『前衛』誌上で、不破哲三氏の「講座 マルクス、エンゲルス革命論研究」の掲載が始まりました。昨年おこなわれた研究講座の「誌上再現」ということになっていますが、連載第1回ですでに、研究講座のときよりさらに詳しく突っ込んで書かれている問題が出てきます。
その1つに、「ライン新聞」を舞台にしたマルクスの活動があります。マルクスは、1842年4月から「ライン新聞」に論説を掲載し始め、同10月には主筆として編集に全責任を負うことになりました。これによって、「ライン新聞」は面目を一新されました。
同紙でマルクスがたたかう目標としたものの1つに、プロイセンの検閲制度があります。そのために、マルクスは戦術も注意深く考えたのです。論文では、そのことを示すマルクスの手紙が2つあると指摘されていたので、その手紙を読んでみました。
1つは、1842年8月25日付のマルクスからオッペンハイム宛の手紙(『全集』第27巻、354-355ページ)。この手紙の中で、マルクスは、「自由人」たちの「中庸政策」論にたいする批判を展開しています。ちなみに、オッペンハイムは、このころの「ライン新聞」の発行責任者。
……この問題〔中庸政策論批判〕は冷静に論評されなければなりません。まず第1に、国家憲法についてのごく一般的な理論的論究は新聞よりも、まったく学問的な機関誌の方がふさわしいのです。真の理論は、具体的状況の中で、また目の前に存在する諸関係に即して明らかにされ、解明されなければなりません。
しかし、ひとたびそうなってしまったからには、両者〔国家憲法についての理論的論究と具体的な批判のことか?〕ともに考慮されるべきです。われわれが他の日刊新聞と反目するあらゆる機会をとらえて、遅かれ早かれ連中〔プロイセンの検閲官たち〕はこの問題でわれわれを非難することができるようになるでしょう。国家の現状の礎石に反対するこのようにはっきりした意思表示は、検閲の強化と、さらに新聞の弾圧〔発行停止〕をもたらすかも知れません。……だがいずれにしてもわれわれは、立憲的制限のなかで一段一段と自由をたたかいとるために骨の折れる役割を負った多数の、しかもきわめて多数の自由思想的な実際家たちの不興を買っているのに、他方でわれわれは抽象の安楽椅子から彼らの矛盾をあらかじめ指摘してやったりしています。たしかに、中庸政策論の筆者が批判を促しているのは本当です。だが、1、われわれはこのような挑発に政府がどのようにこたえるかをすべて知っています。2、初めから同意を求められていないような批判に誰かが屈服したところで十分ではありません。彼が適切な場所を選んだかどうか疑問です。この問題が現実的国家の問題、実践的問題となったとき、初めて新聞はこのような問題にふさわしい場であるようになります。
事情が分からないと読みにくい手紙ですが、「中庸政策」とは、1842年6月に「ライン新聞」に数回にわたって掲載されたエトガル・バウアーの論文のこと。当時の自由主義者たちを、断固とした態度決定ができないことを「中庸政策」と呼んで、批判したものです。もちろんマルクスは、自由主義の妥協的な態度には反対でしたが、バウアーのように自由主義者をただ切り捨てるだけの批判にも反対しました。
それにたいするマルクスの批判をまとめてみると、以下のようになります。
- 新聞には、国家憲法についてのごく一般的な理論的論究というようなものはふさわしくない。
- 新聞にふさわしい「真の理論」は、具体的状況のなかで、また現存の諸関係に即して明らかにされなければならない。
- しかし、できの悪い論文であっても、一度論争が始まってしまえば、「一般的な理論的論究」も具体的問題に即した批判も、「両者とも考慮されるべき」である。
- プロイセン当局は、ライン新聞と他の日刊新聞との論争のなかで、あらゆる機会をとらえて、「検閲の強化」や「新聞の弾圧」をやろうとするに違いない。
- だから、「立憲的制限のなかで一段一段と自由をたたかいとる」ためには、「抽象の安楽椅子から彼らの矛盾をあらかじめ指摘」して、こちらの手の内をさらけ出してしまうようなことはやるべきではない。
- 政府の挑発にたいしてどう対応するか、全部分かった上でたたかいをすすめる必要がある。
さらに、批判のやり方としても、「はじめから同意を求められないような批判」――つまり、ベルリンの「自由人」たちの間だけで通用するような批判を展開してもだめだと指摘。新聞は、検閲が「現実的国家の問題、実践的問題」となったときに初めて、それにふさわしい批判をおこなう場になるのだといっています。
つづけてマルクスは、「ライン新聞」が、寄稿者によって指導されるのではなくて、寄稿者を指導するようにならなければいけない、ということも言っています。つまり、寄稿者が好き放題書くのではなくて、編集部がきちんとした編集方針をもち、それにあわせて寄稿者に記事を書かせる必要があるということです。
もう1通の手紙は、1842年11月30日付のマルクスからアーノルト・ルーゲへの手紙(『全集』第27巻、355-358ページ)。この段階では、すでにマルクスは主筆になっています(『全集』では、さきほどの手紙の次にでてきます)。
ここでは、検閲によって、「ライン新聞」の発行に困るほどだといいつつ、その理由として、「自由人」たち(「マイエン一味」)の原稿を批判しています。
というのも、マイエン一味は世界変革をたくらんだ無思想のなぐり書きをだらしない文体で、(この連中が一度も勉強したことのない)無神論とか共産主義といったものと混ぜ合わせ、束にしてわれわれのところに送ってよこし、ルーテンベルクが批判にも自立性にも能力がまったく欠けているのにつけこんで、『ライン新聞』を彼らの意思のない機関紙とみなすのが習い性となってしまったのですが、私はこのような旧態依然たる放尿ぶりをこれ以上許すわけにはいかないと思った……。
このルーテンベルクという人物は、批判の能力も、編集者として方針を貫き通す自主性にも欠けた人物で、そのためにベルリンの「自由人」たちのやりたい放題になっていました。そこで、マルクスのとりなしで、ルーテンベルクはドイツ担当からフランス担当となったのですが、結局、検閲当局に目をつけられ、「ライン新聞」編集部から罷免されることになってしまいました。ところが、ルーテンベルク本人は、“自分こそが『ライン新聞』の中心であって、だからこそ追放されたのだ。編集部は当局と気脈を通じて自分を追放した”と、あちこちに触れ回ったのです。
マルクスのもとには、そのルーテンベルクの言い分を鵜呑みにした「小人マイエン」から手紙が来て、「自由人」にたいするマルクスの態度や、「ライン新聞」編集部の政府にたいする態度について質問してきました。それで、マルクスは、次のように、自分の考えを「忌憚なく」答えたという訳です。
……自由な、したがって自立的で深い内容においてというよりも、むしろ常軌を逸してサンキュロット的でありながら、しかも安楽な形式のなかに自由を見いだす彼らの仕事の欠点について、私の考えを忌憚なく述べました。あいまいな論証、大げさな文句、うぬぼれた自己描写をもっとおさえ、もっと明確に、もっと具体的状況の中に入り込み、もっと専門知識を表に出すよう、私は要求しました。
さらに、マルクスは、こう続けています。
共産主義や社会主義の教義を、つまり新しい世界観を付随的な劇評などのなかにもぐりこませることは不適当であるばかりか、不道徳だと私は思うし、もし共産主義が論じられるなら、まったく別の、もっと根本的な論評が必要だと、私ははっきり言いました。さらに宗教の中で政治的状態を批判するより、政治的状態の批判の中で宗教を批判するよう、私は要望しました。というのは、このような言い方の方が新聞の本質や公衆の教養にかなっているし、また宗教はそれ自体無内容で、天によってではなく地によって暮らしており、それが転倒した現実の理論である以上、その現実の解体とともにおのずから崩壊するからです。最後に、もし哲学について語られるのであれば、「無神論」などという商号を掲げてふざけるのではなく……、むしろその内容を民衆の中にもちこんでほしいと私は考えました。
ジャーナリズムとして、専制政治とのたたかいの前線にたつマルクスの考えはきわめて明瞭。
- あいまいな論証や大げさな文句、うぬぼれた自己描写はやめて、もっと明確に、もっと具体的状況にしたがって、もっと専門知識を生かした批判を書くこと。
- 社会主義・共産主義の新しい世界観を、演劇評などにもぐりこませるのではなく、論じるのであれば、もっと正面から根本的に論じるべきだ。
- 宗教にかこつけて政治を批判するのではなくて、政治の批判のなかで宗教の批判もあわせておこなうようにすべきだ。なぜならば、宗教というのは、それ自体内容がなく、「転倒した現実の理論」である以上、現実が変革されれば、おのずと問題は解決するからだ。
- 哲学についても、「無神論」などという大仰な看板をかかげるのではなくて、その内容を読者の間にもちこむようにすべきだ。
これらは、いま私たちが論文を書くときにも参考になる大事な教訓といえるのではないでしょうか。