池橋宏『稲作の起源』(講談社選書メチエ)。「照葉樹林文化」論批判。
イネの栽培は、焼き畑・陸稲から始まって、その後、水田・直播きが広がり、最後に今のように苗代を作って田植えをするという方法になったと、漠然と考えられているけれども、畑作から水田へという変化はなかなか大変。水田にして水をはるためには、耕作面を水平にしないといけないし、畦や用水路をつくるなど、技術的にもかなり高度なものが要求される。畑に潅漑をしていたら、自然と水田になった、というような簡単なものではない。
さらに困ったことに、イネは、種籾を直接水田に蒔いても、なかなか芽を出さない。だから、別に苗代をつくり、ある程度芽が成長したところで、移植する。つまり、水稲栽培の場合、最初から「田植え」という技術が必要なのだ。だから、畑作→水田・直蒔き→水田・田植え方式というように発達していった、とはいかないのだ。
さらに、もう1つ。いまでも、秋、稲刈りをしたあとの株から、新しいイネが芽吹くときがある。これを「蘖(ひこばえ)」というのだが、もともと野生のイネは多年草で株を作って生育していたのではないか、というのだ。だから古代人は、水辺で蓮やクワイを株分けしながら増やしたように、イネの親株からちょこちょこと小さい株を分けとってきて、それを移植して増やす、そういう形で稲作を始めたのではないか、というのである。
実際、日本では、中世あたりまで、稲作の中心は、谷地田(やちだ)だったと言われている。谷地田というのは、高台などにはいり込んでいる細い谷間にある田んぼのことだ。現在は、沖積平野が広く水田として開拓されているが、中世までは、こうしたところは低湿で、しばしば河川が氾濫を繰り返した。だから、それなりの排水設備をつくらなければならなかったし、河川の氾濫にたいしては治水施設が必要だった。しかし、中世までの技術では、それは無理。したがって、こうした地域が乾田化してゆくのは中世後半?近世だと言われている。
ところが、谷地田だと、もともと谷の奥では水が自然にわき出していて、潅漑をする必要がない。もともと水はけの悪いところだっただろうから、少し整地して畦を作って、上から順々に水を流すようにさえすれば、簡単に水田にできる。いまになってみると、山間の不便なところで、地味も悪いし、谷のわき水で水温も低く、けっして収量は多くないが、中世では、そういうところの方が低い技術でも開拓できる土地だったのだ。
池橋氏の説に従えば、もともとイネは、こうした湿地に株で自生していたもので、それを適当に株分けして増やしていったのが、人類最初の稲作だということになる。その株分けが、苗代・田植えになったと考えれば、無理なく、水田・水稲耕作が始まったと考えることができる。
さらに、稲作が最初から水田・水稲で始まったとすると、縄文時代に水田跡が出ない以上、縄文稲作は否定されることになる。イネ学の立場から見ると、プラント・オパールで縄文稲作を確認するというのは相当難しいらしい。
イネが多年草か一年草かというのは、いろいろ論争もあるそうだが、進化論的には、多年草→一年草という進化はありえても、一年草→多年草という進化は難しいらしい。また、イネというと必ず持ち出される「ジャポニカ」と「インディカ」の区別も、実際には、そんな単純ではないらしい。インドの畑作・陸稲(インディカ米)は、むしろ、派生して発生した栽培方法と考えるべきなのだそうだ。
こうやってまとめると、著者の主張は明快だが、本書のなかでは、議論はなかなかスッキリしない。とくに、照葉樹林農耕論への批判のときは、論鋒鋭いものがあるのだが、自説の論証となると、あちこち仮説に仮説を重ねるようなところもあって、いまいちスッキリしない。しかし、稲作の起源を考えるうえで、非常に重要な“発想の転換”であることは間違いない。
【書誌情報】
著者:池橋 宏(いけはし・ひろし)/書名:稲作の起源――イネ学から考古学への挑戦/出版社:講談社(講談社選書メチエ350)/発行年:2005年12月/定価:本体1700円+税/ISBN4-06-258350-x