甲賀市・史跡紫香楽宮跡出土木簡 あさかやま面(左) なにはつ面(右) 〔産経新聞〕
滋賀県の紫香楽宮跡から出土した木簡に、万葉集の歌が書かれたことが判明。しかも、その木簡の年代は、どうやら万葉集が編纂されたとされる年よりも前だというのです。万葉集の編纂作業あるいは成立プロセスを示す現物資料になるんでしょうか? すごい、すごすぎる…。
万葉集成立前?に万葉集収録の歌を書いた木簡が出土(朝日新聞)
万葉集の木簡が初出土 紫香楽宮、難波津の歌も(MSN産経ニュース)
優雅な歌会「文化首都」示す 紫香楽宮・木簡和歌確認(京都新聞)
万葉集成立前?に万葉集収録の歌を書いた木簡が出土
[asahi.com 2008年05月22日]
滋賀県甲賀市教委は22日、奈良時代に聖武天皇が造営した紫香楽宮(しがらきのみや)跡とされる同市信楽町の宮町遺跡(8世紀中ごろ)から、国内最古の歌集の万葉集の歌が墨書された木簡が見つかったと発表した。万葉集収録の歌が書かれた木簡が確認されたのは初めて。出土した他の木簡に記載された年号から、この歌が収められた万葉集16巻の成立(750年前後)より数年から十数年前に書かれたとみられる。
木簡は上下2つに分かれて出土し、上部は長さ7.9センチ、下部は14センチ、いずれも幅2.2センチ、厚さ1ミリ。上部の片側には漢字1字を1音で表記する万葉仮名で「阿佐可夜(あさかや)」、下部には「流夜真(るやま)」と書かれている。万葉集16巻には、陸奥国に派遣された葛城王をもてなした前(さき)の采女(うねめ)(元の女官)が、王の心を解きほぐすため宴席で詠んだ「安積香山(あさかやま)影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに」が収録されている。
別の片側にも「奈迩波ツ尓(なにはつに)」「夜己能波(やこのは)」「由己(ゆご)」とあり、10世紀初めの平安時代に編さんされた古今和歌集収録の「難波津(なにわづ)に咲くや木の花冬こもり今は春べと咲くや木の花」の一部とみられる。「難波津」の歌が書かれた木簡は大阪市中央区の難波宮跡などで見つかっている。
木簡の元の長さは文字の大きさから約60センチと推定。宮廷の儀式や歌会などで用いられた可能性が高いとみている。
市教委は25日午後1時から同市内の信楽中央公民館で報告会を開き、木簡を展示する。定員150人(先着順)。26?30日にも同市内の宮町多目的集会施設で展示する。いずれも無料。◇
〈上野誠・奈良大教授(万葉文化論)の話〉 万葉集の原本は見つかっておらず、これまでの研究はいわば写本の比較にとどまっていた。今回の発見は、人々の間に広まっていた歌が書き記され、歌集になるという万葉集の一連の成立過程を明らかにする上で極めて重要な発見だ。
万葉集の木簡が初出土 紫香楽宮、難波津の歌も
[MSN産経ニュース 2008.5.22 17:15]
奈良時代に聖武天皇が造営した滋賀県甲賀市信楽町宮町の紫香楽宮(しがらきのみや)(742?745)跡から平成9年に出土した木簡の両面に、それぞれ和歌が墨書され、うち1首が万葉歌だったことが分かり、同市教委が22日、発表した。4500首以上の歌を収録している『万葉集』だが、木簡に記された歌が見つかったのは初めて。木簡は『万葉集』の成立以前に書かれた生々しいドキュメント史料で、歌集成立の過程などを探る画期的な発見として注目を集めそうだ。
木簡に記されていたのは、『万葉集』巻16に収録されている「安積香山(あさかやま) 影さへ見ゆる山の井の 浅き心を我が思はなくに」と、「難波津(なにわづ)の歌」として知られる「難波津に 咲くや木の花冬こもり 今を春べと咲くや木の花」の一部。いずれも漢字を仮名的に用いた万葉仮名で書かれている。
2つの断片に分かれ、幅はいずれも2.2センチ、長さはそれぞれ14センチと7.9センチ。文字の大きさなどから、もともとは幅3センチ、長さ約60センチほどと推定できる。厚さは約1ミリ。「安積香山の歌」は7文字が、「難波津の歌」は13文字が残っていた。同市教委は、儀式や宴会で歌を読むときに使われたとみている。
2首は10世紀初頭、紀貫之らが編纂(へんさん)した『古今和歌集』の「仮名序」で「歌の父母(ちちはは)」と紹介されているポピュラーな歌。『源氏物語』や『枕草子』などでも手習いの歌としてセットで登場する。今回の発見で、このセット関係が『古今和歌集』を150年さかのぼることになり、これまで謎だった2つの歌の結びつきについても議論が高まりそうだ。
安積香山は福島県郡山市にある山で、万葉集の詞書(ことばがき)によると、この歌は東北に派遣された葛城王(かつらぎのおおきみ)(のちの橘諸兄(たちばなのもろえ))が国司の粗略な接待に気を悪くしたが、応対した采女(うねめ)がこの歌を詠み、機嫌を直したと伝えられている。
「難波津の歌」は、仁徳天皇の治世の繁栄を願った歌とされる。万葉集には収められていないが、奈良文化財研究所によると、この歌が記された木簡は7世紀後半以降の30例あまり確認。古くから有名な歌だった。
木簡が出土したのは、宮殿などの遺構が確認されている紫香楽宮中枢部の西側の脇を流れる基幹排水路跡。同じ個所から出土した年号のある木簡13点から、天平15(743)年秋から745年春にかけて棄てられたと推定できるという。
現地説明会の代わりに、5月25日午後1時から、甲賀市信楽町長野の信楽中央公民館で、「万葉歌木簡記念講演会」が開かれる。万葉集 現存最古の歌集。全20巻からなり、仁徳天皇から759年までの和歌約4500首が収録。大伴家持や橘諸兄らが編集したとされる。雑歌(ぞうか)、相聞歌(そうもんか)、挽歌(ばんか)に大別される。素朴で力強い歌風が特徴で、文学的評価は高い。「巻1」から「巻15」までが、745年以降の数年間に成立。今回の木簡と同じ歌が収録された「巻16」と家持の日記がその後に増補され、782?783年ごろに全20巻が成立したとする考えが有力。
紫香楽宮 天平14(742)年、聖武天皇が近江国甲賀郡(現在の滋賀県甲賀市)に造営した離宮。翌年ここで、大仏造立を発願した。745年に「新京」と呼ばれたが、同年に平城京に還都した。宮町地区で昭和58年から行われた発掘調査で、朝堂など中心施設が検出された。これまでに平城京に次ぐ約7000点以上の木簡が出土している。
優雅な歌会「文化首都」示す 紫香楽宮・木簡和歌確認
[京都新聞 2008年5月22日]
聖武天皇が造営した紫香楽宮(滋賀県甲賀市信楽町)に歌の世界から新たなスポットが当たった。万葉の歌を記した木簡の発見に、研究者らは「紫香楽宮を舞台に優雅な歌会が繰り広げられていたのでは」と往時の都の様子を思い描く。
木簡は文字の大きさなどから推定して全長約60センチ。木簡としては大きめ。「安積山」の歌文字を発見した栄原永遠男・大阪市立大大学院教授(古代史)は「歌会などの儀式で、はっきりと詠み上げるための大きさであり、紫香楽宮で儀式や歌会が催されていたことを示す」とみる。
「歌木簡は朝堂などを舞台にした公式の場で使われたのではないか」と語るのは、黒崎直・富山大教授(考古学)。「歌会で1文字ずつゆっくりと詠み上げたのだろう」と当時の官人らの優雅な姿に思いをはせる。
これまでの調査で、紫香楽宮は本格的な都だったことが明らかになっている。同宮跡調査委員長の小笠原好彦・滋賀大名誉教授は「教養として和歌を詠むような当時の官人層が紫香楽宮に入ってきていた証明の1つ」と説明。同宮が政治や宗教とともに、「文化首都」としても重要な役割を果たしていた、と推察する。
一方、紫香楽宮の朝堂跡などが見つかった宮町遺跡からは4年前、皿の底に「歌一首」と書かれた墨書土器が出土。続日本紀によると、万葉集を編さんしたとされる奈良時代の歌人大伴家持(おおともやかもち)が官位を授けられたのは紫香楽宮だった。調査を担当する甲賀市教委の鈴木良章係長は「因縁を感じる」と驚く。
万葉集や古今和歌集に詳しい山崎健司・熊本県立大教授(日本古代文学)は、家持の年齢などから判断して、紫香楽宮が万葉集編さんの舞台とは考えにくいとしながらも、「ほかに歌木簡が見つかればその可能性も出てくる」と話している。