「大連立」の舞台裏

読む政治:検証・大連立構想(その3) 小沢代表・再編呼ぶ「二面性」
[毎日新聞 2007年12月12日 東京朝刊]

◇改革者か、壊し屋か

 目指すべき国家像を明確に掲げる「改革者」と、権力闘争のたびに側近の離反を招いてきた孤独な「壊し屋」。90年代から本格化した連立政権時代は、小沢一郎・民主党代表の「二面性」とともに揺れ動いてきた。「権力は政策実現の手段」と割り切って「55年体制」の常識を打ち破り、与野党が入り乱れる合従連衡の扉を開けた小沢氏も、目指した2大政党化が進まず、自らが起点になった政界再編にもまれ続けている。【政治部副部長・因幡健悦】

◆脱・55年体制

 「55年体制」後の連立政権の原点は、80年代末に小沢氏が築いた公明、民社両党との「自公民協調体制」だ。東西冷戦の終結と、直後の「湾岸戦争」(91年1月)が背景にあった。自民、社会両党のイデオロギー対立を基礎にした「55年体制」が国際紛争への対応で機能不全に陥ったためだった。
 当時、小沢氏は自民党幹事長。国際貢献策の取りまとめに迫られた。しかし、リクルート事件や消費税批判で、89年の参院選に大勝した社会党は自衛隊派遣に頑強に反対した。その打開策が中道勢力の公明、民社両党抱き込みだった。閣内協力こそなかったが、小沢氏と公明の市川雄一書記長は「一・一ライン」、民社の米沢隆書記長を含め「ワン(一)ワン(一)ライス(米)」と呼ばれる親密な関係となり、自衛隊海外派遣の根拠となる国連平和協力法案にいったん合意。米国などの多国籍軍に対する130億ドルの拠出も取りまとめた。同法案は廃案となるが、自公民は新たな国際貢献策作りで合意し、宮沢内閣の92年にPKO協力法の成立にこぎつけた。

◆こだわる「安保」

 小沢氏は憲法と国際貢献策に整合性をつけるため「国際社会における日本の役割に関する特別調査会(小沢調査会)」を組織し、現行憲法下でも国連軍への自衛隊参加は可能とする提言をまとめた。小沢氏の国連中心主義の源流はここにあるが、金丸信元副総裁の脱税事件に伴う竹下派分裂で具体化の道は閉ざされた。
 福田康夫首相との大連立構想に至るまで、小沢氏が政局の節々で安保政策を持ち出すのは、「未完の提言」へのこだわりがあるからだろう。
 小沢氏は93年に自民党を離党、羽田孜氏(元首相)らと新生党を結成する。衆院選では議席を伸ばし、38年ぶりの非自民政権となった細川連立内閣を樹立した。「一一米」を土台に、自民党時代は切り捨てた社会党も抱き込む離れ業だった。しかし、自前の安保政策を社会党にのませようと、統一会派「改新」構想を進めたことが社会党の政権離脱を招く。自民党の渡辺美智雄元蔵相の担ぎ出しも失敗し、少数与党の羽田内閣を経て下野。自らの失策で自社さ連立のおぜん立てをしてしまった。
 再起を期して新進党、自由党と新党を結成したものの、立ち行かないと見るや、不倶戴天(ふぐたいてん)の敵だった野中広務官房長官(当時)に「悪魔とでも手を組む」と言わせて和解。99年に小渕内閣の与党となるが、公明党が加わった自自公政権では思うように主導権が握れなかった。自ら政権離脱を宣言するものの、閣内残留派と対立し、右腕だった二階俊博・自民党総務会長らが離反した。

◆「表技」と「裏技」

 小沢氏の強みは、選挙(決戦)と合従連衡(政略)を縦横に展開できるノウハウを持ち合わせていることにある。小選挙区に対応するため野党勢力を集めて新進党を結成し大勝した95年参院選▽自由党党首として民主党への吸収合併を決断、その効果で潜在的保守層を掘り起こし、民主党が177議席を得た03年衆院選▽1人区重視で民主党に勝利を呼び込んだ今年の参院選――にその感覚の鋭敏さがみてとれる。
 一方で、秘密裏に進められる合従連衡策は暗転を伴ってきた。2大政党実現の看板を掲げた新進党時代の97年、自民党の梶山静六氏らとの「保・保」連合に動き、党内とのあつれきを深めた末に解党の憂き目をみたのがその典型だ。「選挙による政権交代」を掲げながら、「合従連衡による政権奪取」もうかがう戦略は、福田首相との大連立構想でも繰り返された。
 今回は民主党にとどまったが、小沢氏は自身の判断が間違っていないとの姿勢を崩していない。大連立構想は一時的に水面下に潜っただけにみえる

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