アントニオ・ネグリの『マルチチュード』上(NHKブックス、2005年)をつらつら ((「〔今まで、よくは考えなかった事の真意義や、見過ごして来た事どもを〕改めて考えたり、見つめたりして、真の価値は、どこに在るかについて認識を新たにすることを表わす。」(三省堂『新明解 国語辞典』第4版)))読んでみた。『〈帝国〉』が情勢論だとしたら、『マルチチュード』はネグリの革命論。彼の議論には、「議会の多数を得ての革命」という立場がまったくない。
序
「労働者階級という概念は今や、生活を維持するために働く必要のない所有者から労働者を区別するためだけでなく、労働者階級をそれ以外の働く人々から切り離すための排他的な概念として用いられている」(20ページ)。「この階級〔産業労働者階級〕はもはやグローバル経済において主動的役割を果たしていない」(21ページ)。
「〈共〉の生産」(22ページ)。「情報や知識を相手に仕事をする者は誰しも、……他社から伝えられた〈共〉的[=共通・共有の]知識に依拠しつつ、また新たな〈共〉的知識を創り出す」(22ページ、[]内は訳者の補足)。
マルチチュードの2つめの特徴。「『政治的』組織化」」。「革命独裁と指令といった中央集権形態から、権威の所在を協働的な関係性のなかに置くネットワーク上の組織への移行、というより民主的な組織化に向かう傾向」(23ページ)。「抵抗と革命組織が単に民主的な社会を達成する手段であるにとどまらず、その組織構造の内部に民主的な関係性を創り出す傾向」(同前)。
第1部 戦争
1-3 抵抗の系譜
「反逆や反乱そして革命の形態が20世紀を通じて、伝統的な集権的軍事構造からゲリラ組織へ、さらにはより複雑な分散型のネットワーク形態へと変化してきた」(121ページ)
「現代の労働と生産の現場は、非物質的労働――情報や知識やアイディア、またイメージや関係性や情動といった非物質的な生産物を生み出す労働――が主導権を握ることによって、変容しつつある」(125ページ)
「非物質的労働は共同作業によってのみ行うことが可能であり、さらにそれによって生産されるものを通じて、新たな協働の自立的ネットワークがどんどん創出されつつある。」(126ページ)
「以下の各節では、近代の大革命における人民軍の創設からゲリラ戦、さらには現代のネットワーク型の闘争形態にいたるまで、解放闘争の系譜をたどっていくことにする」(128ページ)
「個々の新しい抵抗の形態は、それ以前の形態に含まれていた非民主主義的な特性を解消し、より民主的な運動を創出することを目指す」(129ページ)
「近代における伝統的な蜂起の概念」……「その特徴は大衆による蜂起活動から政治的前衛の創出へ、内戦から革命政府の樹立へ、対抗権力組織の構築から国家権力の獲得へ、憲法制定プロセスの懐紙からプロレタリアート独裁政権の樹立へ、という動きにある」(129?130ページ)。
「だが今日、こうした革命活動の継起は、まったく現実離れしたものになってしまった」。にもかかわらず、「蜂起の経験は、いわばマルチチュードの<肉>において再発見されつつある。蜂起活動は……いくつものステージで同時に展開されていくもの」(130ページ)
ネグリはここで、武力革命について「まったく現実離れしたものになってしまった」と書いているが、これは、武力革命の、旧来の形態を否定しているだけ。彼は、武力革命論を決して放棄しない。
「人民軍の集権化された組織は、勝利を獲得するまではすばらしい戦略に見えるが、勝利が決定的になったとたん、その統一的で階層的な構造の弱点が悲惨なまでに明らかになる。人民軍が民主主義を保証するなど、程遠いことだ」(135ページ)
「外から見た文化大革命のイメージは、反権威主義とラディカルな民主主義というものだった」(140ページ)。しかし、「毛自身の中心的な立場と党勢力を強化するという逆説的な結果」(141ページ)。
「『人民』という概念は人民軍とゲリラ部隊の両モデルにおいて、その組織の権威を確立し暴力の使用を正統化するうえで基本的な役割を果たしてきた。『人民』とは支配的な国家権威に取って代わり、権力を掌握すると主張する主権形態のことである」(143ページ)
「主権をもつ人民という概念の曖昧さは結果として一種の二枚舌になる」(144ページ)
「人民の行使する暴力を正統化する近代的議論が、……国家暴力の正統化にかんする聞きと同じ危機に見舞われることが増えている」(144ページ)
もう1つの正統化のモデル。「労働者自身の日々の闘い」「抵抗や不服従」「職場や社会全体における支配関係の転覆を目指した連携行動」(145ページ)
「反乱のために組織された従属諸階級は、たとえ国家を巻き込む改革派路線を採用して、国に社会福祉を確保させたり、ストライキ権などの法的な裁可を要求する場合でも、国家暴力の正当性についていかなる幻想も抱くことがなかった」(145ページ)
「マルチチュードの闘いをどう正統化するか」(145ページ)
「マルチチュードによるネットワーク型の闘争のひとつの明確な特徴は、ポストフォーディズム的な経済生活と同様に、それが生政治的領域で生起するという点だ。言い換えれば、ネットワーク型の闘争は新しい主体性と新しい生の形態を直接に生み出すのである」(149ページ)。
ネグリが注目するのは――
- パレスチナのインティファータ
- メキシコのサパティスタ民族解放軍(FZLN)
- 世界社会フォーラム
ネットワーク型運動の3つの原則
- ある特定の歴史状況における効率性
- 政治的・軍事的な組織形態は、その時点の経済的・社会的な生産形態に対応しなければならない
- もっとも重要な原則。民主主義と自由こそが抵抗の組織形態の発展にさいして、常にその方向を決める指針となる
「従来、抵抗の形態は法の『内部』で作動するか、法の『外部』で作動するかで区別されてきた。規制の法規範の内部では、抵抗は法の抑圧的効果を中和する役割を果たした。」(157ページ)
「あるサミットに抗議するネットワーク的な運動に参加した人々の行動は、それを指揮する中心的権威が存在せず、抗議行動の中身も多種多様で変化していることから、一概に合法とも非合法とも言えない。」(157ページ)。「ネットワーク型の抵抗運動を区別するもっとも重要な違いは、合法性の問題ではない」(157?158ページ)。
「抑圧者による戦争を被抑圧者による戦争と決して同一視してはならない」(160ページ)。
↑これも、被抑圧者による「戦争」は可とする議論。しかも、「抑圧者による戦争」は決して一時的なものではない。↓にみるように、ネグリは、今日のグローバル秩序は「戦争」にもとづいていると言っている。
「今日のグローバル秩序の正統化は基本的に戦争にもとづいて行われる。したがって戦争に抵抗すること、そして現在のグローバル秩序の正統化に抵抗することは、〈共〉的な倫理的課題となる」(160ページ)
「マルチチュードはその政治的基盤としての民主主義に訴える。この戦争に対抗する民主主義こそ『絶対的民主主義[=絶対民主制]」にほかならない」(160?161ページ)
第2部 マルチチュード
「今日、変革と解放を目指す政治的行動は、マルチチュードという基盤に立ったときのみ可能となる」。「人民は<一>である。……人民という概念はこれらの社会的差異をひとつの同一性へと統合ないしは還元する」。(171ページ)
「これに対してマルチチュードは統一化されることなく、あくまで複数の多様な存在であり続けるのだ」。「マルチチュードは一群の特異性からなる。ここで私たちの言う特異性とは、そのさいが決して同じものに還元できない社会的主体、差異であり続ける差異を意味する」(171ページ)
「もっともマルチチュードは多数多様なものであるとはいえ、バラバラに断片化した、アナーキーなものではない」(171ページ)
「マルチチュードは、特異性同士が共有するものにもとづいて行動する、能動的な社会的主体である」(172ページ)
くたびれた…、眠い (-_-;)