『資本論』第1部 第25章

「近代的植民理論」と題した章。

第24章「いわゆる本源的蓄積」の最終節第7節「資本主義的蓄積の歴史的傾向」の末尾で、いわゆる“否定の否定”が述べられたところで、資本主義から「協業と、土地の共有ならびに労働そのものによって生産された生産手段の共有」を基礎とする「個人的所有」の再建が明らかにされて、資本主義から未来社会への移行が明確にされた。だから、話はここで“大団円”となるはずなのに、なぜかそのあとに第25章が…。

ということで、これまで「付け足し的」な章と思って、テキトーにしか読んでこなかったのですが、あらためてつらつら読んでみると、これが意外といろいろ大事なことが書かれていました。いや?、面目ない… (^_^;)

たとえば、第25章の冒頭で、次のように述べて、「自己労働にもとづく私的所有」と「他人の労働の搾取にもとづく私的所有」 ((これは初版では「自己労働にもとづく私的所有」の「否定にもとづく正反対の資本主義的な私的所有」とされる。同ページ、訳注参照。))という2種類の私的所有の対立的区別が明らかにされている。

 経済学は、原則上、非常に異なった2種類の私的所有――一方は生産者の自己労働にもとづくもの、他方は他人の労働の搾取にもとづくもの――を混同する。経済学は、後者が、たんに前者の正反対であるだけでなく、前者の墳墓の上でのみ成長することを忘れている。(『資本論』新日本新書、第4分冊、1308ページ、ヴェルケ版792ページ)

そして、第25章の眼目は、「植民地」 ((ここでいう植民地とは、マルクスの原注(253)にあるとおり、「自由人の移住者によって開拓される処女地」のこと。アメリカは厳密な意味では「処女地」ではなかったが、移民者たちがネイティブ・アメリカンを追い出してしまったあとでは、ここでいう本来的な意味での「植民地」として発展した。))では、この2つの私的所有が、現在もなお目の前で闘争し合っているというところにある。ヨーロッパ西部では、すでに本源的蓄積の章で明らかにされたように、資本主義が発展する以前に、「自己労働にもとづく私的所有」は一掃されていた。

そこで、ウェイクフィールドが登場する。「ウェイクフィールドの大きな功績は、植民地について何か新しいことを発見したのではなく、植民地のうちに母国の資本主義的諸関係についての真理を発見したことにある」(同前、1309ページ)。つまり、「ある人が貨幣、生活手段、機械その他の生産手段を所有していても、その補足物である賃労働者……がいなければ、この所有はまだその人に資本家の刻印を押すものではない、ということを発見した」(同前、1310ページ)。

ところで、こういうウェイクフィールドの理論についてのコメントのあいだに、次のような重要な指摘が出てくる。

 資本主義的生産の大きな長所は、それが賃労働者を賃労働者として絶えず再生産するばかりでなく、資本の蓄積に比例してつねに賃労働者の相対的過剰人口を生産するというところにある。こうして、労働の需要供給の法則は正しい軌道のうえにすえられ、賃銀の変動が資本主義的搾取に適合する制限内に拘束され、そして最後に、必要不可欠な資本家への労働者の社会的従属が確保される。この絶対的従属関係……。(同前、1315ページ)

ここでマルクスは、資本主義が存続・発展する条件として、「賃銀の変動が資本主義的搾取に適合する制限内に拘束され」るということをあげている。では、賃銀を資本主義的搾取に適合する範囲内に押さえ込むメカニズムとは何か?

「賃銀の変動が資本主義的搾取に適合する制限内に拘束される」というときには、賃金率が問題になっているのだが、それを支えるメカニズムとして、マルクスは「相対的過剰人口」を考えている。つまり、労働者数を問題にしていること。つまり、雇用率が下がると賃金率も下がる、雇用率が上がると賃金率も上がる、こういう関係を、マルクスは前提にしている。問題は、はたして実質賃金率がそのように動くのかどうか、ということだ。これまでも議論されてきた点だが、確かに貨幣賃金率は労働力需要の逼迫の度合いで高低するだろう。しかし、実質賃金率というのは、労働者が賃金として得た貨幣額でどれだけの消費財を買うことができるか、ということ。したがって、全般的な物価水準によっても左右されるので、単純に、労働力需要が逼迫したからといって、実質賃金率が上がるとはいえない。

しかし、いずれにしても、「賃銀変動が資本主義的搾取に適合する制限内に拘束される」メカニズムとは何か? というのは、なかなかおもしろい着眼だと思う。

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