マルクス『1857-58年草稿』を読む(続き)

頭から順番に読んでいても仕方がないので、ちょっと気づいたことをメモ。メモの中味はぐちゃぐちゃ… (-_-;)

事項索引によると、剰余価値(Mehrwert)の初出は、<1>383ページ。
その次は、387ページ。

場所としては、「資本にかんする章」第3ノートの19ページ。「労働過程と価値増殖過程」の途中。

—–

<1>389ページ上段。括り記号({)で始まるパラグラフ。

「資本の概念の形成にさいして展開されるべき第3の契機」として、「本源的蓄積」「蓄積に対立する対象のない労働」をあげている。
第1の契機は、「流通から発生し、また流通を前提とするものとして」の価値。「資本の単純な概念」。
第2の契機は、「生産の前提であるとともにその結果でもある資本」。
第3の契機は、資本を流通と生産との規定された統一として措定する。

本源的蓄積は、「諸資本の蓄積」とは区別される。なぜなら、資本の蓄積は「諸資本、つまり定在するものとしての資本の関係を前提し、したがってまた労働、諸価格(固定資本と流動資本)、利子および利潤にたいする資本の諸関連をも想定している」から。
「資本の生成のために必要であり、したがってすでに前提として――一つの契機として――資本の概念のうちにとり込まれている、この蓄積は、資本としてすでに生成した資本の蓄積――そこではすでに諸資本が現存していなければならない――とは本質的に区別されるべきである。

ここまでで、括り記号が閉じられている。

その次。390ページ上段、本文後ろから7行目?同下段、7行目まで。{}で括られている部分。

資本は次のことを前提とする。
(1)生産過程一般
(2)流通
(3)両者の規定された統一としての資本

こう考察した上で、マルクスは、次の段落でこう書いている。〔<1>、390ページ〕

 {ほかのことはすべて、とりとめないおしゃべりである。生産一般にかんする第一篇と、交換価値一般にかんする第二篇の第一章にどのような諸規定がとりいれられるべきかは、展開全体の結果のところで、またその結果としてはじめて明らかにできることである。…

突然、話は「バスティアとケアリ」に戻る。

「バスティアとケアリ」をマルクスが書いた理由。

 近代の経済学の歴史は、リカードウとシスモンディをもって終わる。この対立者たち……にあってのこの事情は、近代の経済学の歴史が、17世紀末に、ペティとボアギュベールをもって始まるのとまったく同様である。これ以降の経済学の文献は、……諸説を折衷し融合してつくった概論ものとか、あるいは……ここの分野での研究をより深めたものとか……、あるいは、より広範な公衆のために、また、自由貿易や保護貿易にかんする諸著作のように、時事問題を実際的に解決するために、経済学の古い論争問題をむしかえしてみせたものとか……、そうしたものは、まったく、亜流の文献に過ぎず、古い議論をむしかえし、体裁をいっそうとりつくろい、素材をより広くとりいれ、強調し、通俗化し、概括し、細部を仕上げたものにすぎない。……
 ただアメリカ人ケアリと、そのケアリに依存していることを自ら認めているフランス人バスティアの著作だけは例外をなしているかのようにみえる。両人は、経済学にたいする対立物――社会主義と共産主義――は、その理論的前提を古典派経済学そのものの諸著書、とくにそのもっとも完成された最後の表現とみなされるべきリカードウのなかに見いだしている、と把握する。それゆえ両人は、ブルジョア社会が近代の経済学のなかに歴史的に獲得したその理論的表現を謬見とし、これに反対すること、そして古典派経済学が素朴に生産諸関係の敵対性を書きしるしたところで、その調和性を証明することが必要だと考える。両人がペンをとる出発点となっているまったく異なった、相反する国民的環境は、その相違にもかかわらず、彼らを同一の志向へと駆りたてる。(大月書店『資本論草稿集』<1>、3-5ページ)

マルクスがアメリカ社会を特徴づけているところ。

彼〔ケアリ〕が属する国は、ブルジョア社会が、封建制度の土台の上にではなく、それ自身で始まったところである。この国では、ブルジョア社会は、数世紀にもわたる昔からの運動ののちに生き残った結果として現われたものではなく、一つの新しい運動の出発点として現われた。そこでは国家が、以前のあらゆる諸国民の形成の場合と違って、最初からブルジョア社会に、その生産に従属していたのであり、国家自体が自己目的であるかのような口実をつくることはまったくできなかった。また最後に、この国では、ブルジョア社会みずから、古い世界の生産諸力を新しい世界の巨大な自然領域に結びつけて、運動の未曾有の規模と未だかつて無い自由さをもって発展し、自然力の征服においてはそれまでの一切の労働を、はるかに追い越してしまったのであり、そして結局そこでは、ブルジョア社会の諸矛盾それ自身が消滅してゆく契機としてだけしか、現われていない。この巨大な新しい世界が、これほど急速に、これほどめざましく、めでたく発展することを許したその生産諸関係は、ケアリによって社会的な生産と交易の永久的な正常な関係とみなされるが、それがヨーロッパ、とくにイギリス……では、残存している封建時代の諸制限によって妨害され侵害されているに過ぎず、またこの関係についてイギリスの経済学者たちは、偶然に転倒しているものをその内在的な性格と混同することによって、この関係をゆがめ誤って考察し、模写し、一般化したように、ケアリには思われるのである……。〔同、5-6ページ〕

ブルジョア社会の自然的な諸関係にたいしておよぼす因襲的な、ブルジョア社会そのものの胎内から生じるのではない諸影響の撹乱的作用は、ケアリにあっては、結局、国家のブルジョア社会におよぼす影響、その干渉と侵害に帰着する。……ブルジョア的諸関係をそれ自体としてみるならば、つまり国家のおよぼす諸影響を除いてみるならば、実際、ブルジョア的諸関係はいつでも、ブルジョア経済の調和的諸法則を確証するであろうというのである。〔同、6ページ〕

ばらばらに抜き書き。未来社会における「自由に処分できる時間」の増大について

 {社会一般と社会のすべての構成員にとっての必要労働時間以外の多くの自由に処分できる時間(すなわち個々人の生産諸力を、それゆえにまた社会の生産諸力を十分に発展させるための余地)の創造――こうした非労働時間の創造は、資本の立場のうえでは、少数者にとっての非労働時間、自由時間として現われるのであって、それ以前のすべての段階の立場の上でもそうであったのと同様である。資本が付け加えるのは、それが大衆の剰余労働時間を、技能と科学とのあらゆる手段によって増加させるということである。なぜなら、資本の富は直接に剰余労働時間の取得にあるからであり、それというのも、資本の目的は直接に価値であり、使用価値ではないのだからである。資本はこのように、図らずも、社会の自由に処分できる時間という手段を創造することに、即ち、社会全体のための労働時間を減少してゆく最小限に縮減し、こうして万人の時間を彼ら自身の発展のために解放するための手段を創造することに役立つのである。
 だが、資本の傾向はつねに、一方では、自由に処分できる時間を創造することであるが、他方では、それを剰余労働に転化することである。資本は、前者の点でうまく成功しすぎると、剰余生産に苦しむことになるのであり、その場合、剰余労働が資本によって価値実現されえないので、必要労働が中断される〔恐慌のこと――引用者〕。この矛盾が発展すればするほど、ますますはっきりしてくるのは、清庵諸力の増大はもはや他人の剰余労働の取得にしばりつけられたままでいることができないということ、労働者大衆自身が自分たちの剰余労働を取得しなければならないということである。
 彼らがそれらをやり遂げたならば〔未来社会に移行したならば――引用者〕、――そしてそれとともに、自由に処分できる時間が対立的な存在をもつことをやめるならば――、一方では、必要労働時間が社会的個人の諸欲求をその尺度とすることになるであろうし、他方では、社会的生産力の発展がきわめて急速に増大し、その結果として、生産はいまや万人の富を考量したものであるにもかかわらず、万人の自由に処分できる時間が増大するであろう。というのも、現実の富とは、すべての個人の発展した生産力だからである。そうなれば、富の尺度は、もはや労働時間ではけっしてなく、自由に処分できる時間である。富の尺度としての労働時間は、富そのものを、窮乏にもとづくものとして措定し、また自由に処分できる時間を、ただ剰余労働との対立――言い換えれば、個人の全時間を労働時間として措定すること、それゆえ個人をたんなる労働者に格下げし、労働のもとに包摂すること――のなかでのみ、またそれを通じてのみ存在するものとして措定する。だからこそ、いまや、最も発展した機械装置が労働者に、未開人より長く、即ち労働者自身が最も簡単で最も粗野な道具をもってやっていたのよりも長く労働することを強いるのである。}〔『資本論草稿集』<2>、494ページ上段?495ページ上段。原文は改行なし〕

 {大工業が発展するのにつれて、それがよって立つ土台である他人の労働時間の取得が富を形成したり創造したりすることをやめるのと同様に、大工業の発展とともに、直接的労働は生産のそのような土台として存在することをやめる。なぜなら、直接的労働は、一面から見れば、ますます監視と制御の活動に転化されるからであるが、さらにまた、生産物がばらばらな直接的生産物であることをやめて、むしろ社会的活動の結合〔Combination〕が生産者として現われるからである。……直接的交換では、ばらばらの直接的労働は、ある特殊的生産物または生産物部分のかたちで実現されたものとして現われるのであって、この労働の共同的な社会的性格――一般的労働の対象化および一般的欲望の充足としてのそれの性格――は、ただ、交換によって措定されるにすぎない。
 これにたいして、大工業の生産過程では、一方で、自動的過程にまで発展したおる同手段の生産力においては、自然諸力を社会的理性に従わせることが前提なのであり、また他方で、直接的定在における個々人の労働は止揚された個別的労働として、即ち社会的労働として措定されているのである。こうしてこの生産様式の他方の土台〔即ち、他人労働の取得という一方の土台にたいする、直接的労働という他方の土台――訳者挿入〕がなくなるのである。}〔同前、496ページ〕

 {真実の経済――節約――は労働時間の節約(生産費用の最小限(と最小限への縮減))にある。だが、この節約は生産力の発展と一致している。だからそれは、享受を断念することではけっしてなく、生産のための力、能力を発展させること、だからまた享受の能力は享受のための条件、したがって享受の第一の手段であり、生産力である。労働時間の節約は、自由な時間の増大、つまり個人の完全な発展のための時間の増大に等しく、またこの発展はそれ自身がこれまた最大の生産力として、労働の生産力に反作用を及ぼす。労働時間の節約は、直接的生産過程の視点から、固定資本の生産とみなすことができる。そして人間それ自身画素の固定資本なのである。ちなみに、直接的な労働時間そのものが、自由な時間と抽象的に対立したまま――ブルジョア経済の視点からはそのようにみえる――ではありえない、ということは自明である。労働は、フーリエが望んでいるのとは違って、遊びとはなりえないが、そのフーリエが、分配ではなく生産様式それ自体をより高度な形態のなかで止揚することこそ究極の目的だ、と明言したことは、どこまでも彼の偉大な功績である。余暇時間でもあれば、高度な活動のための時間でもある。自由な時間は、もちろんそれの持ち手を、これまでとは違った主体に転化してしまうのであって、それからは彼は直接的生産過程にも、このような新たな主体として入ってゆくのである。この直接的生産過程こそ、成長中の人間については訓育であると同時に、成長した人間については錬磨であり、実験科学であり、物質的には創造的で、かつ自己を対象化する科学であって、この成長した人間の頭脳のなかに、社会の蓄積された知識が存在するのである。この両者にとって、労働が農業でのように実際に手を下すことと自由な運動とを必要とするかぎりでは、労働は同時に体育でもある。……〔同前、499ページ下段?500ページ上段〕

ところで、この7冊のノートの索引。これは『資本論草稿集』<3>の最初に収録されている。

[第1草案]

I 価値
II 貨幣
 一般論。価値から貨幣への移行。
 貨幣の3つの規定。
  1 尺度としての貨幣
  2 交換手段としての貨幣、または単純な流通
  3 貨幣としての貨幣
  4 貨幣の担い手としての貴金属
  5 単純流通において減少する領有法則
  6 貨幣の資本への移行
III 資本一般
 貨幣の資本への移行
 1 資本の生産過程
  a 資本と労働能力との交換
  b 絶対的剰余価値
  c 相対的剰余価値
  d 本源的蓄積
    (資本と賃労働の関係の諸前提)。
  e 領有法則の展開
 2 資本の流通過程

[第2草案]

1 尺度しての貨幣
2 交換手段としての貨幣
貨幣としての貨幣

この後に、『経済学批判』の原初稿が収められている。目次は以下のとおり。

第2章 貨幣
 2 支払手段としての貨幣
 3 国際的な支払手段および購買手段としての、世界鋳貨としての貨幣
 4 貨幣関係の担い手としての貴金属
 5 単純流通における領有法則の現象
 6 資本への移行
第3章 資本
 A 資本の生産過程
  1 貨幣の資本への転化

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