さて、大月版『資本論草稿集』第1分冊には、『57-58年草稿』以外に、3つの文献が収められている。
- バスティアとケアリ
- 序説
- ダリモン『銀行の改革について』
経済学草稿といえる部分が始まるは、p.112から。ただし、マルクスの問題意識としては、ダリモン批判以来の「労働貨幣・時間票券」論が続いている。
序説について
マルクスは、生産一般から始める。「生産一般」から始める理由をマルクスは次のように説明している。
生産を問題とする場合には、いつでも一定の社会的発展段階での生産――社会的な諸個人の生産を問題とする。(28ページ、上段)
にもかかわらず、生産一般を問題にするのは、「共通なものを際立たせる」ためである。
生産上のすべての時代には、ある種の表式が共通にあり、共通の規定がある。生産一般は1つの中小ではあるが、しかしそれが共通なものを現実に際立たせ、確定し、したがってまたわれわれから反復の労を省いてくれるかぎりでは、1つの合理的な抽象である。(28ページ、上段)
しかしながら、もっとも発展した言語がもっとも未発展な言語と、諸々の法則や規定を共通にしているとしても、何がその発展の意味をなしているかといえば、、それはまさにその一般的なものと共通なものからの区別である。生産一般にあてはまる諸規定がまさに分離されなければならないのは、統一性……のために、本質的な差異を忘れないようにするためである。これを忘れるところに、例えば現存の社会的諸関係の永遠性と調和性とを証明する近代の経済学者たちの知恵がつきるのである。(28ページ、下段)
さらにマルクスは、「生産一般がないとすれば、一般的生産もない」と指摘して、現実に存在する生産はいつも1つの特殊な生産部門であると指摘。生産の一般的諸規定が、特殊な生産形態に対してもつ関係は、もっとあとで論じられるべきだとする(29ページ、下段)。
そうやって考えてくると、生産一般として何を取り上げるのか? マルクスは、次のように指摘する。
まず第1に、「生産の一般的諸条件」。
- 生産が可能であるために欠くことのできない諸条件
- 生産の増進を速めたり、遅くしたりする諸条件
次に、生産と分配との関係。所有とは何か。
しかし、ここまで議論してきて、マルクスは、次のように結論づける。つまり、生産一般をいくら論じてみても、歴史的具体的な生産諸段階は理解できない、というのだ。事実上の、「生産一般」論の破綻。
要約すると――すべての生産段階に共通する諸規定があり、それらは思考によって一般的諸規定として確定されるのであるが、しかし、いわゆる、すべての生産の、一般的諸条件とは、以上のような抽象的諸契機にほかならないのであって、それらによっては現実的歴史的な生産諸段階はどれも理解できない。(33ページ、上段)
3、経済学の方法について。
これは、マルクス自身が経済学の研究を始める前に書いたもの。これを書いたときには、マルクスは、これで経済学の展開ができると考えたし、それにもとづいて、5項目のプランも立てた(62ページ、上段から下段にかけて)。しかし、このプランは放棄される。
大きくいえば、マルクスのいう下向と上向という方法は、科学的な方法だとしても、しかし、マルクス自身、この段階ではまだ本当の意味で、もっとも単純で抽象的なカテゴリーが何であるかつかんでいなかった(「生産一般」を考えたが放棄)。だから、実際に経済学の研究をすすめ、『資本論』の叙述をすすめてみると、「序説」の3、経済学の方法、どおりになっていないところがいっぱいある。この方法論については、それをふまえて読むことが大事である。
ところで、「序説」の63ページ、下段に「弁証法」という言葉が肯定的な意味で登場する。
生産力(生産手段)と生産関係という諸概念の弁証法。その限界が規定されるべきであるところの、そして実在的区別を止揚しないところの1つの弁証法。(63ページ、下段)
これは、40年代の『聖家族』『哲学の貧困』で、弁証法という言葉を、青年ドイツ派やプルードン批判のための「悪罵」として使うようになって以来、初めて、肯定的な意味で「弁証法」という言葉が用いられた例である。
なお、ここでいう「生産力と生産関係という概念の弁証法」というのは、『「経済学批判」序言』でも展開されている、いわゆる「桎梏」論のこと。この問題意識は「序説」4の見出しにも見られることは、前回、指摘した。
同じ「序説」の35ページ、下段にも「弁証法」という言葉が登場するが、ここは、まだ否定的な意味で使っている。
経済学者たちは生産を、あまりにもそれだkを自己目的として注目しすぎるという非難ほどありふれたものはない。分配も同じように重要だというのである。この非難の根底には、分配は生産と並んで、自立的な独立の分野をなしおわっているという経済学上の想念がある。あるいはまた、諸契機がそれらの統一においてとらえられていないという。まるでこの引き裂くことが、現実から教科書に入ってきたものではなく、逆に教科書から現実におしいってきたものであるかのように、そしてここでの問題が、諸概念の弁証法的調整であって、実在的諸関係の把握ではないかのように! (35ページ、下段)
次。ダリモン『銀行の改革について』
マルクスがこれを書いたのは、1857年10月半ばごろ。ダリモンの本が出たのは1856年。実は、プルードンが1851年に『19世紀における革命の一般理念』 ((中央公論社『世界の名著』第42巻<プルードン、バクーニン、クロポトキン>に収められているが部分訳で、第5研究、第6研究は省かれている。))という本を出して、そのなかの「第5研究 社会の生産」「第6研究 経済的諸力の組織化」で、銀行や信用の改革による社会変革を述べた ((同書については、マルクス、エンゲルスも盛んに手紙のやりとりをしている。最初、マルクスが1851年7月31日付の手紙でエンゲルスに「プルードンの最近の著書は君はたぶんもう読んでいるのではなかろうか?」と尋ねたが、エンゲルスは、プルードンの新しい著作が出たことを知らず、折り返しの手紙(8月1日付)で「君がプルードンの新著と言っているのはなんだろうか?」と問い直している。そこで8月8日付の手紙で、マルクスが、全集で約5ページにわたって、『19世紀における革命の一般的理念』の内容を説明している(全集第27巻、254ページ以下)。8月14日の手紙では、マルクスは、「僕は、金策のためだが、この本について2-3ボーゲン書きたいと思っている」と書き、プルードンの「思いつき」は「共産主義にたいする反駁」であり「共産主義から多くのものを盗み取っている」として、プルードンの「利子廃止」論について「『健全な』ブルジョア社会をはじめからやり直すことができるようにするための手段」と批判している。51年10月15日には、エンゲルスは「ちょうど今プルードンから必要な要約をつくることに取りかかっている」と書いている。この要約は全集補巻3に収録されている。))。ダリモンは、このプルードンの弟子で、『銀行の改革について』は、いわばプルードンの「利子廃止」論をさらに展開したものだった。だから、マルクスは、その批判を考えた、と言う訳だ。
ダリモン批判の中で、マルクスは、次のように書いている。
真の問題はこうである。すなわち、ブルジョア的な交換制度そのものが1つの特有な交換用具を必要とするのではないか? その制度がすべての諸価値にたいする1つの特殊な等価物を必然的に作り出すのではないのか? このような交換用具という、言い換えればこのような等価物というある1つの形態は、他の形態にくらべてより取り扱いやすく、より適切なものであり、それにまつわる不便もより少ないものであるかも知れない。だが、1つの特殊的な交換用具、つまり特殊的であるにもかかわらず一般的でもあるような1つの等価物の存在から生じる不便は、たとえ形態は異なるにせよ、どの形態のうちにも再現してくるにちがいあるまい。このような問題そのものを、ダリモンはもちろん夢中になって飛び越えてゆく。貨幣を廃止せよ、そして貨幣を廃止するな! 金銀が貨幣としてそれらの排他性によって持っている排他的な特権を廃止せよ、だがすべての商品を貨幣にせよ。つまり、排他性から切り離されてしまってもはや存在しないような一性質を、すべての商品に共通にあたえよ。(『資本論草稿集』第1分冊、89ページ)
同じく、99ページ下段では、マルクスは次のようにダリモンを批判する。
もしかりに問題がこのように定式化されていたとすれば、諸価格の騰落を解消するという課題は、たちまち解決してしまったことになる。諸価格の騰落の解消とは、即ち諸価格を使用することである。これは交換価値を廃棄することである。この問題は、すなわち社会のブルジョア的組織に照応する交換を廃棄することである。この最後の問題は、即ちブルジョア社会を経済的に変革することである。そうだとすれば、銀行の「変改」や、または合理的な「貨幣制度」の創設によって、ブルジョア社会の弊害を除去することのできないことは、初めから分かっていたことであろう。(同前、99-100ページ)
ということで、「労働貨幣」「労働時間票券」の批判が展開される。
- 時間票券の兌換性――104ページ下段?。
- 時間票券論者たちの第1の根本幻想――「時間票券論者たちの第1の根本幻想は、彼らが実質価値と市場価値とのあいだの、交換価値と価格とのあいだの名目的相違を廃止することによって…彼らはまた、価格と価値のあいだの現実的区別と矛盾とを除去するという点にある」(107ページ上段)。
112ページから、『草稿』が始まる。しかし、前にも書いたとおり、ダリモン批判、時間票券論批判は、引き続き繰り返し登場する。たとえば、119ページ下段。130ページ下段、区切り線の後から、ふたたび時間票券の批判に戻る(?135ページ上段5行目まで)。
112ページから始まった商品論・交換価値論・貨幣論は、128ページ上段まで続く。途中、
- 120ページ上段で、「貨幣の諸性質」として、<1>商品交換の尺度、<2>交換手段、<3>諸商品の代表物、<4>特殊な諸商品と並ぶ一般的商品。<1>、<2>はそのまま『資本論』にも出てくる。<4>は、いわゆる貨幣としての貨幣のことだろう。<3>は、支払手段のことか?
- 120ページ下段。貨幣の権力。交換関係が、生産者にたいして外的な、彼らに依存しない力として基礎を固める。生産者にたいして疎遠な関係となる。あらゆる諸関係の貨幣諸関係への転化。
- 121ページ上段の後ろから4行目からの段落は、とりあえずそこまでのところの「まとめ」にあたる。
- 121ページ下段?。4つの問題。商品・貨幣関係の矛盾。
- 商品が二重に存在している。商品に潜在する交換価値と、顕在化された交換価値(貨幣)の対立。生産物としての商品の特殊的性質と交換価値としての商品の一般的性質のあいだの矛盾。商品の引換可能性。
- 交換が2つの独立した行為に分裂する。購買と販売。以前の直接的な相等性にかわって、不断の均等化の運動が現われる。不断の均等化は不断の不均等化を前提している。
- 交換の全運動それ自体が、交換者たちから分離する。商人身分の登場。交換の二重化――消費のための交換と交換のための交換――による新しい不釣り合い。最終的には、消費者が交換価値を償わなければならない。商業恐慌。さらに本来の商業から貨幣営業の分離。
- 交換価値は、すべての特殊的商品と並んで、一般的商品として貨幣のかたちで現われるが、それと同時に、そのことによって同時に項kなんかちは、すべての他の商品と並んで特殊的商品として貨幣のかたちで現われる。貨幣はそれ自身1つの特殊的商品である。だから、交換においては、一般的無条件交換可能性と矛盾する特殊的な交換所条件に委ねられる。「この点に実際界で現われてくる諸矛盾の新しい源泉がある」(127ページ)。
結論として、「直接的商品交換の諸困難を克服するのは、これらの諸困難を一般化することによってである」という『資本論』にも共通することが指摘されている。
ここまでが、『草稿』での商品・交換価値・貨幣論。
そのすぐ直後に、()でくくりながら、マルクスは、次のような注意を書き込んでいる。
概念諸規定およびこれらの諸概念の弁証法だけしか問題とされていないかのような仮象を生み出す観念論的な叙述の様式を訂正することが、のちには必要となるだろう。
このあと、128ページ下段?130ページ上段までは、『エコノミスト』や『モーニング・スター』からの抜き書き。草稿の本文ではない。そして、そのあとは時間票券に戻っている。
『草稿』の次の部分は、135ページ上段から始まる。ここから、商品交換社会の生産者の相互依存性の話が展開される。「自由な個性」の話とか、「生産手段の共同的な僚友と管理の基礎の上に結合〔アソツィイールト〕している諸個人の自由な交換」(139-140ページ)、「普遍的に発達した個人」など、未来社会についての興味深い話がいろいろと展開されている。