爆笑問題 真面目に『蟹工船』を論ず

『週刊プレーボーイ』2008年7月28日号
爆笑問題が『蟹工船』を真面目に論じている『週刊プレーボーイ』2008年7月28日号

『週刊プレイボーイ』7月28日号(現在発売中)で、爆笑問題の2人が『蟹工船』について論じています。太田さんがいろいろとボケたりしながらなので、なかなか話が前に進まないのですが、なかなか興味深い議論が展開されています。(^_^;)

爆笑問題のそんなことまで聞いてない!(『週刊プレイボーイ』2008年7月28日号)

爆笑問題の2人が『蟹工船』を論じているのは、「爆笑問題のそんなことまで聞いてない!」という連載(第202回)。「『蟹工船』が売れています!」というテーマで、2人がこんなやりとりをしています。

 田中 プロレタリア文学作品の『蟹工船』が、今、再び売れ出して、蟹工船ブームとも言える状況なんだってさ。
 太田 現代におけるフリーターの労働問題とか、格差社会などと通じるものがある小説ってことで注目されてるんだよな。
 田中 ブームのきっかけは、漫画版が出版されたこととも、作家の高橋源一郎さんと雨宮処凜さんが毎日新聞で行なった対談でテーマとして扱ったことだともいわれているんだよね。
 太田 いつ、どんなものが売れるか分からないもんだよな。
 田中 最近ではドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の新訳がベストセラーになったりしているからね。
 太田 あと、去年だっけ。『人間失格』の文庫版の表紙を『デスノート』に変えたのがあったじゃん。
 田中 漫画家の小畑健さんが描いた表紙に変えたんだよね。
 太田 そしたら、最初に書かれていた「太宰治」って名前の人が死んじゃったっていうね。
 田中 作家の太宰治はだいぶ前に死んでるよ。わけのわかんねえこと言ってんじゃねえよ!
 太田 それで、今年も『伊豆の踊子』を『ジョジョの奇妙な冒険』の荒木飛呂彦の表紙に変えたりしてんだろ。おそらく登場する旅芸人もスタンドを持つことになるんでしょうね。
 田中 文庫の表紙を変えただけだよ。ストーリーまで変わってどうすんだ!
 太田 ま、『蟹工船』はそういう理由じゃなくて売れてるのはすごいかもな。
 田中 そうだよね。今年に入ってから急激に売り上げを伸ばして、文庫だけで20万部を超えたと言われてるからね。
 太田 まあ、カニだけに“横ばい”ってことですな。
 田中 急激に売上げを伸ばしてるって言ってんだろ! なにウマイこと言おうとしてんだよ!
 太田 でもさ、今の若者が自分のことを顧みて『蟹工船』を読んでいるわけだろ。過酷な条件で働く労働者が立ち上がるって話で、ネタばれになっちゃうからはっきりとは言わないけど、最後には…。
 田中 あんまり救われないというかね。
 太田 カニ道楽を立ち上げるっていう。
 田中 言ってる意味がわかんねえよ!

ところで、このあと、太田さんは、「プロレタリア文学は、あんまり好きじゃないんだよね」と、語り始めています。「好きじゃない」といっても、『蟹工船』などプロレタリア文学の意義を認めないというわけではありません。それを認めたうえで、それでも「好きになれない」ということを率直に語っています。

 太田 ただ、私のように演劇をかじった者としては、プロレタリア文学と呼ばれる労働者側の過酷な労働状況を題材にした作品ってのは、あんまり好きじゃないんだよね。
 田中 …あ、そう。
 太田 オレたちの時代は『寒鴨』とかを演劇の基礎として教わったりしてたじゃん。
 田中 ああ、あったね。鴨撃ちの猟師の話ね。労働者側と搾取する側の対立やなんかを描いてて。
 太田 そうなんですよ。我々の世代の演劇人は、ぶっちゃけそういう話ばかりをやらされてきたものです。
 田中 ちょっと待て。お前、いつの間に“演劇人”になったんだよ! さっきは“演劇をかじった者”だったじゃねえかよ!
 太田 なんて言えばいいんだろう。昭和初期のプロレタリア文学は反体制だったわけだよね。で、戦争を経て今度は堂々とそれが論じられるようになった。それはそれでいいんだけど、そうなると、その下の世代であるオレたちにとっては、今度はプロレタリア文学が体制側になっちゃったってイメージもあるんだよ。
 田中 オレたちが日芸に入った頃は確かにそうだったかもな。
 太田 すごさはわかるよ。宇野重吉さんの劇団民藝なんか素晴らしいとは思うけど、それが王道になっちゃってたから、なんか「やらされてるもの」「つまんないもの」って感じがしちゃってね。(以下、略)

このあと、“そういう状況はアメリカでも同じ、アーサー・ミラーの『るつぼ』や『セールスマンの死』が重用された”(太田)、“もう「これをやったらすごい」みたいな特別な位置の作品なんだよ”(田中)と話し合ったあと、「そのセールスマンが全米でカニを売り歩いてる」(太田)というのでオチがついてます…。(^_^;)

それはともかく、まあ、ある意味、これは率直な感想かも知れません。

研究動向を世代論で論じても始まらないのですが、歴史研究の世界でも、僕が大学院に進学したころは、戦時下で日本の敗北を予測して密かに研究をすすめた大先輩方や、あるいは敗戦直後に日本の社会変革と一体のものとして科学的歴史学を開拓してきた方々が、まだまだ現役で活躍されていました。その次あたりには、その圧倒的な業績と格闘しながら、何とかしてそれを継承・発展させようとする中堅どころの研究者の方々がいて、僕は、そういう人たちのしっぽの方に必死になってくっついていこうと、うろちょろしてた方です。

しかし、僕よりも下の世代になると、もうそういう大先輩の研究は、アカデミズムの赫々たる業績そのもの。勢い、「のりこえる」対象として見られるようになり、それこそ太田さんのいうように、「体制」として否定する傾向も生まれています。

しかし、現代思想の動向でもそうですが、ポスト・モダンだ、「脱構築」だと言って、大文字の「哲学」や「思想」を解体した揚げ句、現代思想がまったくつまらない、現実離れした“思考遊戯”になってしまったとき、同じ現代思想の潮流のなかからも、現実とのかかわりを模索する新しい動きが生まれてきています。それがどんなふうに発展してゆくのかは単純にいえませんが、そうした動きのなかからも、マルクスへの再注目が生まれているのは興味深いことです。

いまの『蟹工船』ブームも、これと同じ面があるのではないでしょうか。現実との再格闘という意味でも、日本の文学にとって着目すべき新しい動きなのかも知れません。

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