第30章の続きです。
838ページ――
貸付可能な資本の増加は、すべて、現実の資本蓄積、再生産過程の拡大を表わしているわけではない。
貸付可能な資本が一番増えるのは、恐慌の直後、マニード・キャピタルが大量に遊休している局面において。そのような時期には利子率はうんと低い。しかし、それが表わしているのは、産業資本が収縮し麻痺し、その結果としてマニード・キャピタルがあふれているということ。商品価格の下落、売り上げの減少、賃金として支払う資本部分の縮小とともに流通手段の必要も小さくなる。
他方で、対外債務が清算されるとともに世界貨幣としての貨幣もだんだん必要でなくなる。手形の割引も減る。こうして貸付可能な資本に対する需要が小さくなる。そのため、マニード・キャピタルは相対的に過剰になる。しかも、こういう時期には、マニード・キャピタルの供給も増加する。
だから、貸付可能な資本が増えたからと言っても、資本蓄積が進んでいるとか、拡大再生産がやられているとか言えない、ということ。
843ページ、縦線のあとから――
銀行制度の普及とともに、以前は私的に蓄蔵されていた貨幣や支払い用の準備金が銀行に集中されて、貸付可能な資本になる。そこからマニード・キャピタルの膨張が生じる。しかし、こうしたマニード・キャピタルの膨張は生産資本の拡大を表わすものではない。
景気が繁栄状態になると、商業信用は非常に大きく膨張する。この商業信用には、「健全な」土台がある。利子率は少し上がるが、依然として低い。この時期こそ、貸付可能な資本の多さが生産資本の拡大と一致する唯一の時点である。商業信用は確実に規則正しく還流するので、マニード・キャピタルへの需要が増えるにもかかわらず、利子率は上昇してゆかない。
この時期には、投機も始まる。やがて工場の拡張や新設が進み、利子率が上がり始める(平均の高さに)。
新たな恐慌が始まるとき、利子率は最高となり、信用は停止し、支払いが停滞し、再生産過程は麻痺し、貸付資本は絶対的に不足し、遊休資本があふれる。
したがって、一般的にいって、マニード・キャピタルは、生産資本とは反対方向に運動する。
マニード・キャピタルの拡張と生産資本の拡張とが併行して現われるのは、恐慌後の「好転」の時期、および、利子率が平均的な高さになるとき、である。「好転」の時期の低い利子率は、商業資本がまだひとり立ちしておらず、銀行信用をわずかにしか必要としていないことを表わしている。
847ページ――
恐慌期には、支払手段が不足する。これは自明である。なぜならば、手形の換金可能性が商品の実際の変態にとってかわってしまっているからである。信用だけに頼って商売する業者が多ければ多いほど、そうなる。
全面的に信用に依拠しているような経済制度では、信用が突然停止し、現金払いしか通用しなくなれば、支払手段である貨幣にたいする殺到が起きるのは当然である。だから、恐慌は、すべて信用恐慌、貨幣恐慌として現われる。しかし、実際に問題になるのは、手形の換金可能性だけではない ((ここは、訳注にあるとおり、草稿でのマルクスの記述どおりに読む方が筋が通っていると思います))。しかし、これらの手形の大部分は現実の売買を表わしている。だが、それらの手形は、社会的必要をこえて膨張する。この膨張が、究極において、すべての恐慌の基礎になっているのである。
【追記】
不破さんが、『「資本論」全三部を読む』第6冊の244ページで紹介しているマルクスの草稿によれば、↑上の下線部は、エンゲルスの編集によるもの。マルクスの草稿は、「実際に問題になるのは、手形の貨幣への『転換可能性』だけではない」で、終わっています。不破さんは、この部分について、マルクスの「問題になるのは、手形の貨幣への『転換可能性』だけではない」という否定の文章を「転換可能性だけである」という肯定の文章に書き換えたエンゲルスが、辻褄をあわせるために「手形の大部分は現実の売買を表わしている」「社会的必要をはるかに超えた手形の膨張が全恐慌の基礎になる」などの命題を書き加えた、しかし、「これらの命題は、どちらもマルクスの恐慌論には存在しない命題です」としています。
他方で、こうした膨大な手形の中にはいかさまな手形もある。恐慌においては、それらが明るみに出てくる。
再生産過程を強行的に拡張しようとするまったく人為的なシステム〔künstliche System――いかさま手形などのことを指している〕は、イングランド銀行が紙券を発行して資本を提供したり、価値の下がってしまった商品を元値で買い取ったりすることによっては、もちろん、何とかなるものではない。ともかく、信用の世界では、すべてが歪曲されて現われる。現実の商品やその現実の価値、価格は問題にならず、手形や有価証券だけが問題になるから。とくに金融取引の集中したところでは。
※これはまるっきり、現代に当てはまる。金融取引のただなかでは、すべてが転倒して現われる。
848ページ――恐慌の中で明るみに出てくる産業資本の過剰について
商品資本は、潜在的には貨幣資本である。
使用価値としてみると、商品資本は、一定の使用対象の一定分量である。恐慌の時には、使用価値としての商品が目の前に過剰にある。
貨幣資本としてみると、商品資本は、たえず膨張と収縮にさらされている。恐慌の時には、それは収縮している。
だから、「恐慌時には、一国の貨幣資本は減少している」という主張が、こうしたことを意味するのであれば、それは、恐慌で商品の価格が低下した、と言っているのと同じである。
不生産的階級・金利生活者たちはの収入は、景気が過熱する時期、過剰生産と過剰投機の時期にも、そのままである。だから、相対的には彼らの消費の雨緑は減少する。それとともに、不生産的階級・金利生活者たちの需要(奢侈品需要)は減少する。
すべての国が次々に恐慌に巻き込まれる。ある国の貿易収支が黒字であっても、恐慌の時には、すべての国が、次々と赤字になって、支払いを求められる。