講談社の文芸誌『群像』8月号で、雨宮処凜さんが、評論家の森達也氏と対談をしている。森氏の議論は、盛り上げるためなのかも知れないがかなり挑発的(というか、決めつけ的で非生産的)だったが、雨宮さんの議論はしっかりしていておもしろかった。
たとえば冒頭、「プレカリアート」の運動について、森達也氏が「この運動が社会に何らかの影響を与えたというか、変えたという実感はありますか」と質問したのにたいして、雨宮さんは、こんなふうに答えて、この間の非正規雇用をめぐる運動の意義を強調している。
雨宮 すごく変わりました。たとえばグッドウィルの事業停止なんかは、この運動がなかったらあり得なかったと思うんです。
プレカリアートの活動家が、グッドウィルやフルキャストで組合を作ってデータ装備費や業務管理費を廃止させました。フルキャストには創業時からの分を返還させたり、グッドウィルにも2年分は返還、さらに過去10年にさかのぼって返還しろという集団訴訟をしたりして、さらにグッドウィルの違法派遣や労災事故などをどんどん告発していったら、社会的にもバッシングされて事業停止を食らった。そういう中で5月に日本人材派遣協会が製造業への日雇い派遣を禁止する自主ルールを制定したり。そういうことがずいぶん変わりました。
だけど根本的には、日雇い派遣や登録型派遣という働き方自体を何とかしなければ、という問題意識があり、そこはなかなか変わりませんでした。でも、秋葉原の通り魔事件で一気に流れが変わりました。舛添(厚労相)が日雇いは献金氏の方針を出したりして、合法的な運動より人を殺したほうが社会が動くという、ある意味ものすごい皮肉というか徒労感を感じました。
森 でも、これまでの運動の下地があったからこそ、事件が政治家のアクションに結びついたとも考えられるでしょう。
雨宮 だからこれまでの運動に意味はあったし重要なことだとは思うんですけど。
ところが、森氏は、これに対して、「運動そのものが社会を変えることはないと思います」と頭から否定。議論を盛り上げるためかも知れないが、相当無礼な奴か、そうでなければ相当なバカだと思ってしまう。
このあと、森氏は「運動には当然ながらゴールのイメージがあるはずです。そのゴールである格差問題解消を理想とするならば、現段階はどの程度まで来たと分析しますか」と質問。こんな議論が展開する。
雨宮 全然だめですね。最低賃金が上がってもせいぜい8円とかですし、正社員が増えているわけでもない。偽装請負が横行する現場に正社員化の行政指導が入っても、正社員化されたのは0.2パーセント程度で、しかも期間工だったりしますし。
森 格差の構造ということから考えると、一部の高額所得者が利潤を独占して、プレカリアートがその割を食っているわけだけど、仮にその独占された利潤を分配したところで、全プレカリアートの給与水準が普通になるとは思えない。つまり格差がなくなることはない。
雨宮 格差はあってもいいというのが私の意見です。だからグッドウィルの元会長の折口が36億円のジェット機を買おうと軽井沢の別荘にボウリング場をつくろうとかまわないんです。でも、グッドウィルで働いている人が12時間拘束されて6000円くらいしかもらえない状況をなんとかしたい。……
そういう人たちがホームレスになったり飢え死にしそうになっているので、それをなんとかして、最低限自立生活ができて結婚ができるくらいにしたい。というかそれが最低限の国の義務だろ、と。
なかなかしっかりした議論だと思うのだけれども、森氏は引き続き「そうなると最終的には世界同時革命?」など、無責任な発言をくり返す。そんななかで、「貧乏人がつながってのさばることをめざしている」という雨宮さんの発言をとらえて、こんな議論が展開する。
森 貧乏人がのさばる? ブルジョアの資本を再配分するという理念が薄いのなら、結局は国力や総生産が下がるだけという可能性はある。気がついたら誰もが貧乏になってしまいました、ということになりかねないと指摘されたら?
雨宮 それでいいじゃないですか、とあえて言いたいです。だって、つねに経済成長していかなければという脅迫観念で、過労死したり、名ばかり管理職が残業代ゼロで働かされたりたりしているじゃないですか。今のシステムでは誰も幸せになっていない。
森 その結果、みんなが貧乏になることを目指すの? 自分たちが貧乏だから一緒に貧乏になってくれというのは甘えじゃないかと金持ちにいわれるんじゃないかな。
雨宮 じゃあ、おまえがお金を分配しろといいます。
森 結局そうなりますよね。そうなるとやっぱりプロレタリアート独裁だ。
雨宮 独裁だったらどうなるんですか?
森 マルクスによれば、資本主義から共産主義にいたる過渡期の時代だから、やっぱり雨宮処凜は革命を起こそうとしているということになる。
雨宮 革命といわれると違和感があります。自分たちのやっているのは労働/生存運動だと思っているので。金融資本に対する攻撃の一方で、ダメな人たちがそのままでも生きていける緩い社会も求めていきたい。本田由紀さんがいっているハイパー・メリトクラシー(超業績主義)というのがあるじゃないですか。職業だけでなく、普通の人間関係においても、空気を読むだとかコミュニケーション能力だとか、全人格的に判断されてしまう。それってかなりきつくて、結局「人間力」のある人じゃないと就職どころか人間関係も作れない。なので、KYでも生きていける社会にしようよ、という感じです。
森 それは資本主義を否定して社会主義国家にしようという発想と何が違いますか? あるいは違わないのかな。
雨宮 そこまでの話はしていないです。ただ、今の資本主義のあり方はおかしいとは思っています。
森 ならば違う資本主義形態の可能性はあると思う?
雨宮 新自由主義は嫌だというのは共通する意見です。すべての規制をとっぱらった完全な自由競争じゃなくていい。今の状態では多国籍企業だけが暴利を貪る構造なので、ある程度の規制をかけた方が今よりはましだろうと。
森 つまりかつての日本ですね。今よりましだ、ということで納得できるのなら、プレカリアートはひとつの運動で終わる。さらに高い理想を目指すとなったら、それはテロや革命になるかも知れない。
雨宮 いや、そうはならないと思います。どうしても「テロる」とか「革命」といわせたいみたいですね(笑)。
これこそ、雨宮流「資本主義の限界」論。資本主義か社会主義かという議論は「そこまでの話はしていない」とかわしつつ、「今の資本主義のあり方はおかしい」「すべての規制をとっぱらった完全な自由競争じゃなくていい」「ある程度の規制をかけたほうが今よりはまし」と、スタンスは明確。
ところで森氏は、こんな見当外れな発言もしているが、これにたいして、雨宮さんは、慌てず騒がず、しかし、こんな議論にとどめを刺す反論をしている。
森 僕も二十代はフリーターでした。時はバブル期で同世代は海外旅行やらゴルフやらディスコやらの時代に、ハコベを入れたインスタントラーメンを主食にして生きていた。おまけに少数派です。フリーターという命名すらなかった。孤独でした。そんな体験があるから、今のフリーターたちも何とかなるんじゃないと思えてしまうんだけど。
雨宮 「何とかなる」といえるのは何とかなった人なんです。森さんの世代でも何とかならなかった人は野宿者なんかにいっぱいいて、そういう人は「何とかなる」なんていわないです。
雨宮さんは、さらに続けて不安定雇用のもとにおかれた人たちの状況を、リアルに指摘。
今こちら側が何ともならないのは、バブル期やそれ以前と違って、新卒でも就職できない状況があります。新卒の就職率がバブル期と2003年とかだと30ポイント近く違う。それでも働かなければ食べていけないので、就職できなければ派遣やフリーターや契約社員にならざるを得ない。一度なってしまうと本当に出口がないんです。資格を取るために勉強をしようにも、時間もお金もない。自分が働いている間にもどんどん新卒は社会に出てくる……。
経団連のアンケートでは、フリーターを積極的に正社員として採用したい企業は1.6パーセントです。この数字が象徴するように、一度フリーターになった人には出口がないんです。非正規雇用だと、30代になっても40代になっても、学生バイトの頃と同じ時給で働いていなければならない上に、ボーナスも昇給も昇格もない。そういう中でどんどん疲弊していっている状況です。
さすがに森氏も、これには反論もチャチャも入れられず、「メディアはこの状況に対してどう機能していますか」などと話題を転じざるを得なくなっている。
このあと、森氏は、秋葉原連続殺傷事件に関連して、「同じ年頃の女の子と出会いがあるかも知れない、というような希望を抱かせる雰囲気づくりもできるといい」と発言。本人は、気の利いたことをいったつもりなのかも知れないが、これがたんなる思いつきでしかないことは、その直後に「非正規雇用者というのは男性が多いんでしょう」などと発言して、雨宮さんに「いえ、女性の方が多いです」と反駁されてしまっていることからも明らかだろう。
それにしても、死刑廃止論でそれなりのことを書いていると思っていたが、森達也氏がこんなテキトーな発言を平気でする人物だったとは…。(-_-;)
雨宮処凜さんは労働者の代弁者だ。
かわいくて、素晴らしい女性です。