まだまだ続くヘーゲル弁証法

某氏からリクエストがあったので、ヘーゲル『小論理学』の続き。いきなり有論に入ります。

第84節

有論の篇別構成を述べた節。ヘーゲルは、論理学で、つねに概念を問題にしているが、有論で問題になるのは「即自的」な段階の概念である。有論は、有→或るものと他のもの→他のものへの移行(向他有)と進展する。これは、「即自的に存在する概念」(=有)の「不断の開示」であり、同時に「有が自己のうちに入っていくこと」「有が自分自身のうちへ深まっていくこと」であるとヘーゲルは書いているが、概念の進行が、同時に自分自身の中へ深まっていくことだというのは、弁証法的なものの見方としておもしろい。

有の領域における概念の開示は、有の直接性を揚棄することである、とヘーゲルは書いている。第1に、有は直接的なものである。直接的なものであるとは、感覚に直接与えられているということ。つまり、有というのは、目の前にころっと存在している。なぜそこに存在するのか、どのようにして存在しているのか、なにによって成り立っているか――そういった問題は、まだまったく問題となっておらず、ただ与えられたものとして、そこに存在している。これが有の直接性。

で、有が概念を開示していくということは、有がなぜそこに存在しているのか、どのようにして存在しているのか、なにから成り立っているかを明らかにすることでもある。したがって、それは有の直接性を止揚することでもある。

つまり、人間の認識の深まりとともに、はじめは直接与えられただけの存在が、その正体を明らかにしてゆく。それは、同時に、存在の中へ入り込むことであり、その存在の直接性を止揚することでもある、ということをヘーゲルは言っている訳である。他方で、何か或るものが、やがて発展して何か別のものになっていく場合を考えると、その場合でも、何か或るものは、何か他のものによって、発展するのではなく、実は、発展のなかで現れ出たものは、もともとそのものの中に含まれているもので、それを外へ表わすことによって、或るものは発展してゆく。そうやってでき上がったものは、最初の或るものからすれば、媒介された他のものであるが、同時に、それはやっぱり或るものである。これも、有の概念の開示と、それによる有の直接性の止揚と考えることができる。

とりあえず、ここでは、有とは直接的なものであるということを覚えておこう。

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