『資本論』第3部は、第32章に突入しました。「貨幣資本と現実資本」という共通したタイトルの3番目の章。話の中身は、第30章から続いています。
●873ページの最初の段落――
貸付可能なマニード・キャピタルとしては、その貨幣の量がそのまま資本に転化されるべき貨幣の総量ではない。
●873ページの2つ目の段落――
収入のうち消費に予定されている部分の拡大は、まず貨幣資本の蓄積として現われる。このことが、「これまで展開されたことのうちでもっとも重要な」ことだとマルクスは書いています。なぜ大事か? それは、だからこそ、「貨幣資本の蓄積には、産業資本の現実の蓄積とは本質的に異なる一契機がはいってくる」から。
その「一契機」とは何か? ここで、第2部でやった再生産論の話が出てくる。すなわち――
「年生産物のうち消費のために予定された部分は、決して資本にはならない」。年生産物のうち、「消費手段の生産者たちの不変資本」(IIcのことだ!)を補填する部分は、現実には、「不変資本の生産者たちの収入」(ここではvは無視されているのでImだけだけだが、再生産論でいえば、I(v+m)のことだ)の「現物形態」を表わしている(これは、再生産論でさんざんやったこと)。だから、この部分は、現実の蓄積には入らない。第1部門の資本家の「収入」として消費されるだけ。ところが、この貨幣が「通例、しばらくのあいだ、貸付可能なマニード・キャピタルに転化する」。
その次。874ページに入ったばかりの一文。ここは、次のように読んでおきたい。
この貨幣が労賃を表わす場合には、それはまた同時に可変資本の貨幣形態である。またそれが消費手段の生産者たちの不変資本を補填する場合には、この貨幣は、彼らの不変資本が一時的にとる貨幣形態であり、補填されるべき彼らの不変資本の現物的諸要素を購入するのに役立つ。(新書版874ページ参照)
このI(v+m)とIIcの交換を媒介する貨幣は、「それ自体としては蓄積を表わすものではない」が、それでも「しばらくは貸付可能な貨幣、マニード・キャピタルの機能をはたす。」
だから、この側面からみれば、貨幣資本の蓄積は、現実に目の前に存在している資本の蓄積欲求よりも大きな資本蓄積を表わす。(まあ、一種のバブルやね)
この次が、すごく大事な指摘。
――〔資本家階級の〕個人的消費の拡大が、「現実の蓄積のために、新たな資本投下を開始する貨幣のために、最初の貨幣形態を提供する」。(874ページ)
現実の蓄積=拡大再生産にすすむとき、新たな投資が必要だけれども、それを始めるための貨幣は、まず最初に資本家が「個人的消費の拡大」として提供しなければならない、ということ。再生産過程の拡大のために必要な貨幣の前貸しは、「借りられた貨幣の前書き」として現われる。
――資本家の消費の拡大がなければ、拡大再生産はすすまない、という話だ。おもしろい!!
だから、貸付可能なマニード・キャピタルの蓄積の一部は、産業資本家が「借りる貨幣」という形をとる、というのである。「借りる」からこそ、拡大再生産できるというのである。
まだまだ話は続くのですが、今日は眠いからここまで。(^_^;) これでようやく874ページまで、2ページが終わっただけ。お疲れ様?