『資本論』第31章(続き)

第31章の続きです。

●863ページ、縦線の後ろから――
貸付可能な資本の量は、流通手段としての貨幣の量とはまったく異なる。ここで流通手段の量と言っているのは、流通している銀行券と地金を含むすべての硬貨の合計のことである。その一部は、銀行の支払い準備金として存在する。

引用は飛ばして…

●864ページ6行目から――
 ぐちゃぐちゃと挿入がいろいろあるので、それを全部省略すると、この段落は、次のような非常に簡単な文章になります。(^_^;)
 「利子率の変動は、マニード・キャピタルの供給に依存する。」で、この「マニード・キャピタルの供給」というのは、「貨幣、硬貨、銀行券の形態で貸し付けられる資本」の供給のことだというのです。

●その次の段落
 この貸付可能なマニード・キャピタルの総量は、流通している貨幣の総量とは関係ない。
 なぜこれが「しかし、それでも」なのか? それは、前の段落で、マニード・キャピタルの供給は「貨幣、硬貨、銀行券の形態で貸し付けられる資本」のことだと言ったから。マニード・キャピタルは、「貨幣、硬貨、銀行券の形態で貸し付けられる資本」のことだけれども、貨幣がそのままマニード・キャピタルというわけではない、という話。

●さらにその次の段落
 ここでマルクスは、20ポンドのお金が1日に5回貸し付けられる場合というのを取り上げている。そうなれば、貨幣の量は20ポンドでも、貸し付けられたマニード・キャピタルの量は100ポンドになる、というわけです。
 しかし、それを説明したこの段落の文章の意味がよく分かりません。翻訳が悪い?
 独文を見ると、こんな感じ……
 「もし、たとえば20ポンド・スターリングが1日に5回貸し付けられるとすれば、100ポンド・スターリンという貨幣資本が貸し付けられる、ことを意味するだろう。そして、そのことは次のことを同時に含んでいることになるだろう。すなわち、この20ポンド・スターリングがさらに少なくとも4回は購買手段または支払手段として機能した、ということを。なぜならば、もし購買および支払いという媒介がなければ、その結果、それが少なくとも4回は資本から転化した形態(商品、そこには労働力も含まれる)を表わしたのでなければ、それは、100ポンド・スターリンの資本ではなく、ただそれぞれ20ポンド・スターリングにたいする単なる5つの債権を構成するだけであろうからである。」
 こう訳し直しても、まだマルクスの言いたいことは分かりにくい。要するに、ただたんに、20ポンド・スターリングの5つの債権が、たまたま同じ日に次々と支払われた、ということでないならば、20ポンド・スターリングの貨幣資本が1日に5度貸し付けられるというのは、20ポンド・スターリングの貨幣が1日5回、購買手段あるいは支払手段として使用され、その結果として、20ポンド・スターリングという貨幣資本から、20ポンド・スターリングの価値を持つ商品資本に、1日5回置き換わったはずだ、ということか? 当り前といえば当り前の話何ですけど…。(^_^;)

●865ページ6行目から――
 資本が発達している国では、マニード・キャピタルは、すべての銀行預金の形で存在している。そのうえ、投機がさかんになる前の好況期には、信用の大部分は、単純な銀行信用の振替で決済される。
 流通手段の分量が相対的に少ないのに、預金額が大きいとしたら、それは、

  1. 同じ貨幣によっておこなわれる購買と支払いの回数が多いか
  2. 同じ貨幣が、購買手段・支払手段として使用され、再び銀行の預金への復帰する回数が多いか

である。

 このマニード・キャピタルがどの程度まで遊休しているかは、銀行の準備金の流出入に示されるだけである。

●867ページの最初の縦線から――
 現実の資本蓄積については、輸出入統計が1つの基準をあたえてくれる。――というより、マルクスの時代は、こうやってしか知ることができなかったということだろう。
 で、そうやってマルクスが調べてみると、恐慌の前の最後の繁栄期の最高限度が、次の循環の繁栄期の最低水準となる、そういうかっこうで産業循環はより高い水準に上がっていく、ということが分かった、という話。これがどこまで一般化できるかは分からない。

以上、第1節終わり。さて、次は第2節だ。

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