マルクス『フランスにおける階級闘争』

いまおこなわれている研究講座のテーマでもあるので、マルクスの『フランスにおける階級闘争』を読んでいます(講座自体はすでに猛スピードで進行してしまっていますが)。

手許にある国民文庫には、マーカーで線を引いた跡や、一度引いた鉛筆の線を全部消して、もう一度線を引きながら読み返した跡など、いろいろ苦闘した痕跡が残っていますが、これまで中身をきちんと理解できたという感じがしません。今回の研究講座をよい機会に勉強し直して、ぜひ自分のものにしたいと思っています。

以下、読みながらの抜粋。

48年革命の時期の階級配置。

  • 金融ブルジョアジー……七月王政のもとで権力を支配。マルクスが「議会をつうじて支配し、立法していたブルジョアジーの分派」(国民文庫、33ページ)と書いているのは、この金融ブルジョアジーのこと。
  • 本来の産業ブルジョアジー……公然の反政府派。ブルジョア共和派。代表的人物は、グランダン。新聞『ナシオナル』が代表。「支配権にありついていないブルジョアジーの分派」(36ページ)。ブルジョア共和派。
  • 小ブルジョアジーおよび農民階級……ルドリュ・ロランに代表される小ブルジョア的民主主義的共和派。憲法制定国民議会では、山岳党。新聞は『レフォルム』。
  • 王統派……正統王朝派とオルレアン派。これも反政府派を形成。正統王朝派は「大地主の多数が属していた」(40ページ)。憲法制定国民議会では、秩序党を形成。
  • プロレタリアート……ルイ・ブランとアルベール。二月革命では街頭での主要勢力。マルクスは、二月革命の段階では、産業ブルジョアジーはまだ支配していなかった。だから、プロレタリアートもパリでこそ事実上の権力と影響力を持ったが、パリを離れると「個々の分散する工業中心地によせ集められ、圧倒的多数の農民や小ブルジョアジーのあいだにまじり、ほとんど見る影もない」、「その発達した近代的形態での……対資本闘争、つまり工業ブルジョアジーにたいする工業賃労働者の闘争は、フランスでは、局部的な事実」(44ページ)にすぎないと書いている。

カヴェニャック将軍……6月事件後、軍事独裁者として労働者を徹底的に弾圧。ブルジョア共和派の利益を代表。

年表

1848年
2/25 二月革命。臨時政府を樹立、共和制を宣言。
4/9 直接普通選挙にもとづく憲法制定国民議会の選挙。ブルジョア共和派が圧勝。
5/4 憲法制定国民議会が開会。「フランス人民の承認した共和制は、2月25日からではなく5月4日から始まる」(57ページ)
5/15 プロレタリアートが国民議会に侵入。ブランキら逮捕される。
6/22?25 六月事件。プロレタリアーは蜂起するが、撃滅される。
12/10 大統領選挙。ルイ・ボナパルトが6対1で圧勝し、大統領に選出される。「農民反乱の日」「現存の政府を倒した農民のクーデター」(78ページ)。大統領選挙に、小ブルジョア民主主義的共和派の代表としてルドリュ・ロランが、プロレタリアートの代表としてラスパイユが立候補したことは「プロレタリアートが独立の政党として民主党から分離した最初の行動」(80ページ)。
12/20 ボナパルトが大統領に就任。二月革命で倒されたルイ・フィリップ王政の最後の大臣であったバローを大臣に任命。さらに正統王朝派のファルーを文部大臣に任命。バロー内閣は「正統王朝派とオルレアン派の連合」を含み、「欠けていたのはボナパルト派だけだった」(82ページ)。
12/27 臨時政府が布告していた塩税の廃止を撤回。「ボナパルトは彼の革命的な塩を失った」(84ページ)。しかし、議会は、政府の提案を否決、塩税を3分の1にする。ブルジョア共和派中心の議会とボナパルト勢力との対立。「ルイ・ボナパルト対憲法制定議会」。それは、執行権力と議会権力の対立ではなく、「ブルジョア共和制自身と共和制が制定した道具との対立」、ブルジョア共和制と「革命的ブルジョア一分派」(ブルジョア共和派のこと)の「野心的陰謀や思想的要求」との対立(86ページ)。
1849年
5/13 立法国民議会選挙。「秩序党」(「オルレアン派と正統王朝派が連合して『1つの』党になったもの」99ページ)が圧勝(議席数750のうち約500を占める)。共和派(「ナシオナル」派)は、70名に転落。山岳党は約180名が当選(11%から25%に増加)。
5/28 立法国民議会が開会。
6/11 山岳党が大統領と内閣に対する弾劾状を議会に提出。翌日、377票対8票で否決される。
6/13 山岳党のよびかけに答えた小ブルジョアジーの街頭デモ。「シャンガルニエの竜騎兵と猟騎兵」が蹴散らす。「民主主義的小ブルジョアの反乱」(114ページ)。「立憲共和制の生涯の第一期は6月13日で終わる」(114?115ページ)。

マルクスは、六月事件について、次のように言っている。

  • 「近代社会を分かつ2階級間の最初の大戦闘」「ブルジョア的秩序の存続か壊滅かのたたかい」(60ページ)
  • この敗北によって、プロレタリアートの状態のわずかな改善でさえも『ブルジョア共和制の内部では1つのユートピアにすぎない」ことが明らかになった(62ページ)。そこで登場したのが「ブルジョアジーの転覆! 労働者階級の執権!」というスローガン(63ページ)。
  • これにたいし、ブルジョアジーの側は「ブルジョア・テロリズムに転化せざるをえなかった」(63ページ)。
  • 二月革命以前は「革命」は「国家形態の変革」を意味しただけだったが、6月25日以降は「ブルジョア社会の転覆」を意味するようになった(65ページ)。←これは面白いコメント。マルクスが「革命」という言葉を、資本主義から社会主義へというような社会構成体の移行だけに限定していなかった証拠。

などなど。

そして、六月事件の結果として、共和制は、カヴェニャック将軍による軍事独裁にとってかわられる。「カヴェニャックは、ブルジョア社会を支配するサーベルによる独裁ではなくて、サーベルによるブルジョアジーの独裁だった」(73ページ)。

 「労働に対する権利は、ブルジョア的な意味では一つの矛盾であり、あわれかなわぬ願いである。しかし、この労働の権利の後ろには、資本にたいする強力(ゲヴァルト)があり、資本にたいする強力の背後には生産手段の取得と、生産手段を、結合した労働者階級の支配下へおくこと、すなわち賃労働と資本、およびこの両者の相互関係の廃止がある」(74?75ページ)

  これについて、エンゲルスは「序文」のなかで、次のように書いている。

「本書にかくべつ重大な意義をあたえているのは、世界のすべての国の労働者党があまねく一致して、その経済的改革の要求を簡単に要約している公式、すなわち、社会による生産手段の取得、を本書がはじめて言明したという事情である」。「ここに――はじめて――それによって近代の労働者的社会主義が、さまざまな色合いをもった封建的、ブルジョア的、小ブルジョア的等々の、すべての社会主義とはっきり区別され、そしてまたユートピア的または原生的な労働者共産主義の混沌たる財産共有制とも、きっぱり区別される命題が公式化されている」。(6?7ページ)

 「封建的、ブルジョア的、小ブルジョア的等々の、すべての社会主義」とか、「ユートピア的または原生的な労働者共産主義」という表現は、『共産党宣言』を髣髴とさせるが、その『共産党宣言』は、その草案の1つである「共産主義信条表明」にあった「財貨共有制」という従来型の定式を退けて、「私有財産の否定」というスローガンをかかげた。また、「社会による生産手段の取得」という表現は用いられていないが、『共産党宣言』においても、「すべての生産用具を国家の手に、すなわち支配階級として組織されたプロレタリアートの手に集中」するという方向は明確にされている。したがって、『フランスにおける階級闘争』で、はじめてそうした命題が掲げられたというエンゲルスの評価は、必ずしも正確なものとはいえない。

農民との同盟の必要。
 「革命の進行によって、プロレタリアートとブルジョアジーの中間にいる国民大衆、つまり農民と小ブルジョアが、ブルジョア秩序に反対し、資本の支配に反対して立ち上がり、彼らがぜひとも、その前衛闘士であるプロレタリアに同盟せざるをえなくなるまでは、フランスの労働者は一歩も前進することはできず、ブルジョア的秩序を髪の毛一本ほども変えることはできなかった。」(44?45ページ)

「臨時政府の側では、いったんやむをえずも共和制を宣言させられたからには、これをブルジョアジーと地方とに受け入れられるものにするために、あらゆる処置を取った」(46ページ)
 ということで、あらゆる処置の話が、このあと書かれている。そのなかに、私的信用の話とともに、公的信用の話、フランス銀行の銀行券に強制通用力をあたえたことなどが出てくる。
 さらに、45サンティーム税の話。(50?51ページ)

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