もがく貧困世代―「毎日新聞」記者の目が『蟹工船』取り上げる

「毎日新聞」4面の「記者の目」欄(6/3付)で、学芸部の鈴木英生記者が「もがく貧困世代の『蟹工船』ブーム」と題して、『蟹工船』ブームの背景を取り上げています。

【記者の目】もがく貧困世代の「蟹工船」ブーム(毎日新聞)

【記者の目】もがく貧困世代の「蟹工船」ブーム=鈴木英生(学芸部)
[毎日新聞 2008年6月3日付朝刊]

◇「これ今と同じ」の涙、奔流に――今後の議論に注目

 「これって、今とまるで同じ……」。作家の雨宮処凛(かりん)さん(33)は昨年12月17日夜、プロレタリア文学作家、小林多喜二(1903?33年)の代表作「蟹工船(かにこうせん)」を初めて読み、涙を落とした。内容が、ワーキングプアの現状や自身が関係するフリーター労働運動と二重写しに見えたからだ。
 半年後、雨宮さんの涙は奔流となった。新潮文庫の「蟹工船・党生活者」は今年、例年の47倍を超す23万7000部を増刷し、オリコンの文庫ランキング(5月19?25日)で11位と大健闘している。この動き、雨宮さんとほぼ同い年の私には、旧来の左翼の思想や運動を知らない世代が、時代の羅針盤を求めてもがく現状の反映に思える。
 新潮社によると、「蟹工船」の新しい読者層は19?29歳が30%、30?49歳が45%。推計で5割強が30代以下だ。中でも、20代半ばから30代半ばは、平成不況のただ中で社会に出た世代である。派遣労働者などのワーキングプアが多い。いわゆる「ネット右翼」も、この世代が中心とされる。
 「蟹工船」は1929年に書かれた作品だ。カムチャツカ沖でカニを捕り缶詰に加工する船の労働者が、過酷な労働条件に怒り、立ち上がる話である。雨宮さんは「蟹工船」を読んだ翌日、作家の高橋源一郎さん(57)と対談した。雨宮さんが語った感想に高橋さんも共感。この対談を今年1月9日、毎日新聞朝刊文化面(東京本社版)に掲載したのがきっかけになり、ブームが始まった。
 雨宮さんは「今、『蟹工船』のように露骨な奴隷労働はないが、同じように逃げられない状況なら確かにある」と話す。雨宮さんによれば、派遣労働の現場では寮の備品にいちいちレンタル料を取られ、まともに給料が残らない例もある。寮の合鍵を使って、労働者が逃げないか部屋をチェックする会社もある。過酷な労働を「蟹工」と表現する若者もいるという。
 フリーライターの赤木智弘さん(32)は「『蟹工船』の世界は、結婚している労働者がいるなど、今のフリーターより恵まれて見える面もある」とさえ言う。
 それにしても、なぜ80年も前の小説が読まれるのか。批評家の大澤信亮(のぶあき)さん(32)は「貧困の現実に迫る言葉を持つ小説が『蟹工船』しかなかったから」と解説する。大澤さんによれば、戦後、労働や貧困を主題とした文学作品はほとんどなく、評論でも貧困は現実の「外の問題」としてしか扱われなかった。「貧困をとらえる言葉がなかったからこそ、若者の貧困問題は数年前まで『自己責任』のひと言で片づけられてきたのでは」(大澤さん)
 興味深いのは、左翼文学の古典を読んでいるのが、小泉純一郎元首相の靖国参拝に熱狂したのと同じ世代でもあることだ。04年に東京で始まったフリーターらのメーデーに、かつて右翼団体にいた雨宮さんも加わり、今年は全国14都市へ広がった。年長者の中には、この世代が右から左へ極端に流れたと危惧(きぐ)する人もいるようだ。だが、この見方には、同じ世代の人間として違和感がある。
 赤木さんは「私たちは、共感できるなら右翼でも左翼でもいいと思っている」と話す。そもそもこの世代は直接の左翼体験が、まずない。大半は浅間山荘事件(72年)の後に生まれ、自民党と社会党の「55年体制」の記憶すら怪しい人もいる。マルクスなどの思想もほとんど知らない。
 一回り年上の苅部直(かるべただし)・東京大教授(43)も「彼らは、上の世代が自分たちの抑圧感を理解せずに、きれい事を並べることへの反感をイデオロギーに結びつけてきた。その意味で、前に小林よしのり氏の漫画『戦争論』がはやったことと『蟹工船』のブームは近い」と見る。ただ、今の「左傾化」は「実際の悲惨な生活がある点が、歴史教科書問題の時と違う」と評価する。
 では、「蟹工船」ブームが象徴する動きは、どこへ行き着くのか。苅部教授は「雨宮さんらの論者は、世代意識が強すぎたり、左翼的表現を嫌う人が多い上の世代の心情を知らない面があるように見える」と危うさも指摘する。そのうえで、「ホームレスや障害者など他の問題との接点も考えているようだ。雇用問題で、より普遍的な提言ができれば、他の世代にも味方が広がるだろう彼らには問題提起をする力があると思う」と応援する。
 苅部教授に同感だ。私も引き続き雨宮さんらの議論に注目し、紹介していきたい。貧困や雇用を社会全体で考えることは、どの世代にも有益なはずだ。一部が「団塊ジュニア」と重なり人数も多いこの世代の動向は、今後の日本の行方に大きく影響するだろうから。

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