、わずか40秒で沈没。「震洋」部隊の隊員187人のうち約8割の142人が命を落とした。輸送船の船橋では、当直員5、6人が交代で見張りをしますが、私は何かの都合で当直が1時間遅くなり、船室にいました。すると突然、猛烈な爆発音と衝撃。私は「死んでたまるか」と必死の思いで海に飛び込みました。幸い、沈没する船の渦に巻き込まれず、3時間以上漂って護衛艦に助けられ、九死に一生を得ました。海で冷え切った体には、エンジン室の暖かさがありがたかったです。
被雷した時の当直員は全員亡くなりました。ただ、船が無事に那覇に着いたとしても、米軍との戦闘で命はなかったでしょうね。生き残ったのは全くの偶然です。命拾いした後、川棚に戻って「震洋」訓練所の教官を務めた。45年6月、震洋隊の艇隊長として熊本県の天草に赴任、そこで終戦を迎えた。
玉音放送は直接聞かなかったのですが、その日に軍の無線電話で知りました。終戦を実感したのは数日後でしたが、何とも言えない割り切れなさと、ほっとした気持ちと、残念さが入り交じった複雑な気持ちでした。
戦前に習った押しつけがましい国粋主義的解釈の日本史に疑問を持ち、「納得のいく歴史を学びたい」と思い、復員後、すぐに大学に復学。その後約40年間、立命館大文学部の教授として学生に日本史を教えた。自分を含めた当時の日本が、なぜ愚かな戦争に進んだのか。近代の思想史、政治史から解明することを研究目標としている。
国民投票法の成立や自衛隊のイラク派遣、防衛庁の「省」格上げ、集団的自衛権の解釈など、最近の動きは危険な流れです。一つの大きな流れができてしまうと、個人ではどうにもならない。
45年10月、憲法学者の鈴木安蔵や在野の研究者らが、憲法制定の準備と研究を目的に「憲法研究会」を結成。同12月、「憲法草案要綱」を発表した。GHQはこの要綱に強い関心を示したとされる。「占領軍の押しつけ憲法」との議論もあるが、ベースになったのは「鈴木安蔵案」とも言うべき憲法研究会の草案です。当時の貴族院と、現在の自民党の前身である自由党と進歩党も衆議院で賛成し、「賛成多数」で可決されました。
戦後62年、日本は平和憲法の下、一度も他国と交戦していません。私がした経験を決して繰り返してはいけない。子孫のために、この平和憲法を残してやらなければなりません。■記者独白
穏やかな表情で丁寧に戦争体験を話していただいた。しかし、自分の思いを語る時、眼鏡の奥の優しい瞳が鋭い眼光を放っていた。言葉の随所に「生き残った者の責任」がにじみ出ていた。正しい歴史認識とは何か。歴史から学ぶとは何かを改めて考えさせられた。
「一つの大きな流れができてしまうと、個人ではどうにもならなくなる」。体験に裏打ちされたこの言葉を重く受け止めなければならない。【丸井康充】
そして、↓これが連載の第1回。加西市に、こんな飛行場があったなんて知りませんでした。
市井の歴史を刻む:「戦後62年」「憲法施行60年」/1 塩河清一さん/兵庫(毎日新聞)
市井の歴史を刻む:「戦後62年」「憲法施行60年」/1 塩河清一さん/兵庫
[毎日新聞 2007年8月15日播磨・姫路版]◇特攻に行くことは必ず死ぬこと、家族を残しどれだけ苦しんだだろう??塩河清一さん(74)=加西市鶉野町
終戦から62回目の夏を迎えた。しかし、大切な人を失った悲しみ、空襲や原爆投下で死と隣り合わせになった恐怖、戦後の食糧難で味わった苦しみは、時が経ても消えることはない。あの戦争で人々は何を見聞きし、どのような思いを抱き、今の世に何を思うのか。市井の歴史をここに刻み、平和について考える。
国を思い、戦死した人たちの純粋な気持ちを平和に生かさなければならない。ここは彼らの魂を慰める聖地なんだよ。
加西市鶉野(うずらの)町の鶉野飛行場滑走路跡に建つ「平和祈念の碑」。後ろには戦死者の名前が刻まれている。
1942(昭和17)年、旧日本海軍はパイロットを大量養成するため、全国に練習飛行場を建設。県内では旧加西郡の鶉野台地が建設場所に選ばれた。既にあった民家や学校は立ち退かされ、地元の勤労奉仕隊らによる突貫工事で完成した。
全国から集められた練習生は、厳しい訓練を終えて次々と戦地へ向かった。戦況が悪化した45年春、同飛行場で特攻隊志願者が募集され、選抜された隊員が沖縄戦に出撃、計63人が亡くなった。ほどなく終戦を迎え、飛行場はわずか1年10カ月の歴史に幕を降ろした。私の家は飛行場の真ん中付近で肥料工場を営んでいた。立ち退き命令で今住んでいる場所に引っ越したが、思い出がたくさんある場所を離れるのはつらかったなあ。
引っ越し後、自宅には飛行場に勤務する上官5、6人が下宿した。隣の家の離れに下宿していた偵察教官、大岩虎吉さん(当時26歳)と妻、幼い娘2人とは親しく付き合っていた。
大岩さんは大学在学中に司法試験に合格し、弁護士になるのが夢だったそうだ。「大学では特待生で授業料がいらんかった」と話していたのを覚えている。しっかりした若者だったよ。
戦況の悪化で飛行場周辺の空襲は激しくなった。空襲警報とともに防空壕に入り、機銃掃射の雨から逃れた。爆撃で足を負傷し、苦しみながら死んだ近所の人もいた。
45年3月、私が旧制中学の受験で必要だったセルロイド製の名札に名前を書こうとした時、大岩さんが代わりにきれいな字で書いて、「わしの形見と思って大事にしてくれ」と言った。その意味が分かったのは数日後、大岩さんが特攻に志願したことを知ってからだ。練習生を戦地に送り、自分だけ残ることが耐え難かったのだろう。私の家で催した送別会では、奥さんが「私にも相談せず志願してしまった」とぽつりと漏らしていたよ。
出発の日、自宅前で大岩さん家族と飛行場の方向を見ていた。大岩さんたちを乗せた飛行機約20機が、ごう音を立てながら離陸し、鹿児島県の基地へ向かった。そのうちの1機が、自宅の上空で両翼を上下に揺らして飛び去った。搭乗者が私たちの方に手を振っていたんだ。奥さんは「あれが主人です」と指さし、「これで主人とも最後です」と涙を流していた。10代前半だった私は、その姿を見て、初めて特攻に行くことの意味を知った。
終戦を迎え、大岩さんの家族とも連絡が途絶えた。高校教師として35年勤務し、退職後は地元の区長になった。長年、大岩さんの消息が気になっていたが、飛行場の研究をしていた戦史研究家、上谷昭夫さん(68)=高砂市=と出会い、大岩さんが戦死したことを教わった。さらに、上谷さんを通じて愛知県に住んでいた大岩さんの妻と53年ぶりに再会。そして、上谷さんや元練習生らの提案で、滑走路跡地に戦死した飛行場関係者の慰霊碑を建てることになった。私と飛行場との因縁を感じたね。建てる前、賛同者とは「慰霊碑は絶対に戦争を賛美するものにしてはならない。我々は平和に徹しなければならない」と強く確認しあった。だから、慰霊碑には「平和記念」ではなく「平和祈念」と刻んでいるんだ。
99年に慰霊碑が完成し、毎年10月に賛同者らと集会を行うなか、大岩さんら特攻で戦死した人たちのことを考えるようになった。
特攻に行くことは必ず死ぬこと。自分の将来を捨て、家族を残して死ぬことにどれだけ苦しんだだろう。それを思うと目頭が熱くなるんだ。
時の経過で飛行場関係者が少なくなる一方、戦争体験や平和の尊さを次代に語り継ぐことの難しさも感じ始めた。特に今日の改憲の動きを危惧している。
今の平和は尊い犠牲の上にあることをもう一度考えないといけない。改憲の動きや、(原爆投下を巡る久間章生前防衛相の)「しょうがない」発言はそうした犠牲を忘れているのではないか。この石碑を守り、平和の尊さを訴え続けることが私に残された使命だと思っている。
■記者独白
昨年秋、鶉野飛行場が関わった列車転覆事故を取材し、連載企画「葬られた列車事故 鶉野飛行場秘話」を執筆した。多くの関係者から話を聞くことができ、戦後60年以上たった今も、家族を失った悲しみや犠牲者への哀悼の念を抱き続ける姿を目の当たりにした。
今回取材した塩河さんからも、知人の特攻隊員の死を通じて感じた平和の尊さを聞くことができた。戦争体験者の高齢化が進む中、それぞれが目にした「戦争」を記録することが、戦争を知らない世代の記者の使命だ。残された時間は少ない。【松田栄二郎】■ことば
◇鶉野飛行場正式名称は「姫路海軍航空隊・実用機練習航空隊」。県内唯一の海軍飛行場で、43年10月に完成した。総面積が約253万平方メートルあり、2本の滑走路を持っていた。局地戦闘機「紫電改」の試験飛行なども行われたが、わずか1年10カ月で終戦を迎え、現在は滑走路跡が残っている。
こういう記事を読むと、350万人が戦争でなくなったということは、実は、そこには記録されるべき350万の歴史があるということだとあらためて強く思います。