何から始めるか?

といっても、レーニンの論文ではない。偉大なるワルモノ大先生がブログで、若者の理論学習について、30年ぶりに再会した学生時代の友人との会話として、こんなことを書かれていた。

はげしく学び はげしく遊ぶ(石川康宏研究室): 熱気あふれる東京学習ツアー

「学習では身近な問題からはいることが大切、
体系に身近な問題を埋め込むのではなく」
「体系的な学びに自らいたる道をつくることに工夫がいる」

なるほど、「身近な問題」から入ることは大切だ。自分たちの問題から切り離されたところで、大理論をぶち上げてみても、頭の上を素通りするだけであることは明らか。

しかし、「身近な問題」には、いろいろな個別的な事情というものがからまってくる。だから、文字通り、本当に「身近な問題」から出発したのでは、個別的な事情についても明らかにしなければ、その問題がどういう問題であるか、本当の意味で解明したことにならない。

だから、「身近な問題」といっても、それは、あらかじめ個別的・偶然的事情は捨象して、普遍的な側面を取り出して、「身近な問題」として提示する必要がある。注意すべきことは、個別的・偶然的事情を捨象するからと言って、普遍化された「身近な問題」は、けっして「抽象的な問題」ではない、ということ ((分析にさきだって、対象から偶然的要素を捨象して、対象を理論的に整序することの重要性は、とくに見田石介氏が強調した点だ。同著『資本論の方法』参照。))。

たとえば、「賃金とは何か」というのも「身近な問題」だが、「賃金とは、労働力の再生産費である」という形で普遍化して持ち出してしまうと、いまの若者には、「いや、俺のもらっている賃金じゃあ、とても暮らしていけない」とか「年俸制はどうなる?」とか「1000万円を超える給料をもらっているサラリーマンがいたり、年収200万円にならない人がいたりするのをどう考えたらいい?」と文字通り疑問百出。収拾がつかなくなる(というか、僕が講義をやったときに、そういうふうにして収拾がつかなくなったことがある)。

だから、「賃金とは何か」という「身近な問題」を、どういう形で提出すれば、身近でありながら、同時に「普遍的な問題」あるいは法則的な認識につながってゆくか、ということを考える必要がある。(というか、僕自身が考えないといけない)。

搾取の問題でも、若者の学習会で講義をすると、「公務員はどうなる?」「学校の先生は?」「障害者の事業所で働いているが、僕も搾取されているのか?」などなど、これも疑問百出。だから、とりあえずは物質的生産に携わる直接的労働者に限ることを、どうやって正しく位置づけるか。これを「経済学とはそういうものだ」式にやってしまうと、もはや「身近な問題」ではなくなってしまう。

科学的社会主義の理論の体系的な学習ということを考えるとき、こうした点をどう突破するか。そこに工夫が求められると思う ((置塩信雄氏も、マルクス経済学の原論を学ぶさいに、今日においても、『資本論』どおり価値と使用価値から始めるべきかどうかについて、問題提起をされている。))。これは、個人的な努力にまかされるというよりも、学習運動全体で取り組むべき課題だと思うのだが、どうだろうか。

それはそうと、木曜日に11時間かけて伊東まで往復し、また土日と学生を連れて上京と、文字通りの東奔西走。疲れを知らぬ無敵ぶり、ほんとにご苦労さまです。しかし、くれぐれもお身体大切に。m(_’_)m

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください