もう書き抜きをしている本人が、すっかり飽きてしまったので、最後にします。(^_^;)
『マルチチュード』第3部「民主主義」ですが、ここでネグリが言いたいことは、見出しを並べただけで分かります。
3-1 民主主義の長い道のり
〈帝国〉時代における民主主義の危機
全員による全員の統治――未完の民主主義プロジェクト
社会主義的代表制――夢に終わったプロジェクト
グローバル世論は新しい民主主義か
3-2 グローバル・システムの改革提言
〈帝国〉への陳情書
・代表制をめぐる異議申し立て
・権利と正義をめぐる異議申し立て
・経済をめぐる異議申し立て
・「生の搾取」をめぐる異議申し立て
グローバルな改革実験
・代表制に関する改革
・権利と司法制度に関する改革
・経済的改革
・生政治的改革
18世紀に回帰せよ!――絶対的民主主義のために
「『生の搾取』をめぐる異議申し立て」とは何か、とか、「生政治的改革」とは何か、ということに興味のある方は、本を読んでみてください。
注目されるのは、代表制に対する批判。ネグリはこういう。
「マックス・ウェーバーにならって、ここでは代表制を、代表する者と代表される者との分離の度合いに従って3つの基本的な類型――専有的代表制、自由代表制、指示的代表制――に分けることにする。」(98ページ)
「専有的代表制は代表する者と代表される者との結びつきがもっとも弱く、分離がもっとも顕著な形である。」(同前)
「自由代表制は3つのうち中間的な者で、その典型は議会制度にみられる。代表される者は代表する者に対して一定の直接的つながりをもつが、その制御力制約され限定的である。たとえばほとんどの選挙制度では、選挙は2年ないし4年または6年ごとにしか行われず、代表される者が代表する者との結びつきに影響を与えるのはその時に限られるため、代表される者が行使できる選択や制御力は主として時間的な意味で制約を受ける。選挙と選挙の間には、代表する者は代表される者の指示や彼らとの協議なしに比較的自立的に行動する…」(99ページ)
「代表される者が代表する者を絶え間なく制御する場合」が「指示的代表制」。「たとえばひんぱんに選挙を実施したり、代表者をいつでも解任できる状態に置いたりする…」云々(100ページ)
「こうした取り組みが行われれば、現代の政治的状況は間違いなく改善されるが、だからといって近代民主主義の約束――全員による全員の統治――を実現することは決してない。」(101ページ)
「専有的、自由、そして指示的という3つの類型は、結びつけると同時に引き離すという代表制の根本的な二重性へと私たちを引き戻す。……政治的代表の制度は(少なくとも一部の)市民に対して複数の欲望や要求の表明を許すと同時に、国家に対してはそれらを一貫性のある統一体に合成することを許さなければならない。したがって代表者は一方で代表される者のしもべであり、他方では主権的意志の統一性と有効性に粗のみを捧げる存在なのだ。のちに詳しく論じるが、主権の指図するところに従うなら、最終的には一者のみが統治することができることになってしまう。」(101ページ)
つまり、議会制度は2年か4年か6年ごとに代表を選ぶだけのものだ、ということ。この批判は、どこかで聞いたことがあるものとそっくり同じ。そして、代表制をなるべく改善することはできるが、それは決して「全員による全員の統治」を実現しない、代表制に基づく主権(統一された国家意志の形成)は「最終的に一者のみが統治する」ことと同じだ、というもの。
「グローバル・システムの改革提言」でも、「代表制の機能不全」(136ページ)ということが言われている。「国内の代表システムに関する不満は絶え間なく聞かれる」(同前)。
「投票とは、自分の望まない候補者――2人の悪者のなかでマシなほう――を、向こう2年間か4年間あるいは6年間の不適当な代表者として選ぶ義務でしかない」、「2000年の合衆国大統領選挙は……選挙制度を媒介にした代表制の危機のもっとも目にういた一例にすぎな。世界の民主主義の擁護者を自任する合衆国でさえ、このようなまがいものの代表制しかもたないのだ。これをはるかに上回る選挙システムをもつ国は存在しないし、大部分が合衆国のそれをはるかに下回るのが現状である。」(136?137ページ)
↑最近のラテンアメリカの「選挙による変革」を見れば、むしろ、合衆国の選挙システムの方がラテンアメリカ以下だというべきだろう。とてもネグリの言うように、「大部分が合衆国のそれを下回る」とはいえない。彼は、あれこれ言ってはいるが、「選挙を通じた変革」についてまともに考えてはいない。
さらに、こうも言っている。
「たとえどんな有益なものであっても、改革によってグローバル規模での民主主義を維持することはできない」(190ページ)。
3-3「マルチチュードの民主主義」では、こんな発言も出てくる。
「同じように民主制も多数ある派全員によると見なせるが、あくまでそれらの人々が『人民』あるいは同様の単一の主体として統合されていることが条件となる。」「民主制における権力は、貴族制における権力と同様に事実上君主制的であり、したがってそれはうわべだけのものにすぎない」(220ページ)
ということで、ネグリは代表制を否定的にしか評価しない。
で、それにたいして、ネグリは、「マルチチュードによる意志決定」をもちだすのだが、それは「指揮者のいないオーケストラ」(232ページの小見出し)というもの。しかし、室内楽+アルファならともかく、マーラーやショスタコーヴィチの交響曲は指揮者なしには演奏不可能だし、指揮者は何も楽団員を無理矢理ねじ伏せて、指揮に従わせる訳ではない。
さて、最後に暴力の問題。ネグリは次のように言っている。
「現在の世界は全般化された永続的かつグローバルな内戦によって特徴づけられ、この絶え間のない暴力の脅威が民主主義の実現を効果的に阻んでいる。」「戦争〔内戦のこと――引用者〕は民主主義を封じ込めるメカニズムとして機能している」。「戦争そのものが政治システムの基礎を規定するものとなりつつある。戦争が支配の形態となりつつある。」(238ページ)
「暴力はもはや法体系や道徳的原理を基盤にして正統化されるのではなく、暴力が行使されたのちに正統化されるものでしかなくなりつつある。」(239ページ)
「民主主義勢力はこの主権の暴力に対抗しなければならないが、それはシンメトリックな対極との対決であってはならない。確かに民主主義を平和をもたらす絶対的な力として、主権による永続的な戦争とは正反対のものと見なすことは理にかなっているかもしれないが、そうした概念対立は現実の状況にはほとんど対応しない」(239ページ)
↑つまり、ネグリは、民主主義勢力が平和的・非暴力的に対抗するというのは非現実的だ、といっている。
「今日の民主主義は主権から身を引き離す、あるいは逃亡や脱出という形態をとるが、……エジプト王ファラオはユダヤ人が平和裡にエジプトを出ることを許さない」(同前)。「マルチチュードが脱出するさいには主権権力の攻撃に対してそれとシンメトリーをなす反対の対応をとらなければならない。すなわち抑圧的な暴力に対して、暴力の絶対的な欠如によって立ち向かわなければならない…。…あらゆる脱出は積極的な抵抗――後を追ってくる主権権力に対する後衛戦を必要としている。」(240ページ)
「したがって脱出と民主主義の出現は、戦争に対する戦争だということができる。」(240ページ)
「力や暴力を民主的に使うこと」(同前)
「第1に…、民主主義が暴力を用いるのは政治的目標を追求する手段である場合に限られる。」(同前)
「暴力を民主的に使用するための第2の原則……は、暴力を防衛のためにしか用いないことだ」(241ページ)
「防衛的暴力の使用を、圧政に抵抗する権利という長い共和主義的伝統に結びつけることも必要だろう。」(241?242ページ)
「権威に対する不服従、さらには圧政に対してこのような意味で暴力をふるうことは一種の抵抗、あるいは暴力の防衛的な使用といえる」(242ページ)
↑つまり、政治的目標を追究するために防衛的にななら暴力は使ってよい、というのがネグリの立場。しかも、それは警察などが実際に暴力的に弾圧してきたときに対抗するためにやる場合という意味ではなく、「圧制」にたいする「抵抗」は、すべて「暴力の防衛的な使用」だというのだ。つまり、マクドナルドは、グローバルな権力だ、だからマクドナルドのガラスを割るのは「一種の抵抗」「民主的な暴力」だというわけだ。(-_-;)
ネグリは、「シアトルでの抗議行動の過激さ」についても、「同時にメディアが抗議行動を大きく取り上げたのは暴力のせいだという不幸な事実も認識しなければならない」(161ページ)ともいっている。つまり、マルチチュードの抗議行動をメディアに取り上げさせるためなら、多少の暴力も必要だ、というのだ。
「暴力の民主的な使用の第3の原則は、民主的組織化のあり方そのものにかかわる。…暴力の使用もまた民主的に組織されなければならない。」(244ページ)――これは、社会変革の手段として暴力が認められるかどうか、という問題にとっては、どうでもいい話。
「暴力の民主的な使用にはもう1点、武器に対する批評的観点、すなわち今日どのような兵器が有効であり適切かに関する考察が伴わなければならない」(245ページ) ――これは、いい暴力だろうが悪い暴力だろうか、誰も考えること。ブッシュだって、いまどのような兵器が有効か考えている。
ということで、最終章の小見出しの1つはこれ。上下600ページを超える本を読んだ結論がこれでは、誰だって唖然とするだろう。
「政治的な愛の復活」(253ページ) ……!!