『小論理学』予備概念の続き。
【第22節 補遺】
○真理を認識するためには、主観の働きがなければならない。
「事物のうちにある真なるものを知るには、たん有る注意だけでは不十分であって、直接的に存在するものを変形するところのわれわれの主観的働きが必要である。」(113ページ)
「思惟による直接的なものの改造によってのみ、実体的なものに到達することができる」(同前)
○批判哲学にたいするヘーゲルの反論
「近代にはってはじめて、こうした確信に疑問がさしはさまれるようになり、われわれの思惟の産物と事物そのものとの間に、あくまで区別がおかれるようになった。物の本質はわれわれがそれから作り出すものとは全く別なものだ、と人々は言いだしたのである。こうした分離の立場は、事物と思想との一致を自明なことと考えていた昔からの確信に反して、特に批判哲学によって主張されたものであり、近代の哲学の関心はこの対立をめぐって動いている。しかし人々は、生まれながらには、このような対立は本当でないことを信じているものである。普通の生活においてはわれわれは、別に真理は思惟によって作り出されるというような反省などなしに思惟しており、思想と事物との一致を固く信じてのびのびと思惟している。この信念はきわめて重要なものである。われわれの認識は主観的なものにすぎず、この主観的なものからわれわれは一歩も出ることはできないという絶望に達したのは、現代の病患に過ぎない。」(同前)
「真理は客観的なものである。真理こそ、すべての人の信念のよるべき基準でなければならず、この基準に一致しないかぎり、個人の信念は正しくないのでなければならない。ところが現代の考え方によると、信念のよるべき基準がないのであるから、確信そのもの、すなわち、確信しているという単なる形式がそれだけですでに価値を持ち、内容はどうでもいいのである。」(113?114ページ)
【第24節 補遺1】
○類としての普遍の存在。個々の動物の本質をなす類としての動物は、単なる共通なもの(抽象的普遍)ではない。
「われわれは特定の動物をさして、これは動物であると言う。しかし動物そのものは示すことのできないものであって、示すことができるのは、常に特定の動物にすぎない。動物なるものは現存しない。それは個々の動物の普遍的な性質であって、現実に存在するすべての動物は、はるかに具体的な規定を持ったものであり、特殊なものである。しかし動物であるということ、すなわち普遍的なものとしての類は、特定の動物に属し、その特定の本質をなしている。犬から動物であることを取り去ったら、われわれはそれがなんであるかを言うことができないであろう。すべての事物は、不変の内的本性と、そして外的な定有とを持っている。すべては、生きそして死に、発生しそして消滅する、しかしそれらの本質、普遍は類である。そしてこれは単に共通なものと解されてはならない。」(117ページ)
普遍は特殊を成り立たせているもの。動物であるという性質は、犬という特殊な動物を成り立たせている本質、普遍、類である。したがって、動物であるということは、たんにあれこれの特殊な動物から「共通なもの」を取り出したようなものではない。こういう外から取り出された「単なる共通なもの」を「抽象的普遍」というが、類、普遍というのは、そうした抽象的普遍ではない、ということ。これは非常に大事な考え方。
しかし、普遍については、抽象的普遍と具体的普遍、ということが言われるが、ここでヘーゲルが言っている類としての普遍は、いわゆる具体的普遍ともちょっと違う。具体的普遍というのは、みずからを具体化し、区別し、特殊と並んで、全体を総括するものとして存在するが、ここでヘーゲルが言っている類としての普遍は、決してそのような具体的普遍ではない。
だから、普遍については、<1>「単なる共通なもの」としての抽象的普遍、<2>類としての普遍、<3>特殊なものをみずから生み出す主体としての具体的普遍、の3つで考える必要があるのではないだろうか。
【同 補遺2】
「普通人々は、論理学は単に形式を取り扱うにすぎず、内容はほかから取ってこなければならない、と言う。しかし論理的諸思想は、その他すべての内容にくらべて決して『単に……にすぎない』と言われるようなものではなく、その他すべての内容こそ、論理的諸思想にくらべると『単に……にすぎない』と言いうるものである。」(123ページ)
○真理について
「普通われわれは、対象と表象の一致を真理と呼んでいる」。(124ページ)
「しかし哲学的な意味では、真理とは、……抽象的に言えば、或る内容のそれ自身との一致を意味する」(同前)。「概念と実在との真の一致」(同前)。「真理、すなわち自分自身との一致という意味における真理」(125ページ)
「あらゆる有限な事物は、そのうちに真実でないものを含んでいる。すなわち、それは概念と存在とを持っているが、その存在は概念に適合していない。」(125ページ)
これは、おもしろい指摘。事物そのものが持っている概念と、実際のそのものの存在とが一致しない、存在が概念に適合しない、というとらえ方。たとえばヘーゲルは、「真の友」という概念を持ち出して、「真の友」というのは、対象としての友と表象としての友が一致しているかどうかではなく、ある友人が、「友」という概念に本当にふさわしい存在かどうかを問題にしているんだと言っている。「友」という概念にかなった存在こそが、「真の友」である、ということ。
しかし、その次にヘーゲルが言っているのは疑問。すなわち――
「有限な事物が滅びなければならないのはそのため〔存在が概念に適合していないため――引用者〕であり、このことによって、概念と存在の不一致が明らかにされる。個体としての動物は、その概念をその類のうちに持っており、類は死によって自己を個別性から解放する。」(同前)
たとえば、個々のイヌは、その存在がイヌという概念、あるいは動物という概念に合致しないから、死ぬのではない。動物の概念には、死ぬことも含まれていなければならないはず。だから、存在と概念の不一致から、死を導き出すことはできない。
しかしでは、存在と概念の不一致が変化の原動力となる、という場合がまったくない、と言いうるか、というと、それもそう簡単には断定できない。たとえば、資本は、個々の具体的な資本の存在が、より多い剰余価値の吸収という資本の本性に照らして、決して完全に一致しているとはいえない、個々の具体的な存在としての制約、条件を持っている。だからこそ、資本は、その具体的な存在を乗り越えて、より資本の本性にふさわしい、限度を知らない、どこまでもより多くの剰余価値を吸収しようという存在になってゆく。こういう場合、存在と概念の不一致が、発展の原動力になっている、と言うことができるのではないだろうか。
【同 補遺3】
「精神は単に直接的なものではなく、本質的に媒介のモメントをそのうちに含んでいる」(129ページ)
「労働というものをよく考えてみると、それは分裂の結果であり、また分裂の克服でもある」(130ページ)
動物は、必要なものを「直接目の前に見いだす」のにたいして、人間は「人間自身によって作り出された、外的なものと人間との関係」なのだが、そんな外的な関係にあっても、実は「自分自身と関係」するものなのだ。